そして運命の日 2
19時過ぎ、ようやく鏑木の熱が下がり始めた。
「ちょっと熱が下がってきたか」
鏑木の脇にさした体温計は、ピピッという音とともに37.5℃を表示した。
スマホで新幹線の時間を確認する。到着は真夜中にはなるが、全然まだいける時間だ。
「鏑木、行けそうか? 行けそうなら駅に向かおう」
布団から抱き起こすと、鏑木が小さい声で「まだだりぃ」と呟いた。
「まだ無理そうか」
額に手をやろうとすると、鏑木がその手を振り払った。
「……今日じゃなきゃだめなのかよ」
「え?」
「俺、体調悪ぃのに。……んで、行かなきゃなんないんだよ」
なんだか拗ねたような、不貞腐れたような顔。
刻々とあの日が迫る今、早くここから脱出しないといけないのに、なんで急にそんなことを言い出すのか。
その表情の意味を考える余裕のない俺は、なんとか説得しないとと、気ばかりが焦る。
「お前な……だからちゃんと説明したじゃねーか。今日行かなきゃ、お前が死ぬかもしれねーんだって」
「……それ、木嶋が助けたいのって、俺じゃなくて木嶋の知ってる前の俺で、だから今の俺の体調は無視すんだな」
「何言って……」
昨日まであんなにはしゃいでいたのに。意味が分からない。
そんな俺の戸惑いをよそに、小さな声でボソボソと、鏑木が呟く。
「な、これって実験か何か? 俺、お前の実験につきあわされてんの?」
「――え」
「こうやって東京行ってその日が無事過ぎてもさ。ここに戻ってきたら、一週間も勝手にいなくなって、親父から逃げたのバレバレで、結局俺が親父にひでー目に合わせられるんじゃねーのかなって」
「そ、それは……」
なんでいきなりそんなこをと言い出すのか、俺にはさっぱり分からなかった。実験とか、そんなこと考えたことなんかない。
でも鏑木の言う通り、根本の解決ができていない今、すべてが終わって戻って来た後、俺たちはどうなる? 鏑木の死が、3月4日より前という限定的なものではない可能性も、確かにあるのだ。
「なあ、俺本当に死ぬの? 俺わかんねーよ」
そういって布団にうずくまる鏑木。
もしかして俺は意味のないことをやっているか。頭の中が真っ白になる。 動機がして、頭が混乱して……いや、だめだだめだ。しっかりしろ俺。きっと鏑木は、熱のせいで気持ちが弱ってるだけだ。未来を変えるには、これしかないんだ。
鏑木を説得しようとした。その時。
外廊下に足音が響き、うちの玄関のチャイムが鳴った。
静かな部屋に響くピンポーンという音に、鏑木がビクリと跳ねる。
「……誰だ?」
玄関ドア横にあるキッチンの窓に、ぼんやりと人影が映った。シルエットに見覚えはない。宅配や郵便の人でもない。それ以外でうちに来るのは、大家さんくらいしかいない。
しばらく黙っていると、しびれを切らしたのか、もう一度チャイムが鳴り、外から声がかかった。
「……すみません。木嶋くんのお家ですよね。鏑木の父です」
「え……親父?」
鏑木が驚いて顔をあげた。
「春壱が熱を出して、学校を休んでますよね。夕方、学校から大丈夫ですかと連絡があって、それで様子を見にきたのですが」
体がゾクッとした。なんで家を知ってるんだ。
「鏑木、うちを親父さんに教えたのか」
鏑木が戸惑ったように首を振る。
「教えてない。木嶋の名前も出してない。……でも同棲相手が同級生だってことは、言ったかもしれない」
「……じゃあ、なんで知ってんだよ。担任にでも聞いたのか?」
クソッと思わず声が漏れる。電気もついているから、暗い外からだと居留守してもバレバレだろう。鏑木にここでじっとしているよう告げ、仕方なく俺は、玄関に向かった。
「……はい」
「木嶋くん? 鏑木の父です。ウチの春壱がご迷惑をおかけしました。もしインフルなら登校許可証明書が必要だと、先生から連絡があったものですから」
ドアを開けようとすると、前回起こったことがフラッシュバックし、手が震える。俺を殺そうとする鬼のような表情。親父さんを殴りつけた生々しい感触。手に残る痛み。そして、忘れることのできない生臭い血の臭い。
――ヤバい。身体が動かない。
動悸がして息苦しい。手の震えが止まらない。ドアを開けるのが怖い――
「……木嶋?」
背後から鏑木の声がして、ハッと我に返った。そうだ、しっかりしなくちゃ。
一度大きく深呼吸して、気持ちを落ちかせてから、もう一度ドアノブに手をかけ、思い切ってドアを開けた。
――そこには確かに鏑木の親父さんが立っていた。
暗いスナックの店内ではなく、外で見るのは初めてだった。スナックのボーイ姿ではなく、よれっとした古臭いジャージ姿で、ニコニコと笑うその顔は鏑木にどことなく似ていて、こんな顔だったのかと少し驚いた。鬼の表情とは程遠い――。しかしこんなに愛想のいい、鏑木の親父さんを見たことがあるだろうか。
「ああ、君が! いやいや面倒をかけて悪かったね。熱はまだ高いのかな?」
「いや、あの、もう下がってきたので……インフルとかではないと思います……」
これまでにないほど穏やかな口調で、俺は拍子抜けした。
「そうですか。それなら良かった。春壱と会わせてもらえるかな?」
「あ、いえ、今は、その――」
どう言い訳して帰ってもらうか、俺の頭の中は必死でそのことばかりを考えていた。
「ああ、まだ寝てるかな」
チラチラと親父さんが、俺の肩越しに家の中を見回す。俺は内心汗ダラダラで、鏑木がちゃんと部屋の中で隠れてくれていることを、俺は心の中で祈る。
「ええ、そ、そうです。まだ寝てるんで……」
これを口実に早く帰ってもらうしかない。そう思ったとき、暗い外階段のほうから男が3人現れたのが見えた。暗くて顔は見えない。誰だ? と一瞬そっちに気が取られたそのときだった。
「ご迷惑だろうから、連れて帰りますね。お邪魔します。……おい」
親父さんから笑顔が消え、顎をしゃくると、さっきの男たちが俺のほうに向かって突進してきた。
「は……え、ちょ……!」
「坊主、ちょっと大人しくしておこーや」
一人が、容赦なくいきなり俺の体を掴み上げる。
「ちょ、ちょっとやめ……。ぐふっ……!」
そのまま乱暴に床へ体を押さえこまれ、その衝撃に肺から空気が漏れる。やめろと声を出したいのに、声を出すことができない。
「入るで」と靴のまま家に入り込んだ別の男が、ドカドカと鏑木のいる奥の部屋へ入っていく。鏑木の驚いた声のあと、「木嶋!! くそっ離せ!!」と暴れる音が響いた。
まさかこんなことになるなんて。背中に馬乗りになった男に頭を手で床に押しつけられ、俺は息をすることに必死で、鏑木のほうを見ることもできない。
「木嶋! 木嶋!!」
「か、かぶ……ら、ぎ……!!」
鏑木を連れた男の足が、俺の横を通りすぎるのが見えた。ズボンの裾をなんとか掴もうとすると、手を思い切り踏まれて阻止される。
「ぐっ……!!」
「木嶋くん、春壱はこれからしばらく仕事で忙しくなる。すまないが、もう来ないでくれないかな」
「親父、これどういうことだよ!? やめろ、木嶋に手ぇ出すなって!」
「春壱、恋愛ごっこはもう終わりだ。……行くぞ」
「木嶋!!」
玄関ドアが閉まると同時に、俺の背中に衝撃が走る。
「う、ぐぅ……!!」
「わりぃな坊主」
背中を思い切り踏みつけられ、痛みに体を丸めると、今度は横っ腹を蹴り上げられ、体が横にすっ飛んだ。鈍い痛みに「ぐえ」という声が出た。間髪入れずに、次の蹴りが入り、さらに体を丸めて防御の姿勢を取るが、顔を蹴られ、目をかばうため手で頭を抱えた。
痛い、やばい、まずい、また殺される。そんな恐怖が脳裏をかすめる。
ゆるむことがない暴力に、意識が飛びそうになる。
(やべえ……鏑木……)
遠くでパトカーのサイレンが、かすかに聞こえた。次第に近くなるサイレンに、男の動きが止まった。
「……なんだぁ、誰か呼びやがったのか。ちっ。いいか坊主、もうあいつらに関わるんじゃねーぞ。学生は学生らしく勉強しとけ。分かったか」
「ぐはっ……――――!」
とどめとばかりに踵で腹を踏みつけられ、のたうち回る俺を尻目に、男は玄関にペッと唾を吐いて出ていった。
「う……く、そ……」
――警察が来るのか。
脳裏に『君はハルイチが警察に連行される姿を見たいか?』という田崎の言葉がよぎる。このままだと、事情聴取とかで、鏑木のことがバレる。それはまずい。動かない体に気持ちだけが焦る。
「やば……かぶらぎ……、あー……くそ、いってっぇ……」
サイレンの音がすぐ近くに聞こえる。だがこのアパートの路地には辿り着いてはいないようだ。きっと通報現場を探しているんだろう。
そんなことよりも、早く立ち上がって鏑木のところに行かないと。またあの惨劇が、悲劇が起こってしまう。
行かなきゃ。行かなきゃ。焦りばかりが募っていく。
「お、おい、君、大丈夫か!」
開けっ放しのドアから、誰かが俺に声をかけた。
「うわ、血だらけじゃないか! ……高校生相手にひでーことするな。隣の者だけど、あんまりにもヤバそうだったから、警察呼んじゃったよ。止めに出られなくてすまん。こりゃ、救急車も呼んだほうがいいな」
救急車まで呼ばれたら困る。お隣さんがスマホを取り出したのを見て、俺は体を回転させてなんとか起き上がる。
「え? 大丈夫かい!? ……あ、もしもし、今ちょっと怪我人が……、あ、ちょっと君!!」
心の中でお隣さんに詫びながら、俺はお隣さんの手を振り払って走り出し、アパートの階段を駆け下りる。振動で体のあちこちが痛い。でも我慢すればなんとか走れる。アパートの前の道でパトカーとすれ違ったが、周囲が暗がりだったせいか引き止められることはなく、そのまま鏑木の家のほうへ突っ走った。
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