なにがあった?
「それで? どうしたんだよ。追いかけられてねーなら、その傷はどうしたんだ」
返事の代わりにずずずとうどんをすする音が返ってくる。口の中が切れているのか、鏑木は熱々のうどんを、時折顔をしかめながらゆっくりとすすっている。
「鏑木、今日なにかあったからウチに来たんだろ?」
「……」
鏑木は俺の問いかけを無視し、最後に残った汁まできれいに平らげると、小さくふぅと息をついた。
「――木嶋の言ってたこと、合ってたわ」
「え? 何? なんの話だ?」
「今日俺さー、ウリの仕事だったんだよな」
「え、は?」
いきなりウリという言葉が出て、俺はちょっと面食らった。
鏑木が俺に、自分からウリの話をすることは、これまであり得ないことだったからだ。
「そ。今日の客、ちょっとしつこいヤツでさー。まあ、あんま詳しく言えねーけど、強引で無理強いがひどいっつーかな。それで面倒だったから、一応ヤるだけやって客がシャワー浴びてる間に、こっそり逃げたのね。そしたらホテルの外に、そいつの仲間が待っててさ」
「で、殴られたのか!?」
「俺、それで気づいた」
「何に?」
頬が痛いのか、鏑木は机に置いていた保冷剤を手に取って、頬に当てた。
「木嶋が言ってた、〝男たちに追いかけられてた俺〟の話。それって、これのことだって。俺一人で外出たらこいつらに追いかけられて、木嶋のバイト先の前を通るコースだって。ちょっと怖くなってさ。そしたら外に出られなくなっちゃって。ホテルのロビーにいたら、俺を追って出てきた客に殴られた」
鏑木が追われてた理由って、それだったのか。
俺はてっきり、行きずりの奴らの絡まれて喧嘩になったものだとばかり思っていた。
まさか、そんなことだったとは。
俺は愕然として言葉が出なかった。
「――なぁ、俺、来年死んじゃうのか?」
頬を保冷剤で押さえた鏑木の声が、少し震えたように聞こえた。
「今日の客さ、なんかヤクザなのかなんなのか分かんねーけど、いつも下っ端みてーな奴ら何人も連れてスナックに来てて、そいつらにアニキとか呼ばれてて。その客あっちのほうはしつけーけど、俺には優しかったし、これまで何とも思ってなかったけど、殴られたとき、『あー俺、誰にいつ殺されてもおかしくねーかも』って、やっと気付いた」
「鏑木……」
「まだ木嶋の話を全部信じたわけじゃねーけど、俺がヤバい状況にいるのは理解した」
声を震わせる姿につまされ、思わず鏑木を抱きしめた。
「俺、殺されんのヤだ。死にたくない」
「大丈夫だ! 絶対に大丈夫だ」
パーカーの中に感じる、骨にちょっと肉がついただけのような細い体。
あの日スナックの二階で、布団の上に転がされていた鏑木の死体が頭をよぎり、さらにきつく抱きしめた。
「……嘘つけ。何度も失敗してるから、お前今俺んとこいんだろ」
「今度は絶対に死なせない」
「ホントかよ。……つーか痛ぇし」
「……!」
きつく抱きしめ過ぎたかと慌てて体を離すと、鏑木が「ったくよー」と、片手で自身の体を擦った。
「すまん、つい。……なあ。もしかして、やっぱり顔以外にも殴られてるんじゃ……」
「ねえって。てめーがバカ力なんだよ」
本当だろうかと注意深く鏑木の体を眺めると、首元に内出血を見つけた。
ちょうどパーカーの襟首に隠れるか隠れないかのあたりだ。
「ここ。ここもアザになってる。やっぱり顔以外も殴られてるんじゃ……」
俺が鏑木の首元を触ると、鏑木は俺の手を払い除けるようにして、パッとそこを手で隠した。
「これは殴られたんじゃねーって! 察しろよ童貞野郎!!」
そう俺を怒鳴ると、いててと腫れた頬を押さえた。
「……いや、童貞野郎じゃねーし」
童貞じゃないと反論する俺に、鏑木がハッと鼻で笑う。
「嘘つけ。あー、くっそー。見えるとこにつけんなよなー。……あの客、体に跡つけんだよ。そういうプレイしたけりゃ、自分の嫁にすりゃいいのにさー。結構多いんだよなーそういう客。マナー守れっての」
(え?)
ぶつぶつと文句をたれる鏑木の言葉に、鈍感な俺はやっと気づいた。
……以前、鏑木と一緒に風呂に入ったとき、鏑木の体にはアザのようなものがたくさん付いていた。
てっきり殴られた跡だと思っていたが、それもまさか。
(キ、キスマークか……)
「……おい、木嶋ぁ。お前顔赤いぞー。これだから童貞はよ〜」
鏑木がからかうようにヒャッヒャと笑う。
これまでの鏑木は隠し事が多くて困ったけど、今回の鏑木はあけっぴろげ過ぎて、これはこれでどう反応すりゃいいか少し困る。
「……なぁ、今日さ、ここ泊まっていい?」
「え」
「今日ウチ帰んの、ちょっとヤだっていうかさー。そういう気になれねーつーか……。明日にはウチ帰るからさ。それとも俺が今日ここに泊まったら、未来に影響するとかってある?」
「いや。お前が男たちに追いかけられなかった時点で、もう前回の流れとは変わってるし。問題ねーとは思うけど……」
「なんだよ。迷惑か?」
「いや、迷惑じゃ……。でもちょっと問題が……」
「問題?」
もちろん断る理由なんかない。
俺としてはあのスナックの二階に帰したくないし、できればずっとそうして欲しいくらいの気持ちだ。
だが問題はそこじゃない。
「はぁ? 布団が一組しかない?」
「ああ。だからどうするかなって」
「ふーん。別に俺、一緒の布団で寝ても構わねーけど」
おい。こっちの鏑木、お前もか。
「は? いやでも狭いし……。それなら敷ふとんを横にして……」
「はぁ? 大丈夫だろ。俺寒いのヤだし。くっついて寝りゃいーじゃん。それとも俺と寝るの嫌なのかよ」
「いや、でも俺が……」
「あ、そかお前俺のこと好きなんだっけ? ダイジョーブ。お前のチンコ勃ってても俺気にしねーし。あ、それより風呂入りてーから、パンツとか着るもん貸して」
「……」
2回目のリープでは、布団を横にしてちょっと距離を空けて寝た。そして3回目では、一緒の布団。でもとくに何かあったわけでもなくて、ただ一緒に寝ただけだった。
「おい、ほれ、木嶋、こっち向けって。俺に抱きついていいんだぜー」
俺と同じシャンプーの匂いをまとった鏑木が、俺のスウェットに俺のパンツを履いて、俺の背中にピッタリとくっついてくる。
風呂から上がってダボダボの俺のスウェットを着た鏑木を見たとき、これだけ身長差があると、スウェットがワンピースになるんだなと感心したのと同時に、あまりの可愛さに衝撃を受けた。
(やべぇ。可愛すぎる。……俺、やっぱり鏑木のこと、好きなんだな)
今の鏑木は前とは違うからと、そのことは考えないようにしていたのに。こんなときに自覚してしまうとは。
「木嶋〜布団からはみ出てんじゃねーか。いいからこっち向けって。あとお前が体丸めると、俺も布団からはみ出るんだけどー」
そう言われて仕方なく寝返りを打つと、すぐ目の前に鏑木の顔があった。
ドキッとして思わず体を離そうとすると、「もうそういのいいからさー」と俺の体を掴んで引き戻した。
「いや、近すぎるって」
「ほれ、ちょっとくれーなら抱きしめてもいいんだぜー」
鏑木は俺の腕をとり、自分の体に無理やり巻きつけた。
あらためて感じる鏑木の体は、小さくて細くてとても薄くて、俺の腕の中にすっぽりと収まった。
こうして同じ布団で体を抱きしめていると、なんだかすごく変な気持ちになってくる。かなりマズイ。
「……木嶋、めっちゃ筋肉ついてんな。腕かったいし、太いし、重いしさー。体も弾力あるし、なんかすげー熱気がくるんだけど。もしかして体温高い? 何かスポーツでもやってんの?」
「……体温は気にしたことねー。昔空手やってた」
「ふーん」
体温高いのは、たぶん興奮してるからだ。俺、今、絶対顔が赤いはず。
好きな子と一緒の布団で、体を抱きしめてて、これで興奮しない男はいないだろ。
鼻先に嗅ぎ慣れたシャンプーの匂いのする鏑木の髪の毛があって、これ鏑木がちょっとでも上を向いたら、もうキスできる体勢じゃねえかと思った矢先、本当に鏑木が上を向いて俺を見た。
黒目がちな大きな目が、俺のほうを見つめている。
殴られてまだ少し腫れた頬にそっと手をやると、鏑木の顔がピクンと反応し、反射的に目を閉じた瞬間、俺は吸い寄せられるようにして、鏑木の口にそっとキスをした。
また何か言われるかなと思った。前のときみたいに茶化してくんのかなって。でも意外なことに、唇が離れると、すぐに鏑木はまた顔を下に向けてしまった。
「ごめん、つい」
「……俺さー、さっきから余裕ぶっこいてたけど、実は恋愛の経験ねーんだわ」
「え、マジでか」
「マジー。えっちなことは経験豊富だけどな。今日は泊めてもらうし、キスくれーならいいかなーと思ったけど、相手がマジだと、なんか恥ずかしーな」
前のときの鏑木は、俺を茶化すくらいには余裕があったように見えたけど、まさかあれも照れ隠しだったのだろうか。
もしそうだとしたら、俺は――。
「な、ちょっとの間だけこうしてていい?」
鏑木の頭に顔を埋めるようにして抱きしめると、鏑木が小さく「ん」とだけ言った。
細い小さな体を、抱きしめてその日は眠った。
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