松永の絵
そんなことを考えていた日から6日ほど経った頃、俺に松永の絵を見るチャンスが訪れた。
その日の放課後、たまたま外廊下を一人で歩いていると、大きな荷物を抱えた松永に出くわした。
何やら紐で括られた大量の箱や、パンパンに物が詰まった紙袋を両手いっぱいに抱え、前が見えにくいのかふらふらし、背の低い松永は見るからに大変そうで、思わず声をかけた。
このとき俺は絵のことなどさっぱり頭になく、松永を慕う純粋な気持ちから、手伝ってやろうと声をかけたのだ。
「先生! 俺、持ちます」
「え、あー木嶋。すまんな。すぐそこまでだと思って、欲張ってしまってね。助かるよ」
俺が近づいて申し出ると、松永はちょっと気恥ずかしそうに笑った。
「これ、どこまで持っていきます?」
「美術部で使おうと思ってるやつだから、美術準備室までなんだけど、運ぶのお願いしてもいいかい?」
「ああ、いいっすよ」
松永の手から箱の束をひょいと持ち上げた。
思ったよりも軽い。
紙袋の中は大量のファイルだったから、そっちのほうが重かったのかもしれないと思いつつ、積まれた箱で前が見えないよりはマシだろうと考えた。
「その箱、中は額縁なんだ。三年生の作品で一番いいやつを額にいれて、卒業前に渡してやろうと思ってね。こっちは三年の授業でポートフォリオを作ろうと思って注文していたファイル。思ったより重くて助かったよ」
「……ポートフォリオ?」
「作品集のことだよ。君たちにも来年作ってもらうよ」
松永はそうニコニコして言いながら、美術準備室のほうに向かった。
吹奏楽部の楽器の音が響く特別教室棟に入り、美術室までくると、松永が準備室の鍵を開けた。ドアをくぐると、冷えた空気と油絵具の匂いが鼻を刺す。
「あーごめんね、重かったろう。そこに置いてくれるかな」
「ここでいいっすか」
「うん、そこで」
壁に沿って配置された棚の空きスペースに、持っていた額縁の束を置いた。
「あーありがとう木嶋。本当に助かったよ。お茶出すから飲んでいきなさい」
「あー……いや、俺、ちょっと俺約束が」
鏑木と一緒に帰る約束をしているから、そろそろ教室に戻らないとなと思いつつ、ふとあの布のかけられたイーゼルが目に入った。
「先生、これ、先生が描いたやつなんですか?」
イーゼルにかけられた布は四角く角張っていて、誰が見てもキャンバスがこの下にはあると、そう思うはずだ。よし、俺のこの問いは不自然じゃない。
「見ていいっすか」
「えー、あーうん。って、ちょ、木嶋! ちょっと待った……!」
松永はお茶を淹れようとしていたからか、最初こちらを見ずに「うん」と言い、その後すぐに慌てたように訂正した。だがもう遅かった。
そのときすでに、俺はイーゼルに掛けられた布を取り払ってしまっていた。
「え、……これ……」
何が描かれているんだろう。花瓶とか花とかかな。それとも抽象画だろうかと、ワクワクしながら布を取った俺は、見た瞬間、目を疑った。
キャンバスに描かれたもの。それは――男性のヌードだった。
写実的に描かれたその絵の人物は、気だるそうい横向きで、足を広げ寝転がっている。
髪の毛は金髪で、細い肢体の男性。頭から太ももまでが描かれ、あろうことか性器までもがはっきりと描かれていた。
ヌードなど芸術の世界では当たり前のものかもしれない。でも芸術と無縁な俺は、例え同性のものであろうとも、なんだか見てはいけないものを見てしまったように思い、すぐに布を戻そうとした。だが――。
(……ちょっと待て。このモデル、鏑木に似てないか――?)
布を掛けようとした手が止まる。
「なんだよ、これ……」
戸惑っていると、持っていた布からハラリと写真が数枚舞い落ちた。キャンバスから布を取ったとき、イーゼルに立ててあった写真も引っ掛けてしまったようだ。
反射的に拾い上げると、松永が「それを見るな!」と声を荒らげた。
「……?」
手に持った数枚の写真、それはこの絵のモデルとなったものだろう。
それらはすべて、裸の男の写真だった。
薄暗く、巧妙に顔は見えないようにしてあるが、その派手な金髪と細い体は鏑木を彷彿とさせるものだった。
戸惑う俺の手から、布と写真が背後から奪うように取り上げられる。
「な、なんすか、これ……」
「あー……、木嶋くんに見られちゃったな。最初に見せる相手は、鏑木にしようと思っていたのに」
そう独り言のように呟きながら、松永はキャンバスの前に写真を置き、上からキャンバスを布で覆った。
「先生……この絵……」
鏑木はモデルなんかしたことないと言っていたはず。松永もモデルの話をしたら断られて、それ以来鏑木と仲が悪くなったと聞いた。
「……木嶋くんって、鏑木と仲良かったよな。聞いてない?」
「え……何がですか」
聞いてない? 何を? モデルをやっていることか?
なんだか嫌な予感がする。
「彼が、男相手にウリやってるってこと」
「は」
ウリ?
「この写真さ、随分前にネットで拾ったんだけどね。そういうゲイ向けのサイトがあって、そこに彼の写真をね、売ったやつがいたみたいでさ。そこには年齢とか体型とか簡単なプロフィールまで載ってて……まさか自分とこの生徒だとは思わなかったね」
松永は開き直ったのか悪びれる様子もなく、俺にこの写真の入手経路について語りだした。
俺はただ呆然として、言葉を発することも、反応すらもできない。
「さっきの写真見ただろう? 鏑木は綺麗だよね。だからモデルを頼んでみたんだけど、断られちゃってさ。仕方がないから写真を見ながら描いたんだけど。結構いい出来だと自分では思うんだ」
松永はキャンバスを布ごしにうっとりと撫でた。
「やっと出来上がったから、明日、鏑木に見せようと思ってね」
鏑木が松永を「キモい」と言って嫌う理由がやっと分かった。
松永が、最初から鏑木をそういう目で見ていたからか。
でもそれよりも、――いやそれも相当ショックだが、鏑木が男相手にウリをやっているという事実が飲み込めない。
(前の時間軸で、鏑木が男とやったことあるって言ってたのは、まさかそのことなのか?)
「木嶋くんもさ、鏑木のこと好きだよね。君、あからさますぎて、女子の間で噂になってるよ。キシカブとか、カップリング名までつけられて。女の子はそういうの好きだよね」
楽しそうにふふふと笑う松永に、俺は嫌悪感しかなかった。
「……先生、鏑木がウリやってるって本当ですか……」
「事実だよ。サイトで写真を売った人が、そう言ってたからな。じゃないとこんな写真出回らない。僕もお願いしてみようかと思ったんだけどね、さすがにそれはマズいかって……」
そう言い切る前に、松永の体が壁にすっ飛び、ゴツンと音がした。殴ろうと思って殴ったわけじゃない。 本当に無意識で、衝動的に手が出ていた。
「ひっ」
松永が頭を押さえて蹲る。
続けて殴られるとでも思ったのだろう。だが俺は、そんな松永を無視し、イーゼルから布を剥ぎ取った。そしてむき出しになったキャンバスを掴むと、思いっきり壁の出っ張りに叩きつけた。木枠を割り、布を引き裂き、その絵が鏑木だと分からなくなるくらいぐちゃぐちゃに。
――そう鏑木が、前の時間軸でそうしたように。
「やめろ、木嶋! やめてくれ……!」
松永の懇願も、俺の耳には入らない。
写真もビリビリに破き、床にばら撒いた。どうせデータは持っているんだろうけど、目の前にあるそれを破ってしまわないと、俺の気がすまなかった。
その間俺はずっと無言だった。ただ無言で写真を破き、キャンバスやイーゼルをぶち壊しまくった。
――俺は相当頭に血が上っていたのだろう。
気がつくと、すっかりと日が落ちて、準備室の中は真っ暗だった。足元にはバラバラに砕けたキャンバスやイーゼル。周囲の棚も倒れて、中身が床に散らばり、鏑木のときの比ではないくらいめちゃくちゃだ。
肩で息をしつつ、周囲を見ると、眼鏡を歪ませた松永が呆然と座り込んでいた。口からは血が出ている。
何度か俺を止めようとしたのだろう。力の弱い鏑木に殴られるより、よっぽど効いたはずだ。
俺のズボンの尻ポケットの中で、ブーブーとスマホのバイブ音が響く。
ポケットからスマホを取り出すと、鏑木から届いたメッセージの通知が表示された。
よく見ると何件も通知が入っている。俺が教室に戻らないから心配したんだろう。早く戻らないと。
「……先生」
そう声をかけると、松永がビクリと体を震わせた。
「もう鏑木には近寄らないでくれ。もし鏑木に近づいたら、俺、何するかわからないんで」
それだけ言い残し、俺は美術準備室を出た。
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