Ghost
樒
第1話
大学生になった時、カフェでバイトを始めた。駅前とか商業施設の中とかどこにでもあるチェーンのカフェ。店名にコーヒーと入っているものの、主に売れているのはシロップやミルクのたっぷり入った甘いラテや季節限定のフラッペだった。
きっかけは高校生の頃、新作のフラッペが出るたびに友達と飲みに通っていたことだった。大学生っぽい若い店員さんが多いからかフレンドリーに話しかけてくれるところ、忙しそうだけどいつでもニコニコと明るい表情で働いているところが印象に残った。
あ、なんか楽しそう。大学生になったら私も働いてみようかな。そんな軽い気持ちで始めたけれど、大きなトラブルもなく順調に日々が流れていった。住宅街に位置している店舗だから主婦や学生が多い大人しい客層で、アルコールを提供していないから酒に酔った客がトラブルを起こすこともない。
業務のためという名目でドリンクは作り放題、飲み放題なのも嬉しかった。お小遣いを切り詰めてドリンクを買っていた高校生の私がみたら羨ましすぎる賄いだろう。
想像していた通り、年の近い学生バイトが多く在籍していて、プライベートやシフト前後に遊ぶような友達もたくさんできた。
肝心の仕事内容も全然キツくなかった。確かに、慣れるまではレジ操作や焼き菓子の提供方法、ドリンクのレシピ、コーヒーの種類など覚えることはたくさんあったけれど、一度暗記すればあっけないものだった。
人と接することはもともと嫌いじゃない。全く知らない他人と『店員と客』という関係が生まれていくのは、これまで経験したことがない人間関係の築き方で少し面白かった。
特に、常連の客との距離が少しずつ縮まることが好きだった。働き始めてすぐに、面倒見の良い先輩たちから常連客の特徴やオーダーを教えてもらった。
「まあ、私たち店員サイドが覚えていなくても普通に注文してくれるけど、こっちが覚えといていつものですねって言ったほうがレジ入力も楽だし、早く作り始めることが出来てオペレーションがスムーズだから」
先輩の言葉だけ聞くと、どことなく冷たくビジネス重視に聞こえるけれど、実際にやってみるとこれは常連客側にとっても大きなメリットがあった。自分の顔や注文を覚えてくれているということは相手にとって少なからず好待遇を受けたように感じるのだろう。「覚えていてくれたんだ」という言葉と笑顔が返ってくれることは私の達成感にもつながった。スタンプラリーを攻略するように私はどんどん覚えていった。
火曜日と木曜日、オープンと同時にくるメガネをかけたおじいちゃん。近所に住んでいて散歩のついでに店内で一休みしていく。Sサイズのホットコーヒーにポーションミルク二つと角砂糖一つ。
金曜日の朝、昼食をテイクアウトで買っていくスーツ姿のお姉さん。一週間の終わりを頑張るためのご褒美ランチらしい。Mサイズのアイスキャラメルマキアートに海老とアボカドのサンドウィッチ。
日曜日の夕方、ユニフォーム姿のままやってくる男子高校生。店の近くの高校に通っていて部活の練習帰りに家に帰る前に寄り道してくれているらしい。Lサイズのチョコレートフラッペをホイップクリーム追加で。などなど。
仕事に慣れてくると最低限の業務だけではなく、客と話す余裕が出てくるようになった。
例えば、おじいちゃんに「今日は暖かいですね」「外の紫陽花が見頃でしたよ」と他愛ない会話ができるようになること。男子高校生に「なんのスポーツやってるの?」「来週は試合なんだ。頑張ってね!」と励ませるようになること。そうすれば、関係はまた一歩深くまで踏み込むことができる。
ただ一人だけ、全く打ち解けられていない人がいた。
彼女は水曜日の十一時に必ずやってくる美しい女性だった。その日が祝日であろうと、豪雨であろうと。いつも単色のワンピースを着ていて、無駄な贅肉がないほっそりとした体つきをしていることがわかった。真っ直ぐの黒髪を胸の辺りまで伸ばしている。飾り気のないシンプルな格好だけれど、周りをハッとさせるようなオーラがあった。背筋を正して綺麗に歩くから彼女はモデルなのではないかと私はこっそり疑っていた。
その美しさに圧倒されてしまい、他の客にするようなちょっとした雑談を持ちかけることが出来ないでいた。ただ黙って彼女の『いつもの』であるMサイズのカフェオレをマグカップで用意するのだった。
彼女はテラス席で大体一、二時間ほど過ごす。本を読むとか何かを作業をしている様子はない。ただじっと何かを考え込むように外を眺めて、時々カフェオレに口をつける。
働き始めて数ヶ月が経過したある水曜日、休憩に行く前に店内を一周してきて、と指示されて私はダスターで客席を拭いて回っていた。
暦の上ではまだ初夏だというのに、真夏と変わらないほど暑い日だった。冷房設備のない屋外のテラス席で過ごす客は彼女の他にいない。昼前の座席には太陽の光が燦々と降り注いでいて、ノースリーブのワンピース姿といえどもホットドリンクを飲む彼女が心配になった。
「あの、ここ暑くないですか。中のお席も空いてますけど」
「ああ、大丈夫」
心配になって声をかけた私に彼女は冷静な声で返事をした。声音とは裏腹に顔は赤くて首筋には汗が流れていた。それを見てしまったら、私も簡単には引き下がれない。
「でも」
「ここで外を眺めているのが好きなの。変わり者で心配かけてごめんなさいね。でも大丈夫だから」
「そうですか…。失礼しました」
それ以上続ける言葉もなくて、私は一礼をしてバックヤードに帰った。エプロンを脱いで休憩に入った私はレジで自分の休憩用ドリンクと一緒にミネラルウォーターを購入した。それを持って再びテラス席へ向かう。
「やっぱり心配なので、これ飲んでください」
「えっ」
押し問答になる前にボトルをテーブルに置いてさっさと退散する。
「私が勝手にやっただけなんで、他のスタッフには言わないでくださいね!逆に私が怒られちゃうんで」
室内につながるドアを開ける前にくるりと振り返り、それだけ言って素早く店内に戻った。
休憩が終わって仕事に戻ると彼女はもういなかった。気まずくなって帰ったのかもしれないし、いつもの滞在時間といえばそんな気もする。本当に具合が悪くなってしまったとかじゃなければいいけど。私の強引な行動に不愉快な思いをしただろうか。でも熱中症が心配だったのは本当だし、水一本買うくらい大した迷惑にもならないだろう。来週も来てくれるかな。ぐるぐる考えているとちょっとだけ不安になった。
だから翌週、私がレジ担当の時間に彼女が来店した時はほっと胸を撫で下ろした。
「あ、こないだのお水の子」
彼女も私の顔を見て気がついたようでパッと笑顔になった。そんな風に彼女が笑うところを見るのは初めてでちょっと可愛いなって思った。
「こんにちは、いつもので良かったですか?」
常連みんなに言っているお馴染みのセリフ、だけど精一杯の気持ちを込めて発する。
「うん、お願い」
会計を終え、ドリンク提供口に誘導する前に彼女が話しかけてきた。
「先週は本当にありがとう。お水の代金、今渡してもいいかしら?」
「いえ、本当に勝手に押し付けただけなんで気にしないでください。水なんて安いですし」
「でも…」
困った表情でその場を離れない彼女にもしかしてチャンスかもしれないとある案が閃いた。
「私、水曜日には大学の授業を入れてなくて、それでバイトのシフトに入ってるんです」
「うん?」
唐突な私の話にきょとんと首を傾げる彼女。
「だから水曜日は一日フリーで今日のシフトは正午までなんです。良かったら後でお話ししに行ってもいいですか?」
「別に構わないけれど、私が相手で退屈しないかしら」
「全然!いろんなお客様とお話しするのが好きなんで!」
満面の笑みを向ける私に彼女も少し口角を上げて頷いてくれた。
今日の彼女はネイビーのワンピースだった。時々、テラス席の方に視線を向けてその青がいつもの場所に収まっているのを見ながら残りの勤務時間を過ごした。
タイムカードを打ち、自分の退勤後のドリンクを持って彼女の向かいの席に座った。いつも通り、彼女は特にこれといって何かをしていたわけでもないようで、私を見て「お疲れ様」と微笑んだ。
「いつも素敵なワンピースで気になっていたんです。どこのブランドですか?」
まず、相手の持ち物を褒めてみる。これはうちの店長から教わったテクニックだった。
「ああ、これは自分で作ったの」
「えーすごい!」
大袈裟に驚く。私の武器は若さゆえの明るさしかないから、普段の自分以上に表情を作らなければならない。
「服飾関係のお仕事をされているんですか?」
「ううん、研究者だよ」
大学の先生とかテレビのコメンテーター以外でそれを仕事にしている人を見るのは初めてだ。
「専門はなんですか?」
「民俗学。その土地に伝わる風習とか文化を調べているの」
「私もそういう分野に興味があって…」
嘘だけど。彼女が目を輝かせたのを見て、そういう表情をもっと見たいと思ってしまった。私自身は就職に強そうなんて単純な理由で選んだ経済学部だった。でも偶然にも、私には国際学部に通っている友人がいる。その子が普段私に話す内容を思い出しながら、いかにも民俗学に興味があって入学した大学一年生を装って話を続ける。
彼女は自分自身のことはあまり話さなかった。けれど、彼女の研究分野である民俗学の話を持ちかけると、目を輝かしてあれこれ教えてくれた。たしかに、研究者になるくらいその学問が好きなんだから当たり前なのかもしれない。幼い子供が母親に今日の出来事を報告するように「聞いて!」という思いが全身から溢れている彼女の姿は普段と別人みたいだった。ひとしきり話し終えると彼女は我に返って頬を染めた。
「…私ばかり話し過ぎちゃったかしら。ごめんなさいね、若い人が興味を持ってくれるのが珍しいから嬉しくて」
そう恥ずかしそうに俯く彼女が可愛くて仕方がなかった。
「とっても楽しいお話でした!さっき言ってたこの部分って、私にはこう解釈できると思うのですけどどうですか?」
「ああ、それはね…」
私が質問を投げかけると、さっきまで反省した素振りだったのが嘘みたいにまた活発に話す。新しいおもちゃをもらった飼い犬みたい。楽しそうな彼女をみていると、私も嬉しかった。
「また来週もいる?」
「もちろん!待っていますね」
それから、彼女と話すために水曜日は午前だけシフトの希望を出すことにした。店員と常連客という関係を超えて彼女に近づこうとしていることに私自身も気が付いていた。でも、当時の私はそれを超えてみたかった。原因は十八歳特有の好奇心とか大人への憧れとかきっとそんなものだったんだろうと今は思う。
彼女のことが好きだったのかもしれない。彼女は美しくてミステリアスで、でもその一印象をひっくり返すほど子供みたいに無邪気で可愛らしい内面を持っていた。世間を知らない女子大生が恋するには十分すぎる相手だろう。
それに私は高校までずっと女子校通いで男の人と接する機会は少なかった。同じ学校に通う女の子たちと一緒に、近所の男子校のかっこいいと噂の男子を見学に行ったり、学園祭や体育祭を訪れたりしたことはある。友達に合わせて「かっこいいね」なんてきゃあきゃあ姦しく騒いだりもした。でも、本当に恋愛的な意味で異性を好きになったりしたことがあったかと振り返るとなかった気がする。
でも女の子に対して彼女に今、向けている感情と似たものを抱いたことはあるかもしれない。もしかして、私の恋愛対象は女性なのかもしれない。それとも、これから男性と交流する機会が増えれば、その中で異性愛を経験するのかな。そもそも、これは恋愛感情ではないかもしれない。私は彼女に対する憧れとか、客と店員という関係を行き過ぎる背徳感を混ぜて恋愛だと思い込もうとしているのかもしれない。
そうやって、関係も名前もない間をふわふわと漂うことの方が本気で恋愛するより楽しいことを、私はもっと後になってから気がついた。
水曜日のバイトの後、昼下がりのテラス席で彼女と歓談をするようになって、四度目の日だった。私は、大学の講義で『日本文化における地域性の違い』というテーマでレポートの作成を課せられて四苦八苦しているという話をした。その講義の担当である教授がお勧めする書籍が大学の図書館には置いておらず、購入するには高価過ぎて私は入手方法に頭を悩ませていた。レポートの内容以前の段階で行き詰まってしまっていた。
「その本ならうちにあるよ。来週、持ってこようか?でもなるべく早く欲しいかな」
この彼女の提案はまさに渡りに船だった。私たちはそのまま並んでカフェを出て、彼女の家に向かうことになった。
彼女の家は私のバイト先であるカフェから徒歩十分もしないところにあった。綺麗な高層マンションの一五階の一室。オートロックを解除してマンション内に入ると、ホテルみたいな広いエントランスとフロントマンのにこやかな笑顔に迎えられて私はすっかり恐縮してしまった。大人しく、彼女の後をついて部屋に入った。
マンションの外装からも分かる通り、部屋も綺麗で広かった。リビングには大きな窓があって、一五階からの見事な展望を見ることができた。でも、高級マンションや景色ごときでいちいち騒ぐのもいかにも子供っぽい気がして、勧められるまま黙ってソファに座った。
「バイトしているくらいだからコーヒーは飲めるよね。ブラックでいい?」
「はーい」
彼女は座らずに台所の方へ向かった。対面式キッチンのカウンターから彼女がコーヒーを用意している姿が見える。キッチンにはカフェのようなケトルや電動ミルが並んでいた。(流石に自宅用のコンパクトなモデルだけれど。)コーヒーメーカーではなく、本格的なハンドドリップでコーヒーを淹れていることに驚いた。けれども私が驚いていることを彼女に知られないように、平然とした表情で正面を向いて彼女を待っていた。
トレーに乗せて運ばれてきたカップの中身はふたつとも真っ黒な液体だった。あれ、彼女の分にはミルクを入れないのかな。店でいつもカフェオレを飲んでいるからブラックは好みじゃないと思っていたのに。カップを受け取って一口飲んだ後、聞いてみようかなと思って顔を上げるとこちらを見つめている彼女と目があった。
「美味しい?」
「…おいしいです」
バイト先では甘いドリンクか紅茶しか飲まないから、本当はコーヒーの味の違いなんてそこまでわからないけれど。
「よかった。お客さんが来ることなんて滅多にないから、誰かに飲んでもらうのは久々で、ちょっと緊張しちゃった」
コーヒーの感想が気になって私が飲む様子を眺めていたのか。安心したように笑う彼女はやっぱり無垢で可愛らしくて、好きだと思った。そうぼんやり思いながら彼女の顔を見つめ返していると、彼女は「じゃあ本を取ってくるね」と言ってさっさと部屋から出て行ってしまった。
来た時よりは緊張も少し薄れてきた。彼女もいないことだしゆっくりと部屋全体を見回してみる。と言っても、特に変な部分は見当たらない。ただ、私の実家よりは広くて綺麗で整理整頓されている部屋というくらいだ。キッチンと同じようにどの家電も最新式だ。
こんなところに一人で暮らせるなんてよっぽど研究者は儲かるのかな。でも研究者はお金持ちなんてイメージはないから彼女が特別に凄いのだろうか。そんな俗っぽいことを考えていると彼女が本を持って戻ってきた。それを受け取るとコーヒーを飲み干してから私も家に帰った。
彼女に借りた本のおかげで無事に課題を提出することができた。私はお礼と称してケーキを差し入れることを提案していた。もちろん彼女は一度は断ったけれど、私の強引さに負けて結局は了承してくれた。だから水曜日の今日はバイト終わりの私を待って一緒にケーキを買いに行き、また彼女の家に行く予定になっていた。
まるでデートみたい。いつも通り、昼前に来店してテラス席にいる彼女を眺めながら私は浮かれていた。その日は大してお客さんが来ずに、他のバイト仲間たちも暇を持て余していた。仕事中にもかかわらず、テラス席の方ばかりに視線を向ける私の様子をみて、先輩が話しかけてきた
「最近、あのお客様と仲が良いんだね。美人だけどなんか近寄りがたくない?」
「話してみると結構、面白いお話し聞けますよ〜」
機嫌よく返事をした私だが、続く先輩の言葉に耳を疑った。
「前は旦那さんとよく二人で来ていたんだけど」
「…ご結婚されているんですか?」
「そう、二人とも何かの研究者らしくって、よく二人で議論してたんだよね。他のお客さんに聞こえるとマニアックでびっくりさせちゃうかもって人の少ないテラス席にしてるって言ってた。いつも奥さんがドリップで、旦那さんがホットミルクを飲んでた」
私が働き始めて、この店で彼女がドリップコーヒーを注文したことは一度もない。
「ドリップってドリップコーヒーですか?」
「それ以外に何があるの〜?」
とぼけた質問をする私に先輩はケラケラと笑う。
「でも一人で来るようになってからカフェオレを注文してるな」
バイトが終わるとすぐにでも彼女に事実を問い詰めたかった。でも、なんて聞けばいいのかわからずに結局、いつもと変わらない表情でテラス席に向かい、いつもと変わらない会話をしながらケーキ屋さんに寄り道をして彼女の家に向かった。
彼女はザッハトルテを選んだ。私はケーキを選ぶ心の余裕なんてなかったから同じものを二つ買った。
「チョコが好きなんですか?」
「チョコが好きというより、乳製品があんまり得意じゃないの。だからケーキはチーズケーキかチョコケーキしか食べられない」
やっぱり変だ。乳製品を好きじゃないのに、ミルクがたっぷり入ったカフェラテをいつも注文するなんて。
「じゃあどうしていつもカフェラテを注文するの?」
「牛乳は嫌いだけど、コーヒーは好きだから。好きなものが半分入っているからなんとか飲める」
その回答に思わずぷっと吹き出してしまう。嫌いなものを好きなものと合わせることで克服するなんて子供の好き嫌いみたいだ。
―――でも、前はブラックコーヒーを注文していたんでしょう?そう尋ねる前に彼女の家に着いてしまった。
チョコレートと相性がいいコーヒーがあるからと言ってキッチンに立つ彼女。私も前回と同じようにソファに座ろうとして、端に何か落ちていることに気がついた。摘んで持ち上げてみるとそれは丸まった黒い靴下だった。
「ねえ、これって…」
腕を上げたまま、彼女の方を向く。彼女は「あ」と声を挙げたものの、何事もなかったようにコーヒーの用意に戻る。
「そのまま置いておいて。散らかっていてごめんなさいね。脱いだら洗濯カゴに入れてっていつも言っているのになあ」
「…旦那さん?」
自然な様子で愚痴をこぼす彼女に対して、私の声は震えていた。
「先輩から、前は旦那さんと二人でよくお店に来ていたって聞きました。最近は一人なのですか?」
「ああ、死んじゃったの」
単身赴任をしているの、みたいに軽く言う彼女に私は動揺した。聞き間違えかと思って、靴下を持ったまま呆然と立ち尽くしていると彼女はそのままコーヒーを淹れながら話を続ける。
「落石事故でね。あまり整備されていない土地に現地調査に行った時に運悪く。今年の三月」
「じゃあ、これは何」
死んだ人間は靴下を履けないし、リビングに脱ぎっぱなしにしたりなんかしない。
コーヒーを淹れ終えた彼女はカップとケーキをトレイに乗せてやってきた。立ち尽くす私を横目にソファに座り、コーヒーを一口啜った。
「習慣ってなんだと思う?」
習慣が一体どうしたのだと言うのだ。答えない私を彼女はもどかしそうに見つめて、新たな質問を加えた。
「じゃあ生きている時と死んでいる時って何が違うと思う?」
「何かも違うでしょう。死んだら、生きていた時にできていたことは全部できない」
「私は『考える』ことだと思う。死者は考えない」
私の回答に意見は述べずに彼女は言い切った。そしてフォークを手に取り、ケーキを食べながら話を続ける。
「あなたにも習慣ってあるでしょう。朝起きてカーテンを開ける。朝食にはトーストを焼く。歯磨きをするときは左下の歯列から反時計回りに磨いていく。それっていちいち考えなくとも自然にできるんじゃないかしら。悪い癖とかもそう。疲れているときは肘をついてご飯を食べちゃうとか、靴下をリビングに脱ぎっぱなしにして忘れるとか。もし、考えていたら改善できるもの。けれど意識しない限り変えられない。つまり、習慣は考えなくても成り立つ」
もぐもぐと咀嚼しながら彼女が自論を述べていく。私は話を理解するのに精一杯で何も答えることができない。
「死者にとっても生きていた頃の習慣は変わらずに残る。考えなくてもしていたことは肉体が無くても、脳が無くてもできる。だったら、暮らすことに生死は関係ないのよ。私の夫は幽霊になっただけで、生者である私には見えないけれど、生きていた頃と変わらずに一緒に暮らしているの」
私はそこでハッと気づいた。いつも彼女が座るテラス席には二人席であることに。
「じゃあ、水曜日もいつも一緒に来ていたの?」
「気がついてくれたんだ」
彼女は嬉しそうに言う。
「そう、ブラックコーヒーとミルクを合わせたカフェオレ。みんな見えないし、彼はもう飲めないから私が代わりに二人分飲んでいるの」
テラス席は一つの丸テーブルを二つの椅子が挟むように置かれている。一人席は店内のカウンターにしかないし、複数人用の座席を一人客が利用することは別に珍しくもないからこれまで気に留めていなかった。
「私の夫はね」
秘密を打ち明けるように、彼女は声を顰めて言う。
「研究には真面目だけど、普段は面倒くさがりで大雑把なところがある。味覚が子供っぽくて辛いものも苦いものも全然ダメ。カフェに行っているのにホットミルクを頼むなんてちょっと恥ずかしい」
過去形ではない言い方だった。
「でもそういうところが可愛くて、愛しているの」
うっとりという彼女。私の中で最初に浮かんだ感情は『ずるい』だった。『怖い』とか『気持ち悪い』ではなく。死んでもなお彼女から愛されている夫に、彼女と暮らす夫に嫉妬した。
「じゃあもし、あなたが死んだらそれでも水曜日は来てくれますか」
「うん、行くと思うよ」
あっさりと彼女は頷いた。「私とお喋りしてくれますか」と続けようとした時、彼女は言った。
「それが夫との習慣だから」
死んだ人間に勝てるはずがない。そこからどうやって帰ったのかはよく覚えていない。荷物を持って素早く玄関に向かった私に「ケーキ食べないの?」と彼女が呑気に言っていたこと、マンションを出てすぐの公園で人目も憚らずにわんわんと大泣きしたことだけ、断片的な記憶がある。
今、彼女がどうしているのかは知らない。彼女と顔を合わせたくない私は水曜日にはシフトに入らないようにした。規則的な生活を重んじる彼女は私のことを気にかけて別の曜日に来店するようなイレギュラーな行動は起こさない。元々、私との歓談は彼女の習慣に入っていないし、習慣になることもできなかったのだろう。誤差の範囲に収まってしまうような例外、その事実は私をさらに打ちのめした。
そもそも、彼女にとって店員はどうでもいいはずだ。彼女が守らなければならないのは『毎週水曜日の午後十一時、近所のコーヒーチェーン店を訪れてコーヒーとミルクを頼み、テラス席で自分の研究内容について考えを巡らせる』ことだから。
彼女と会わなくなって随分経つけれど、それでも彼女のことを思い出す時、あの高層マンションの一室で変わらない生活を送る彼女の姿が私の頭の中で簡単に再現される。
私の恋した人は幽霊の夫と暮らしている。その生活は規則的で変化を嫌い、穏やかで安定している。
きっと彼女が死んだ後も続くのだろう。
Ghost 樒 @sinonome_shikimi
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