【完結】アルゼンチンタンゴを踊らせて(作品231123)

菊池昭仁

アルゼンチンタンゴを踊らせて

第1夜

 「町田主任、もう一軒行きましょうよ~」

 「そうですよー、主任。

 たまにはいいじゃありませんかあー。

 ストレスを吐き出さないと。

 主任は家事に育児にお仕事で、いつも大変なんですからー。

 主任、カラダによくありませんよー、ストレスを溜めるのはー。

 イタリア人は言うじゃないですか? 食べて、歌って、恋をするために人は生まれたんだと。

 私たちもそれでいきましょうよ~、主任。あはははは」

 「そうですよ町田主任。

 人生はマンジョーレ!カンターレ!アモーレ!です!

 主任! アモーレ ミーオ!」


 部下の山田君も凛花ちゃんもかなり酔っていた。

 この子たちは未だに大学のサークル気分のままだ。


 希美のぞみはそんな凛花たちが羨ましくもあった。


 希美は本当の自分を心の奥底に深く沈めていたからだ。


 夫の浩紀ひろのりと結婚して6年が過ぎていたが、希美は渡された台本に書かれたセリフを、ただ棒読みする

だけの毎日を送っていた。


 余計なことを考えると生きるのが辛くなるからだ。

 妻として、母親として、主任として・・・。

 それらの役をすべて放り出したくなる時もある。

 もちろんそんな勇気は私にはない。

 私は弱い女だから・・・。



 「ごめんなさいね? 子供が待っているから今日はこれで失礼するわ」

 「残念だなあ~、今度は絶対ですよ」

 「今度は朝まで付き合うから」

 「絶対ですよー、町田主任~」



 私は凛花たちと別れ、一度は家路を歩き出したが、ちょっと寄り道して帰ることにした。


 それは朝、家を出る時、夫の浩紀と軽く言い合いになったことに起因する。

 ケンカの理由は他愛のないものだった。


 

 「あれ? 俺の靴が磨いてないじゃないか?」

 「それくらい自分でやってよ。

 私だって働いているんだから」


 私は家政婦でもベビーシッターでもない。

 結婚する前はマメだった夫は、いつの間にか暴君ネロのようになっていた。


 あれしろこれしろ、それはダメだ、それは出来ない。


 それが夫の口癖だった。


 そんな夫にも性欲はある。


 「なあ、いいだろう?」

 「今日は女の子だからダメ。

 明日も早いし、お休みなさい」

 「そうか。でもそろそろ、女の子が欲しいよな?」

 「今はムリ。大きなプロジェクトも任されているし」


 私はウソを吐いた。

 二人目の妊娠には躊躇いがある。

 時々「離婚」の二文字が浮かぶこともあるからだ。



 私は以前、グルメサイトで見つけたスペインバルへ行くことにした。


 携帯のナビに従い、その店を見つけた。

 ひとりでバーに入るなど、生まれて初めての経験だった。


 アーケードを一本挟んだ小さな路地に面してその店はあった。

 ひっそりとした灯りの店が並ぶ中、そこだけが綺羅びやかな照明が輝いていた。


 フラメンコギターと客たちの拍手や歓声が聴こえる。


 スペイン・バル『プレーゴ』 


 

 ぐるなびの評価が3.62の店だったこともあり、店内は満席のようだった。



 「いらっしゃいませ」


 髪をポニーテールにした、笑顔の素敵な20代くらいのスタッフが応対に出て来た。


 「いっぱいですよね?」

 「お一人様ですか?」

 「はい」

 「男性と相席はイヤですよね?

 うちのスタッフみたいなオジサンですが、ヘンな人ではありません。

 あの窓際の席なんですが・・・」


 彼女の視線の先には、窓際の丸テーブル席で1人でペーパーバックを読んでいる、丸い銀縁眼鏡をかけた、黒のタートルネックの50代くらいの男性がいた。


 私は一瞬迷ったが、少し酔っていたこともあり、相席を承諾した。

 今思えば、それは運命だったのかもしれない。



 「礼次郎さん、美人さんと相席してね?

 口説いちゃ駄目よ」


 その男性は私を一瞥すると、再び本に目を戻した。


 彼女が飲み物を訊いたので、私はラム酒を注文した。

 お酒など詳しくはないが、スペインバルなので、ただ何となくラムを選んだ。

 ラム・レーズンのアイスしか知らない私がである。滑稽だった。



 彼女はラムを取りにカウンターへと戻って行った。

 ポニーテールが軽やかに揺れていた。


 「すみません、おじゃまします」


 私は軽く会釈をして椅子に座った。



 「ここはなんでも美味い店ですよ」


 その男は本から目を離すことなく、そう呟いた。


 「そうですか? おススメとかありますか?」

 「ハモンセラーノと茹でピーナッツからスタートするといいでしょう。

 ラムに合いますから」

 「じゃあそれにしようかしら。

 すごいですね? 英語の本が読めるなんて」

 「『of cats and men』、くだらない猫と男たちの物語ですよ。

 ヒマを潰すにはちょうどいい本です。

 中学レベルの英語で十分読めますから」

 「私、英語は苦手なんです。

 英語が出来るだけで尊敬しちゃいます」

 「それじゃあアメリカ人もイギリス人も尊敬するんですか?」

 「そういうわけじゃないですけど・・・」


 私はクスっと笑った。


 「このお店の方と親しいようですが、ここへはよくいらっしゃるんですか?」

 「週に2回ほどです。

 あなたは初めてのようですね?」

 「今日は会社の飲み会の帰りなんです。

 二次会に行く気分じゃなくて。

 それで前から気になっていたこのお店に来てみたんです」

 「私は会社勤めをしたことがないのでよくわかりませんが、会社の飲み会など、そこにいない人間の悪口で酒を飲むわけだから酒が旨いわけがない。

 そんな不味い酒を飲むくらいなら、二次会は自分ひとりで静かに飲む方がいい。

 あなたのように」

 「なんだか疲れちゃって・・・」


 自分でも不思議だった。

 警戒心の人一倍強い私が、この男性には自然とプライベートな感情を吐露出来る。

 すごく穏やかな気分だった。



 「人間は機械じゃない。

 疲れるし、何もやりたくない時だってあるものです」



 ラム酒が運ばれて来た。


 「お待ちどうさまでした。ラムです」

 「ハモンセラーノと茹でピーナッツを下さい」

 「かしこまりました」

 「マリちゃん、私にもドンゾイロをお替り」

 「はーい」



 私はラムを飲み、やっと落ち着いた。

 

 「このカキのアヒージョも美味しいですよ。

 よかったらどうぞ。

 カキは大丈夫ですか?」

 「大好きです。

 それじゃあ遠慮なく」


 それを口にした瞬間、ローズマリーとニンニク、カキとオリーブオイルのいいバランスに私はうっとりした。



 「美味しいです! これ?」

 「言ったでしょう? ここは何でも美味しいって」


 そう言って無邪気に笑う礼次郎に、その時私は男性を意識した。





第2夜

 礼次郎というその男は不思議な魅力を持っていた。

 柔らかな物腰に隠された強い信念。

 やさしい瞳の奥に潜む深い哀しみと切なさ。


 礼次郎と話をしていると、どんどん彼の底知れぬ沼へと引き込まれて行くようだった。

 彼はいつの間にか読みかけの本を閉じていた。


 「いい店でしょう? みんな陽気で」

 「本当ですね? はじめて生でフラメンコを見ました」

 「情熱のカルメン。

 流石は闘牛の国、スペインです。

 音楽にも血と汗が迸るようだ」

 「日本じゃないみたい。

 あっ、私、町田といいます」

 「じゃあマチルダさんと呼びますね? 私は森田礼次郎です。

 親しい連中からはレイと呼ばれています」

 「じゃあ私もレイさんで。

 マチルダってあの映画、『レオン』のナタリー・ポートマンのことですか?」

 「いい映画ですよ、あの映画は。

 リュック・ベッソンは天才です。

 レオンの部屋の前で怯えながらドアが開くのを待っているマチルダ。

 面倒なことに巻き込まれるのがイヤなレオンは悩んだ挙げ句にドアを開け、マチルダに光が当たり、マチルダは安堵する。

 あのシーンでは泣けました。

 もちろんジャン・レノも良かったが、あの映画はゲイリー・オールドマンとスティングの歌う『Shape of my heart』が無ければ成立しない映画でした」

 「映画、お好きなんですね?」

 「ヒマですからね? 映画を観るか本を読むか、音楽を聴くか、こうして酒を飲むことしかありません」

 「レイさんご家族は?」

 「5年前に離婚しました。

 私には結婚は向いていなかったようです」

 「結婚すればいいというものでもありませんしね?」


 その時、夫の浩紀からLINEが入った。



       いつまで遊んでんだ!

       早く帰って来い!



 私は既読したまま、それを放置した。



 「結婚式の誓いの言葉をWedding Vowsと言います。

  

  

    いい時も悪い時も 豊かになって貧しくなって


    病気の時も 愛し 励まし 死が二人を分かつまで


    神の神聖なしきたりに沿って 支えます


    私は汝に忠誠を誓います



 とね?

 つまり結婚とは「この人を支え励まし、人生という苦楽を共に生きること」なんです。

 若い時はしあわせな結婚生活を夢に見て結婚する。

 だが現実には様々な障害が目の前に次々と現れ、歳を重ね、愛情が希薄になってゆくのです。

 結婚とは「覚悟」なのです。

 共に嵐の海を乗り越えて人生を航海する覚悟。

 同じ船に乗るということなのです。呉越同舟。

 この人を生涯愛し続けることが出来るかという「踏み絵」なのです」


 

 私は夫の浩紀を、本当は愛してはいないのだとこの時、はっきりと確信した。

 辛い人生を、浩紀と歩む自信は私にはもうなかった。


 私はラム酒を飲み、頬杖をついてただフラメンコを見ていた。


 掻き鳴らすフラメンコギター。

 バラを咥えカスタネットを叩き、床を踏み鳴らしてドレスの裾を跳ね上げて踊るカルメン。



 「オーレ!」



 私はまるでマドリードにでもいるような気分だった。



 1杯、そしてまた1杯と、私は酒を飲みすすめ、自分が自分ではないようだった。楽しかった、これまでの人生で一番楽しかった。



 「それではそろそろお開きといたしましょう。

 マチルダさん、お家はどちらですか?」

 「大丈夫、ちゃんと帰れますから~」

 「タクシーを呼んでもらいましょう」

 「だから大丈夫だって言ってるでしょうーっつ! あはははは」



 今度は夫から携帯に電話が掛かって来た。


 「いつまで飲んでんだ! 女のクセに!」

 「今日はオールナイトで飲むからね。

 さようならー」


 そう言って私は携帯の電源を切った。


 「旦那さん、心配しているんじゃないですか?

 マリちゃん、タクシーを呼んでくれるかな?」

 「今日は金曜日だから呼んでもムリよ」

 「じゃあ外で流れのタクシーを拾うしかないな? お勘定してくれる? 彼女の分も僕と一緒に」




 私は礼次郎にバッグを持ってもらい、カラダを支えられながら歓楽街をふらつきながら歩いた。

 すれ違う酔っぱらいたち。


 

 「大丈夫ですか? マチルダさん?」

 「気持ち悪い・・・」

 「ダメダメ、道路で吐いちゃダメです。

 そこのグレーチングのある、側溝で吐いて下さい」


 私は側溝にしゃがみこんで、胃の中の物をすべて吐いた。

 礼次郎はその間、私の背中をやさしく摩ってくれた。


 大きくて力強い男の人の手。

 そこにはやさしい思い遣りが込められていた。

 私は泣いた。思いっきり泣いた。



 近くにあった自販機で、礼次郎が私に水を買ってくれた。


 「飲んで下さい、少しはラクになりますから」


 私はその水でうがいをし、側溝にそれを吐いた。

 そしてゆっくりと水を飲んだ。

 美味しかった。

 水がこんなにも美味しい物だとは思わなかった。


 礼次郎は私をやさしく抱き締めて言った。


 「人生は天気と同じですよ、マチルダさん。

 晴れの日もあれば雨の日もある。

 また、飲みましょう。あの店で」

 「うん」


 私は少女のように頷いた。

 そして礼次郎を強く抱きしめ、再び泣いた。


 私と礼次郎は人気のないベンチに寄り添い、駅へと向かうタクシーを何台も見送った。


 私はこのまま時間が止まればいいと思った。

 




第3夜

 日の出を待って家に帰った。

 吐く息は白く、冬の街は朝日ですべてが黄金に輝いていた。



 無言で帰宅すると、浩紀はリビングで起きていて、私の帰りを待ち構えていた。


 いきなりビンタをされた。

 私は抵抗することはせず、浩紀を上目使いに睨みつけた。



 「いったいお前は何をしているんだ!

 お前は俺の女房であり、征也せいやの母親なんだぞ!

 いくら会社の飲み会だとは言え、いつまでほっつき歩いているんだ!

 今、何時だと思っている!

 女のクセに!」

 「その「お前」って言うのいい加減に止めてくれない?

 私はあなたの召使じゃないんだから」

 「お前は召使以下だ!

 召使ならご主人の言うことをちゃんと聞くもんだ!」

 「私が間違っていたのよ。あなたと結婚したことが。

 どうかしていたんだわ、私」

 「何を今更」

 「別れましょう。

 私はあなたを始めから愛していなかった。

 それが今、良く分かった」

 「ふざけるな!

 俺は絶対に別れないからな!

 征也はどうする? 可愛くないのか? 自分の子供が!」

 「それも良くわからない。あなたの子供だから」


 私はそのままパウダールームへと向かった。


 服を脱ぎ、歯を磨いた。

 鏡に映る自分が泣いていた。


 私は体を深く浴槽に沈め、携帯で音楽を聴いた。



    椎名林檎 『罪と罰』



        頬を刺す 朝の山手通り


        煙草の空き箱を捨てる



        今日もまた 足の踏み場はない


        小部屋が孤独を甘やかす




 離婚することを決め、私は嗚咽した。

 それは悲しいからじゃない。自分の人生を無駄にしたことへの後悔の涙だった。


 子供に征也と名付けたのは、元カレだった橋田智也の「也」という名をこっそりと付けたものだった。

 それを夫は知らない。


 征也の名を呼び抱き締める度、私は智也を抱いている想いがした。



 だがそれも踏ん切りがつきそうだった。

 礼次郎が現れたことで、私は閉じ込めていた自分の本能を、暗い深海の底から引き上げることに成功した。


 

 「ママー、ボクも一緒にお風呂に入るー!」


 おそらく浩紀の差し金であろう。どこまでも姑息な男だ。



 「ママはもう上がるから、パパと入りなさい」

 「だってママと入って来なさいってパパが」


 私は征也を無視してそのまま浴室を出てバスタオルで体を拭いた。




 夫は冷静さを取り戻したのか、私に謝罪した。

 

 「さっきは殴ってゴメン。

 天気もいいし、今日は家族でドライブにでも行かないか?」

 「征也を連れて行ってあげて。私は寝るから」

 「そうか」




 私は和室に客布団を敷いて寝ることにした。

 夫の匂いの染みついたダブルベッドに寝るのは屈辱だったからだ。


 夫と征也が家を出て行ったようだった。

 私は柾目の天井板を眺め、数時間前の礼次郎とのことを想い出していた。


 「レイ・・・」


 やさしいハグ、バス停のベンチでの彼のぬくもり・・・。

 私は久しぶりに自分を慰めた。



 数度の深いエクスタシーの後、虚しさに襲われた。


 私はひとり、役所へ離婚届を取りに出掛けた。 



 


第4夜 

 征也を寝かしつけた後、リビングではバラエティ番組を観て、大口を開けてバカ笑いをしている夫がいた。



 (そうだ、この男はこういう男だった)



 付き合っている頃のデートはいつもファミレスで軽い食事をして、そのままホテルへ行くのがルーティーンだった。

 SEXはいつも浩紀の自分本位のもので、


 「どうだ? 気持ちいいか? 気持ちいいだろう?」


 性行為の時、しゃべりすぎる男は興ざめする。


 私は彼を傷付けまいと、いつも気持ちのいいフリをした。フェイクだった。

 目を閉じて智也とのセックスを思い浮かべ、仕方なく彼を自分の中に受け入れてあげていた。

 それが苦痛だった。


 今思えば夫とのセックスは「愛のないSEX」だったと思う。

 私は1度たりとも満たされることはなかった。



 智也とは3年間同棲した。

 機械メーカーに勤める智也との同棲生活の延長線上には「結婚」の二文字が待っていると思っていた。



 「念願だったバンクーバー工場に転勤することが決まったんだ。

 これからは遠距離になるけど3年後、必ず希美を迎えに来るからな!」


 そう言って彼はカナダに旅立って行った。

 だがその約束を果たすことはなかった。


 智也は現地採用のナタリーという女と、あっさりと結婚してしまった。



 自暴自棄になっていたそんな時、声を掛けて来たのが大学の先輩だった浩紀だった。

 私は寂しさと喪失感で死にそうだったこともあり、そのやさしさに縋ってしまった。



 夫は今朝のことは私がもう気にしていないと思っているようだった。


 私は彼の座るソファの前のローテーブルに離婚届を置いた。


 「何だこれは! 本気なのか?

 後悔するぞ、こんなまねをして!」


 浩紀は激高し、離婚届けをビリビリに引き裂いた。


 「私の気持ちは変わらないわ。

 あなたがサインするまで何度でも持ってくるから」

 「いったい俺の何が不満なんだ?

 言ってくれ、極力直すから」


 今度は哀願するように夫は言った。


 「何が不満? あなたにはその認識もないのね?

 私はもうあなたを愛してはいない。一緒にいるのもイヤ」


 私は「あなたを一度も愛したことはない」と言おうとしたが止めた。

 それはあまりにもこの男には酷だと思ったからだ。

 この男は心の狭いガキ大将だった。

 核心を突かれると呆気なく落ち込んでしまう。



 「とにかく離婚はしない。それが俺の答えだ」


 私は何も言わず、再び和室に引き篭もった。





 朝、出社すると早速、凛花が私に珈琲を持ってやって来た。


 「おはようございます、主任!

 モーニングコーヒーです!」

 「ありがとう」

 「金曜日はお世話になりました。

 とっても楽しかったんですよ。

 主任も来ればよかったのにー」

 「そう、それはよかったわね?

 何時まで飲んでいたの?」

 「明るくなるまでです」

 「若いっていいわね?」

 「主任もまだ若いですよ、十分キレイだし」

 「お世辞だけは上手なんだから」


 「私も楽しかったのよ」と言いたかったが、もちろんそれは言えなかった。


 何事もなかったかのように、また今週が始まった。




 その日の仕事帰り、私はまた『プレーゴ』に寄った。

 夫には残業で少し遅くなるとLINEをしたが、既読のまま返事はなかった。



 月曜日ということもあり、お客は疎らだった。

 金曜日に会ったばかりだから、礼次郎はいるはずはないと思ってはいたが、一応、店内を見渡したが礼次郎の姿はやはりなかった。



 マリがやって来た。


 「この前は大丈夫でしたか? タクシーはちゃんと拾えました?」

 「ええ、なんとか帰ることができました」

 「結構飲まれていたので心配しちゃいました。

 なら良かったです。

 空いている席ならどこでも構いませんよ。お好きな席にどうぞ」

 「じゃあ今日はカウンターで」

 「お飲み物はどうしますか?」

 「今日は生ビールで」

 「かしこまりました」



 ビールをカウンターに置くとマリが言った。


 「レイさんてダンディでしょう?

 不思議な人ですよね? 年齢を感じさせない男性って」

 「礼次郎さんて、何をしている人なんですか?」

 「株をやっているそうですよ?

 トレーダーっていうんでしたっけ?」

 「そう」

 「今日も来ると思いますよ。いつも月曜日に本を読みにお店に来るんです。

 うちはスペイン・バルで図書館じゃないのにね? アハハハハハ」


 マリはそう言って笑ったが、私の心は踊った。


 (今日もまた礼次郎に会える!)


 そう思うだけで私の胸は早鐘を打っていた。



 「ハモンセラーノと茹でピーナッツ、それからアヒージョを下さい」

 「かしこまりました」



 2杯目のビールが運ばれて来た時だった。

 店のドアが開き、礼次郎が入って来た。


 私はその時、まるでフランス映画を観ているような気分だった。

 彼は静かに私の隣に腰を下ろした。


 「マリちゃん、僕にもビール。それからパエリア。

 こんばんはマチルダさん。また会えましたね?

 先日はご主人に叱られませんでしたか?」

 「この前はすみませんでした。ごちそうになってしまったようで。

 おウチに帰ってお財布を見たらお金が減っていなくって。

 レイさんが私の分まで払って下さったんですね?」

 「気にしないで下さい。男が美人に食事をごちそうするのは名誉なことですから」

 「ありがとうございます」

 「それよりマチルダさんにまた会えるなんて、私はツイていますよ」

 「それは私も同じです」



 少し時間が経って、出来立てのパエリアが運ばれて来た。


 「さあ、一緒に食べましょう。パエリアはサフランが命です。

 ここのパエリアは本場スペインよりも美味しいですから」



 パエリアを食べたのは生まれて初めてだった。


 「美味しい!

 私、初めてなんです、パエリアって!」

 「それは良かった。ここのパエリアを食べずに死ぬのは残念ですからね?

 死んでから後悔しても遅いです」


 私たちはまるで恋人同士のように見つめ合い、笑った。



 「そうだマチルダさん、今度、上野の西洋美術館に行きませんか?」

 「美術館なんてもう何年も行っていないなあ。

 是非ご一緒させて下さい」



 そして終末の日曜日、私は礼次郎と上野で待ち合わせることにした。





第5夜 

 12月。師走の上野は猥雑だった。

 今にも泣き出しそうなシャドーグレイの空が低く垂れ込めていた。


 私は待ち合わせよりも5分早く、西洋美術館の正門の前に到着した。

 そして約束の11時ピッタリに礼次郎はやって来た。


 髪はボサボサ、カーキ色のカシミアのロングコートに無造作に萌葱色もえぎいろのマフラーを巻いている。



 「すみません、お待たせして」

 「いえ、私も今さっき来たばかりです。

 レイさんは時間に正確なんですね? 11時丁度です」

 「昼間にお会いするマチルダさんもきれいですね?

 実に美術館にふさわしいファッションだ。その髪型も素敵です。

 では、参りましょうか?」


 さりげなく自然に女を褒めることが出来る男に私は会ったことがない。

 今日は礼次郎との初デート。私は入念にメイクをし、前日には美容院へ行き、服を選んだ。


 服は美術館にふさわしいシックなモノトーンで統一し、もちろん下着も吟味して来た。




 最初、美術館の前庭にある彫刻を見て回った。

 ロダンの作った名作たち。


 「地獄門」「カレーの市民」「エヴァ」「アダム」「弓をひくヘラクレス」

 そして私たちは「考える人」の前で足を止めた。



 「考える人って何を考えているのかしら?」

 「この像はあそこにある『地獄門』の上にいる人なんです。

 あの地獄門はダンテの神曲がモチーフになっていますが、考える人が考えているのは、地獄門の前に立つ人間を、地獄に招き入れるべきかどうかを考えているのです」

 「えっー、そんな怖いことを考えているんですか?

 レイさんは物知りなんですね?」

 「単なる雑学ですよ。さあ、中に入りましょう」




 ひんやりとした心地よい静寂。

 コルビジェの設計した無限成長美術館はまるで永遠に進化する、カタツムリのようだった。

 今後も収蔵品の増える美術館にはふさわしい構造となっている。



 静かに作品を見ていくと、ある絵の前で礼次郎が立ち止まった。




       カルロ・ドルチ 『悲しみの聖母』




 それはブルーのショールを頭に被った聖母マリアの肖像だった。

 俯き悲しむマリア。



 「はじめてあなたを見た時、この絵を思い出しました。

 深い哀しみの中にいるマチルダさんは、この『悲しみの聖母』のようだった」

 「あの夜、私はそんなに悲しそうに見えていましたか?」

 「私にはそう見えました」

 「見破られちゃいましたね? レイさんには」


 礼次郎は眼鏡を少し整え、


 「守ってあげたいと思いました。あなたを」

 「じゃあ守って下さい、私を」

 「それは出来ません。

 あなたは人妻さんですから」

 「もう、辞めたんです。奥さん・・・」

 「!・・・」


 礼次郎は驚いて私を見て言った。


 「では、これからは私がマチルダさんをお守りします」

 「私はもう町田希美ではありません。

 マチルダではなく、希美って呼んでください」

 「では希美さん、そろそろランチにいたしましょう。

 上野にはいいお店がたくさんありますから」

 「もう絵は見ないの?」

 「この絵をあなたに見せたかった。希美さんに。

 それにこの美術館には、あなた以上に美しい作品は存在しません。

 だからもう見る価値がない」

 「うふっ ヘンなレイさん」


 そんなくすぐったいような礼次郎の言葉に私はときめき、笑顔に鳴った。


 私はずっと笑うことを忘れていた。



 


第6夜 

 アメ横を礼次郎と手を繋いで歩いた。

 異性と手を繋ぐこのときめき、私は今、確実に恋をしていた。



 御徒町おかちまちに入ると、礼次郎は小さなビストロを指さした。


 「フランスの家庭料理の店ですが、ここでよろしいですか?」

 「レイさんのおすすめなら、なんだかワクワクしちゃいます」

 「では一緒にワクワクいたしましょう」



 その古いレンガ造りの外観は蔦に覆われ、モスグリーンの扉には真鍮のキックプレートが取り付けてあり、よく磨かれていた。



 「ボンジュール、ムッシュー、アラン」

 「おお、レイ! よく来てくれたね!」


 アランというその大男のシェフと、礼次郎はハグをした。


 「予約もしないで突然来てしまって、申し訳ない。大丈夫か?」

 「美しい女性を連れて来てくれるなら大歓迎だよ」

 「アラン、君はいつからイタリア人になったんだい?」

 「美しい女性を見れば、男はみんなイタリア人さ」


 そう言ってアランはウインクして笑った。



 私たちは店の奥にある、金の額縁の油絵が飾られた、テーブル席に案内された。



 「料理とワインはおススメで」

 「それじゃあいいボルドーがあるからそれにするといい。

 今日の料理にはぴったりだ。

 まるで礼次郎と彼女のように」

 「じゃあそれで」


 アランは今度は私にウィンクしてテーブルを離れて行った。



 「素敵な絵ね? きれいな人・・・」


 その絵はルノワールのように柔らかな光に包まれたポートレイトだった。


 光が零れるピアノの前に立ち、鍵盤に右手の人差し指を置く金髪の女性。

 その鍵盤の上に置かれた指先からは、深い哀しみが伝わって来た。


 「この絵は昔、私が藝大の学生だった時に描いたものです」

 「えっ、レイさんがこの絵を描いたの?

 レイさんて藝大に通っていたんですか?」

 「ええ、今はしがない株屋ですけどね。

 それは留学先のパリで描いたものです」


 そう言って礼次郎はそれをさりげなく言ってのけた。

 私はしばらくその絵を真剣に眺めた。


 (礼次郎が描いたというこの絵の女性はいったい誰なのかしら?)


 だがそれを訊く勇気は私にはなかった。

 タダのモデルではないはずだ。


 (昔の恋人?)



 ワインと前菜が運ばれて来た。

 大きなワイングラスにワインが注がれ、私と礼次郎は乾杯をした。


 「私たちの出会いに」



 まるで採血の時のようなボルドーのフルボディ。

 どっしりとした重厚感のあるワインだった。


 何年ぶりだろう? こうして昼からワインを飲み、フレンチを食べるなんて。

 私の心はワインのせいではなく、この礼次郎との素敵な時間に酔いしれた。



 コースはやがてメインになった。

 粒コショウのマスタードソースのかけられたハラミ肉と、その隣にはフォアグラが添えられていた。


 礼次郎の食事の仕方はとてもスマートなものだった。育ちの良さが窺える。

 礼次郎が人間だとするならば、夫の浩紀はまるで動物のように思えた。


 久しぶりのナイフとフォークの食事に私が緊張していると、それを気遣うように礼次郎は言った。


 「この店に女性と来たのは希美さんが二人目なんです」

 「もう一人の女性は誰だったの?」

 「別れた妻です」

 「いいの? そんな奥様との大切な思い出の場所に私を連れて来て?」


 私は少し意地悪な質問をした。

 そこにはすでに別れた奥さんに対抗している自分がいた。


 「いい思い出? そうだったのかもしれません。

 でも、ここへ誘った理由は他にあるんです」

 「どういうこと?」

 「この絵の女性は私のパリの恋人、そして妻でした。

 ソフィアが死んで、今年で22年になります」

 「亡くなったんですか? このモデルの人・・・」

 「そうなんです。だから君を彼女に紹介したかった。

 「この人が僕の愛した人だよ」ってね?

 どうやら彼女は私たちのことを祝福してくれているようです。

 絵が微笑んでいるように見えませんか?」

 「私にはわかりません。

 私はこの女性の事を知らないから」

 「ごめんなさい、私の言い方が間違っていました。 

 紹介ではなく「許し」を貰いに来たのです。

 「僕がこの人と付き合うことを許して欲しい」と。

 希美さん、私と結婚を前提にお付き合いして下さい」


 それは礼次郎の突然の申し出だった。


 私はナイフとフォークを皿の上に置いた。



 「よろしくお願いします」



 それは私と礼次郎の恋に、目標が定まった瞬間だった。

 そしてそれは苦悩と哀しみの始まりでもあった。


 



第7話 

 食事を終えた私たちは、宛ても無く東京の街を彷徨い歩いた。

 いつも見ている東京。

 それなのに違う風景がここにある。礼次郎といる東京が。

 礼次郎といるだけで世界が変わったような気がした。


 そうだ、私は愛情に飢えていたのだ。

 愛されもせず、愛してもいない毎日。


 見る物すべてが輝いて見えた。

 東京湾から吹いて来るじっとりとした海風さえも、心地よい草原の風のように感じた。



 「夕食は何がいいですか?」

 「お昼にコースをいただいたので、あまりお腹は空いていません。

 でも、お酒なら飲みたいです」

 「そうですか? ではタンゴを見に行きませんか?」

 「タンゴ?」

 「そうです、アルゼンチンタンゴ」

 「この前はフラメンコで感激したのに今度はタンゴですか?」

 「お嫌いですか?」

 「ううん、その逆です。

 今度はどんな感動があるのかなあと思って。

 私、アルゼンチンタンゴなんて見たことも聴いたこともないから」

 「たぶん気に入ると思いますよ。希美さんならきっと」




 『ブエノスアイレス』という名のその店は、三軒茶屋にあった。

 100名ほどの客の約4分の1は外国人だった。


 小気味の良いリズムとそれに絡みつくピアノ、弦楽器とバンドネオン。

 ペアになって踊る男女からはすでに汗がほとばしっていた。

 私はその独特の音楽に縛り付けられ、身動きが取れなくなったしまった。



 「タンゴは18世紀後半にイベリア半島で生まれ、それがアルゼンチンのブエノスアイレスやウルグアイのモンテビデオに渡って洗練され、舞踏曲となったものです。

 四分の二拍子や八分の四拍子が多く、打楽器が編成されず、鋭いスタッカートと「溜め」がタンゴの特徴です。

 華やかでありながら切なく、物悲しくもあり爽やかでもある。

 アルゼンチンタンゴは人生そのものだとは思いませんか?

 この『ラ・クンパルシータ』も代表的なアルゼンチンタンゴです。

 作曲したのはウルグアイのヘラルド・エルナン・マトス・ロドリゲスなので、これがウルグアイのものなのかアルゼンチンの物なのかで論争になったほどです」

 「眠っていた魂が揺り起こされるみたい・・・」

 「希美さんは詩人ですね?

 さあ、僕たちも踊りましょう」

 「無理です、私タンゴなんて踊ったことないから」

 「大丈夫、僕が教えてあげます」


 私は意を決し、残っていたアルゼンチン・ワインを一気に飲み干した。


 すると礼次郎は私の手を引いて、ダンスホールの隅へと誘った。


 「いいですか? 私に合わせようとはせず、音楽に合わせるのです。

 最初は見様見真似で構いません。

 そのうち慣れます。

 舞踏とは歌や演劇のように心の叫び、本能なのですから。

 それでは足を少し開いて肩の力を抜いて下さい。

 では失礼します」


 礼次郎は私のウエストを軽く抱き締め、踊り始めた。



 「これをアブラッソといいます。

 では片方ずつ。

 いいですか? 前、横、後ろ、はい反対です、前、横、後ろ。

 そうです、いいですよ、その調子です」


 私はワインの酔いと礼次郎に抱き締められた心地よさと恥ずかしさで、どうにかなりそうだった。


 そしていつの間にか私は礼次郎にリードされ、懸命に踊った。



 礼次郎の汗が私の額に落ちた。

 私の漏れる息遣いもバンドによって掻き消されていった。



 やっと音楽が終わった時、私は礼次郎の耳元で囁いた。


 「抱いて欲しい、ダンスの続きをベッドで・・・」


 礼次郎は頷き、私にやさしいキスをした。





 ベッドでは激しいタンゴが続いた。

 頭の中で『ラ・クンパルシータ』が鳴りやまない。


 私は生まれてはじめて「イク」という感覚を何度もカラダに刻み込まれた。



 「あう、あう・・・、あんっ・・、あっ、あっ・・・、はうっつ」

 「希美・・・」



 自分ではもうどうすることも出来ない快感に、私は無我夢中だった。

 自分が自分ではないような感覚になった。


 いつもの冷静な礼次郎からは想像も出来ないセックスだった。



 こうして欲しい、ああして欲しいなどの要求は、礼次郎には不要だった。


 彼の行為は私の期待を裏切ることがなかったからだ。


 ついに礼次郎の舌が私のクリトリスを捉えに掛かった。

 やさしく舐め挙げたかと思えば、円を描くようにチロチロと舐め回し、そして強く欲しいと思ったその瞬間、私の硬くなったその先端を強く吸い上げると顔を左右に振った。


 自分でもわかるくらいに濡れた。


 そして彼は私の足を広げると、ゆっくりと挿入を開始した。

 礼次郎の陰茎が子宮を直撃した。


 律動が開始され、そのリズミカルな動きは、まるでタンゴのリズムのようだった。



 数分の後、私は大きく叫び声を上げると体を硬直させてしまい、全身が痙攣を始めた。



 ようやく遠のきかけた意識が戻り、私は礼次郎に言った。


 「あなたも私の中に・・・、出して・・・」


 そして今度は大胆にも礼次郎に跨り、自ら礼次郎のペニスを自分の中へと招き入れた。

 私は激しく腰を振り、そして遂にふたりの想いは同時に遂げることが出来た。


 私は女として、いかに人生を遠回りしてきたのかを知った。




 翌朝、家に着替えを取りに戻ると離婚届に浩紀のサインと印鑑が押されていた。

 添えられたメモにはこう書かれてあった。



 

       出て行け 征也は実家で引き取る




 私は外した結婚指輪をそのメモ紙の上に載せ、離婚届を拾い上げると嬉しさで涙が込み上げてきた。

 それは自由へのパスポートだった。

 

 私の心の鉛色の雲は消え、秋晴れような空が広がった。



  


第8話 

 礼次郎との新しい生活が始まった。

 私は自分の過去を強制終了にすることにした。


 会社も依願退職をした。

 上司からは慰留されたが、結婚しても仕事を続けていたのは、恩着せがましい浩紀に食べさせてもらうのも屈辱だったし、自分で自由になるお金が欲しかったからだ。


 礼次郎は私にキャッシュカードとクレジットカードを渡してくれた。

 そこには普通のサラリーマンが手にする生涯年収をはるかに超える金額が振り込まれてあった。


 「生活に必要なお金はここから引き出して自由に使って下さい。

 もちろん希美の欲しい物もね。

 暗証番号は君の誕生日になっているから」


 私は仕事からも解放され、自分に翼が生えたような気分だった。




 凛花たちが盛大に送別会を開いてくれた。


 「主任、辞めないで下さい・・・」

 「また、会ってお茶しようね?」

 「はい・・・」



 凛花は泣いてくれた。

 私と凛花はいつも姉妹のようだった。


 会社や同僚にも離婚したことは言わなかった。

 もちろん礼次郎と暮らしていることも。


 征也のことは考えないことにした。

 酷い母親だと憎まれる覚悟はすでに出来ていた。

 征也もいずれは私の元を離れ、新しい家族を作る。

 そうなれば親のことなど忘れられてしまう。

 かつての自分がそうであったように。


 それに姑は征也に対して異常なまでに執着をしていた。

 私の出る幕はない。


 「征也、あなたは人の上に立つ人間になるのよ」


 それが義母の口癖だった。


 この親にしてこの息子かと私は思った。

 そんな人を見下すような大人にだけはなって欲しくはなかった。


 浩紀の実家には資産もあり、征也が苦労することもないはずだ。

 そしてそのままその財産を受け継げば安泰だろう。

 それに新しいママも出来るかもしれない。


 子供は母親ひとりの責任で生まれたわけではない。

 そして子供も妻も夫の所有物ではないのだから。




 私はマーガレットのあしらわれた白地のエプロンを着け、広いバルコニーの花々やハーブに水遣りをしていた。

 午前6時、さわやかな朝の空気と太陽、それがいつもの私の日課だった。

 何もかもが輝いていた。怖いくらいに。



 ニューヨーク証券取引所とNASDAQが開くのが日本時間の23時30分から翌朝6時まで。

 ロンドンが開くのは17時30分から翌1時30分、そして東京のマーケットが開くのは9時から15時だった。


 つまり礼次郎の自由な時間はニューヨーク証券取引所がクローズして日本の証券取引所が開く6個から9時までの3時間と、東京が閉まる15時からロンドンが開くまでの17時30分の2時間30分まで。

 そしてニューヨークとロンドンには時差もあるがサマータイムもある。

 合計5時間30分の間に日常のすべてを終える必要があった。


 入浴や食事の時間を極力削り、礼次郎は残りをすべて睡眠に宛てる。


 礼次郎は一日で数千万円から数億単位で資金を運用していたので、そのストレスは想像を絶するものだった。

 私にはそんな礼次郎を支える充実艦があった。


 「この人の役に立ちたい」



 ニューヨークの取引を終えた礼次郎が仕事部屋から出て来た。


 「お疲れ様。今朝はBLTサンドにしたの。

 それから海老のビスクとコブサラダ、あとはトマトジュースにしたんだけど、もっと何か食べる?」


 礼次郎は私に軽くキスをすると、


 「美味しそうだなあ。いつもありがとう。

 君は料理の天才だね?」


 うれしかった。

 そんなことを浩紀から言われたことは一度もなかった。

 やって当たり前、いつもそんなカンジだった。


 夫婦だからこそ、お互いに感謝の気持ちを伝え合わなければならない。

 夫婦愛とは常に思い遣りを注ぎあわなければ枯れてしまうものなのだ。


 「やってやった」「してやった」あるいはそれに対する見返りを求めるなど、夫婦の崩壊はすでに始まっている。



 礼次郎は食事を終えるとグノーの『アベマリア』を聴きながらリビングのソファアで仮眠を取るのが朝のルーティーンだった。

 すぐに礼次郎の寝息が聞こえて来た。


 私は礼次郎の寝顔にキスをして、洗濯に取り掛かった。

 掃除機をかけたり、キッチンで洗い物をするのは礼次郎の安眠の妨げになるので控えた。

 好きな男のために生きるしあわせ。

 私は結婚生活がこんなにも幸福に満ちたものだとは知らなかった。



 私は智也のことなどすっかり忘れてしまっていた。

 たとえ智也と結婚したとしても、これ以上の幸福感はなかっただろう。

 それは私が礼次郎自身というよりも、礼次郎の精神性に惚れていたからだ。


 浩紀も智也も、礼次郎の人間的な魅力の前には足元にも及ばなかった。


 私は毎日が薔薇色だった。



 


第9話

 ようやく週末になった。

 渋谷で和食の創作料理を食べた後、あのダンスホール、『ブエノスアイレス』に礼次郎と行った。


 私はどうしてもアルゼンチンタンゴをマスターしたかったので、礼次郎の仕事の邪魔にならないようにヘッドフォンをしてビデオレッスンに励んでいた。



 「かなり練習したんだね? 随分上手になったじゃないか?」

 「レイと一緒に踊りたくて」


 礼次郎は壁際のスペースから私を連れてホールの中央に躍り出た。



 鳴り響くタンゴのリズムと周囲に沸き起こる喝采を浴びて、私たちは踊った。

 飛び散る汗、礼次郎に抱き締められて軋む体。


 この日の為にとあつらえた赤いエナメルの靴と背中のざっくりと開いたボルドーカラーのドレス。

 私はカラダ全体にセックスのエクスタシーにも似た快感を感じながら踊り狂った。




 自宅に帰り、私たちは4日ぶりのセックスに耽った。

 私のカラダを何度も強烈なオルガスムスが貫いた。



 ようやく体が落ち着いた。


 「しあわせすぎて怖いくらい・・・」


 あまりにもすべてが幸せ過ぎた。


 「今日の君のタンゴは最高だった。

 みんな、君の美しいステップに見惚れていたよ」

 「それはレイのリードが良かったからよ」

 「何か欲しい物はないかい?」

 「何もいらないわ。

 人間は有り余るお金があると、何も欲しくなくなるものなのね?」

 「そうだね?「衣食足りて礼節を知る」とはよく言ったものだ。

 それなのに私はお金を稼ぐことが辞められない。

 欲しい物は何もないのに。

 僕はお金を愛してはいるが、速いスポーツカーも、美食にも興味はない。

 君がいてば何もいらない。

 命さえも要らないと思う。

 君はすばらしい女性だ」

 「お金も何もいらない。

 私はレイがいればそれでしあわせよ。

 明日、お金がなくなっても私がコンビニで働いてでもレイを支えてあげたい。

 命もいらない、レイといっしょなら」

 「ふたりとも同じことを考えていたんだね?

 何があっても僕は希美を守るよ、何があっても。

 命を捨てても貫きたい愛かある。

 僕は希美と出会うために生きて来たとさえ思う」

 「私も同じよ・・・」


 私たちは再び熱いキスを交わした。



 「お金って何だと思う?」

 「考えたことないわ」

 「お金って不思議だよね?

 英語でお金のことを「change」ともいう。

 つまり「交換」なんだよ、お金は交換手段なんだ。

 お金があれば色々な物と交換できる。

 時にお金で命を落とすことさえある。

 昔ね、ある金貸しの老人が5階建てのビルを建てたんだけど、そのパーティーで、あるヤクザの組長さんがかなり酒に酔ってこう言った。


 「こんなデカイビルなんかおっ建てやがって! この守銭奴が!」


 大声を上げた。

 するとその老人は着物を脱いで上半身を晒した。

 そこには無数の刀傷や縫合の跡、銃創があった。

 みんなが息を呑んだ。

 そしてその老人は静かに言った。


 「人にカネを貸すとはこういうことじゃよ」


 それでその組長さんは帰って行った。

 お金にはそういう恐ろしい面もある。

 持っている者は持たざる者から狙われるからね?」

 「なんだか怖い話ね?」


 私は礼次郎の胸にしがみついて甘えた。



 「僕の父親は銀行員だったんだけど、派閥争いに負けて銀行を辞めた。

 まだ幼かった僕は親父に訊ねた。

 「どうしてお父さんが銀行を辞めなきゃいけないの?」と。

 すると父はこう言ったんだ、「他人のカネを数えて何が楽しい?」とね?

 父親は絵描きになりたかったんだよ。

 でも親のいいなりになって銀行員になった。

 そして僕は絵描きの夢を諦め、株屋になった。

 因果な話だよ」

 「やさしいお父さんだったのね?」

 「そうかもしれない。

 親父は確かにやさしかった。

 だから自殺してしまったのかもしれない」


 私は礼次郎の瞳の奥にある、もうひとつの暗闇のひとつを見た気がした。



 「ねえ、愛ってなあに?」

 「学生時代に見た、『ある愛の詩』っていう映画があってね? ライアン・オニールとアリー・マッグロー、キャンディス・バーゲンだったかなあ?

 オリバーとジェニーの叶わぬ恋。

 彼は言うんだ、「Love means never having to say you're sorry」とね?」

 「どういう意味?」

 「愛とは決して後悔しないことだという意味だよ」

 「レイは私と結婚して後悔していない?」

 「もちろんだよ」


 礼次郎は私を強く抱き締めてくれた。


 「私はレイのためなら何でもする。

 それは本当よ」

 「ありがとう。

 僕も希美のためなら世界征服も出来るかもしれないな?」

 「じゃあお月さまを取って来て」

 「少女漫画のセリフのようだね?」

 「そうよ、一度言ってみたかったの」

 「いいよ、君のためなら喜んで。

 でもそれにはグラスがいるね?」

 「どうして?」

 「月を映すグラスがいるってことだよ」

 「素敵、今度やって見せて。

 満月の夜に」

 「そうだね」


 ふたりの長い夜は続いた。


 



最終話 

 その日は日曜日のよく晴れた午後だった。

 私と礼次郎は今日の夕食の食材探しに出掛けようと、マンションを出た。


 すると目の前に男が立っていた。

 瘠せた恨みにみちた瞳、そしてその手には拳銃が握られていた。


 「死ねっ! 森田礼次郎---っ!」

 

 私は咄嗟に礼次郎の前に出た。

 胸とお腹に焼けるような衝撃を感じながらその場に倒れた。


 「希美ーーーーーっつ!」


 私の名を叫ぶ礼次郎。

 すると男は礼次郎の背後にまわり、絶叫しながら背中に向けてすべての銃弾を撃ち尽くした。


 その男は逃げることもせず、拳銃をその場に放り投げ、呆然としていた。


 不思議と痛みはなかった。遠のいていく意識の中で、礼次郎が私に覆いかぶさった。

 黒いアスファルトにドクドクと血が流れ、血溜まりが出来た。



 「救急車! 救急車っあ!」

 「誰か早く警察を!」


 騒然とする群衆。



 礼次郎が微かな声で言った。


 「ごめ、ん。 し、あわせ、にでき・・・」



 その時私は何故か笑った。

 幸せ過ぎたから、こうなったんだと。


 未練はなかった。

 礼次郎が教えてくれたあの言葉が頭に残っていたからだ。


   

    愛とは決して後悔しないこと


 


 礼次郎との愛のある生活は短かったがしあわせだった。

 しあわせとは一瞬の煌めきなのだ。





 取調室では田沢係長の尋問が続いていた。

 北村というその男は株で数十億もの大損をして無一文となり、礼次郎を逆恨みしての犯行だった。



 「それでお前は森田さんとその奥さんを殺したわけだな?」

 「だって刑事さん、不公平じゃないですか?

 森田ばっかりしあわせになるなんて。

 世の中不公平ですよ」


 田沢がタバコを口に咥え、火を点けようとした。

 するとその部下の寺島が諭した。


 「係長」

 「わかってるよ、禁煙なんだろう?

 どこもかしこも禁煙禁煙って、うるせえ世の中だぜ。

 タバコはインディアンが神様との交信のための神聖な手段だったって言うじゃねえか?

 ホント、面倒臭せえ時代になったもんだぜ。

 昔は取調べの時はタバコでも吸わなきゃやってらんなかったけどな?」


 田沢刑事はタバコを口から離すと言った。


 「俺はな? 高校生の息子が来年受験なんだ。

 娘は中学生。

 女房はスーパーでレジ打ちのパートをしている。

 住宅ローンもあと15年も残っている。

 お前たちは俺が一生かけても稼げないほどのカネを動かしていた。

 汗も流さず、ただパソコンの前に座ってな?

 俺はつくづく思うよ、人間は不公平だなあってな?

 お前が言うように、ホント、不公平だよ。この世の中は」

 「私はただパソコンの前にいたわけじゃありませんよ刑事さん。 考えて座っていたんです。

 クリックひとつ、ボタンひとつで大金が転がり込んで、また消えてゆく。

 その緊張感で背中に冷たい汗をたっぷりとかきながら、命懸けで座っているんです」


 田沢はまだ残っているタバコの箱を握り潰した。


 「それは違うな?」

 「何がですか?」

 「一番大切なのはカネじゃねってことだよ」


 すると田沢は北村の胸倉を掴んでウレタンで出来た壁に叩きつけた。


 「警察は拷問をするのか!」


 北村は叫んだ。


 「奥さんのお腹には子供がいたんだ!

 この腐れ外道が!」




 警察署の自販機の前で、田沢と寺島がタバコを吸っていた。



 「さっき係長の言っていた、カネより大切な物って何ですか?」

 「俺、そんなこと言ったか?」

 「言ってましたよ」

 「忘れちまったなあ、そんなこと。

 家に帰って女房と子供の顔を見ればわかるだろうよ。

 カネよりも大切なものが何なのかが」


 田沢係長はやるせないように煙を吐いた。


 「なあ寺島、それでもやっぱりカネは欲しいよなあ?」

 「そうですねえー」


 ふたりの刑事は缶コーヒーを片手に、まずそうにタバコを吸った。



                   『アルゼンチンタンゴを踊らせて』完




  

 


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【完結】アルゼンチンタンゴを踊らせて(作品231123) 菊池昭仁 @landfall0810

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