08
「……あのね、月垣くん。私、親から、小説家を目指すなんて可哀そうって言われたんだ。親がこっそり話してたの、聞いちゃって。もっとちゃんとした、社会に胸張れる仕事してほしかったって」
あのときの気持ちを、私は今でも忘れない。きっと一生、忘れられない。
なんで? 私の夢って可哀そうなの?
胸張れないの?
なんで、そんな顔、してるの……?
「……小説やめようって決めて、でもどうしてもなにか書きたくて、最後に一作だけ書いて終わりにしようって思った。それが『パイレーツ・キッズ』だったの。少しずつずっと書いてたんだけど、それが昨日バレて……やっぱり小説家になりたいの? って……お父さんにも、もう小学六年生なんだから現実見ろって怒られて、だから皆に会いたかった」
もう何もかも嫌になっちゃったから、私の心の宝石を、皆に思い出させてほしかった。
私の味方をしてほしかった。
私の傍で、私を守って、お父さんやお母さんと戦ってほしかったんだ。
「だけど結局、私の小説はダメで、友達も巻き込んじゃって、だからもうわかんないんだ。私は……まだ、書いていいのかなって。小説家って呼ばれていいのかなって」
月垣くんは、しばらく何も言わずに聞いていた。
俯いていても、じっと見つめられてるのが分かる。
やがて、月垣くんの声がした。
「俺だって――編集者なんか、向いてないって思ったことは数えきれないほどある」
「……え」
あの、月垣くんが。
ゆるゆると顔を上げると、月垣くんは困ったように笑っていた。
「俺は目つきも悪いし、言葉遣いも厳しいし、ハッキリものを言いすぎる。怖がらせて追い詰めて、最後には俺が担当した小説家は皆、途中で執筆を投げ出すんだ」
そう言って、月垣くんの瞳が、辛そうにぎゅっと細められた。
噛みしめた唇が開いて、かすれた声がもれる。
「一人も……デッドラインまでに書き上げられなかった」
思わず息を呑んだ。
「ひ……ひとりも……?」
「俺が作品の欠点を容赦なく指摘するうえに、『小説家』とうまくコミュニケーションがとれないから、最後には『もういい』って切り捨てられるんだ。今までずっとそうだった」
いつもと同じ、淡々とした声で。
だけどいつもよりずっと弱弱しくて、ささやくような、自分に向けた独り言のような、そんな小さな細い声。
「ヒロイに、編集者も含めて皆小説のことを忘れるって言ったのは嘘だ。デッドラインの影響を受けない、編集者が仕事内容を記録するための媒体があるから、それを見ればどんな小説が生まれて、どんな経緯で消えたのかわかる。……どれも、すごくいい話だったんだ。書籍化できそうな話もあった。何年もかけて書かれた作品もあった。絶対に消しちゃいけない作品のはずだった。いつかきっと、誰かを夢中にさせられるはずだった。……担当編集者が、俺じゃなければ」
月垣くんが、自分のてのひらに視線を落とした。
それから、ぐっと拳を握りしめる。
「一度、辞職しようと思ったことがあったんだ。だけど編集長に言われた。お前は編集することが大好きだから、続けた方がいいって。辞めてもどうせまたやりたくなるし、いつかは戻ってくる、編集を好きになった時点でそうなる運命だって。だから……辞めないでほしいって。言ってる意味が、あの時はあんまりわかんなかったけど……でも今、ヒロイを見てたら、なんとなくわかる気がする」
月垣くんが手をおろして、顔を上げて、今までで一番優しくて、今までで一番強い瞳で、私を見た。
ひどく真剣な表情だった。
「ヒロイ。友達に胸張ろうとか、社会に胸張ろうとか考えなくていい、俺に胸張れる仕事はなんだ?」
「えっ……」
月垣くんに、胸を張れる仕事。
一瞬言葉に詰まって、だけどすぐに思いつく。
……そりゃ、月垣くんは編集者だから……。
「えっと……小説家?」
「違う」
真正面から否定され、一瞬頭の中が真っ白になった。
なんで。
なんだ、月垣くんも……私の夢は、胸を張れないって言うのか。
だけど月垣くんは、だらりとさがった私の右手をぎゅっと掴んで、真っすぐに目をピタッと合わせて、言葉をぶつける。
「俺の言葉の意味をよく考えろ。俺が聞いたのは俺が喜ぶ仕事じゃない、俺に胸を張れる仕事だ! 無理とか、親とか、社会とか、才能とか、責任とか、そういうの全部抜きにして、ただ自分の気持ちだけ考えろ! ヒロイが本気で目指したい仕事、俺に誇れる夢を教えろ!」
「――っ小説家だよ!」
気づいたら、考えるよりに叫んでいた。
痛いほど強く掴まれた手を、負けじと夢中で握り返して、必死な視線をぶつけ合う。
だって。
だって脳が、思い出が、指先が、瞳が、口が、心が、衝動が、本能が、私の全身が、書きたいって叫んでいた。
いつだって。
いつだって、そこにあったのは、書きたい気持ちだ。
世界を創造したい、キャラクターを想像したい、小説が大好きなその本能だ。
私にとって、食事とか、呼吸とか、睡眠欲とか、それと小説を書くことは同じなんだ。
書くことが栄養になる、力になる、勇気になる、元気が出る、幸せをくれる。
書かなきゃ生きていけない。
書かずに毎日過ごすなんて、そんなの、我慢できないんだ。
「私、やっぱり小説家がいい。小説家になりたい! 他のどの仕事で生きても、月垣くんにきっと胸張れない。私が月垣くんに誇れる夢は――本当は、本当に、小説家だけだ!」
書きたい。
消したくない。
私は。
「私はっ! 私は、ダイヤモンドも、サファイアも、ルビーもアクアマリンもエメラルドも皆絶対忘れたくない! だって——だってこの世界に、私の全部が詰まってるんだよ! 大好きなんだ! だから私は、デッドラインまでに、何が何でも作品を完成させる!」
肺の空気全部使ったんじゃないかってくらいの大声で、宣言してみせる。
零くんはそれを受け止めて、答えた。
「そうだろ。やりたい、なりたい、好きっていうのは理屈じゃないし、許可じゃないし、我慢じゃないし、嘘じゃない。書いてもいいのかわからないなんて言ったって、ほんとは心の底はずっと、書きたくてたまらないだろ。だからお前は、小説家だよ。誰が何と言おうと、間違いなく立派な小説家だ。俺が保証する」
そして零くんは、ニッと笑った。
その金色の瞳よりもずっとずっと、眩しくて、かっこいい笑顔で。
――ぶわっと、強い風が吹いた。
零くんの綺麗な黒髪がふっと揺れて雨粒が光り、二人の服がはためく。
視界が一瞬で煌いた。
眩しい光の粒が舞う。
雨が止まる。
空を、心を、覆っていた黒雲が、風にさらわれるようにかき消える。
蒼空が、世界が晴れあがる。
高く、深く、遠く、雨上がりの空は、信じられないほど青かった。
太陽の光をいっぱいに受けて、雨に飾られた世界がきらきらと輝きだす。
空の彼方に、虹が見えた。
今までに見たことないくらい、幻想的で、だけど確かにくっきりとそこにある、私の人生で一番綺麗な虹だった。
「行くぞ。編集して――ヒロイの世界を、存在させる!」
私は目を見開いて、その言葉を聞いていて。
楽しい遊びを見つけた子どもみたいに、いたずらっぽく輝く瞳を見ていて。
ごくっと息を呑んで、そして、繋いだ手をもう一度、繋ぎ直した。
「うん。私はやっぱり……小説が、書きたい!」
最後の最後まで、足掻いてやる。
理由なんか、「書きたいから」って、ただそれだけあれば十分だ。
だってそれが、小説家でしょ?
――ねえ、零くん。
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