07

 ぼんやりと顔を上げると、すぐ目の前に、月垣くんがいて。

「ヒロイ、俺だ、わかるか!? 話せたら返事しろ!」

「つ、つき、が」

 震える唇を何とか動かそうとするけど、何かがのしかかって、足を引っ張って、うまく声が出せなかった。

「わ、わたっ、私……っ」

 濡れそぼった消えそうな声が、歪んだ。

 頭が震えて、真っ白になる。

 声も、目も、足も、全部震えて立っていられない。

 からだが、うごかない。

「ヒロイ」

 月垣くんの、全身の声が体中に響いた。

 轟音の雨の中でも、ちゃんと、聴こえた。

 雨で濡れた、月垣くんの黒い艶のある髪が、少し揺れて。

 その奥から、淀みも濁りも汚れもない、燦然と輝くイエローサファイアが、真っすぐ私を見据える。

 驚くほど、震えるほど、本当に、澄んだ眼差しだった。

 鮮やかな金色の瞳が、雨と雲で薄暗い世界に煌々と輝いて、瞼の裏に灼きつく。

 眩しいというよりも、熱かった。

 あつい。

 優しくて、激しい、温度。

「落ち着け、ヒロイ。お前はまだ、誰も傷つけてない。今から書き直せば間に合う」

 静かな言葉が、雨の間を流れるようにして、心の奥に沁みていく。

 少しずつ、心の中に流れ込んでいく。

「俺を、信じろ」

 それはダイヤモンドだった。

 目の前に差し出された、何より強く輝く言葉。

 目が眩むほど強い光。

 だけど美しくて、手を伸ばしたくなる。

 掴み取りたくなる。

「……なんで……?」

 もう、限界だった。

 優しすぎる声が、心を突き刺して。

 ぼろぼろ涙があふれだす。

「……そんなこと言わないでよ……。私は、小説書いちゃダメだったのに」

 今まで抑え込んでいた激情が、溢れ出て止まらない。

 誰にも見せたくなかった剥き出しの心が、どくどくと血を流す。

 最初からそうだった。

 お父さんだって、お母さんだって。

 私が小説を書くと、いつも誰かを傷つける。

――あんな、悲しそうな顔をさせるくらいなら。

 読んだ人が楽しくなれないなら、

 そんな小説は……っ。


「……っ書かなきゃよかった!」


 その瞬間月垣くんが、勢いよく私の手首を掴んだ。

 痕がつくんじゃないかと思うくらいぎりっと強く掴んで、怒りに燃えた目が私を突き刺す。

「……それ、もう一回言ったら、俺はこの仕事辞める」

 感情を無理やり静めた重低音が、ずしりと空気を沈める。

 月垣くんが、息を吸い込んで怒鳴った。

「――いいか! この世に存在しちゃいけない小説なんか、一冊もない! 小説は作者の努力と想いが全部詰まった魂なんだ! それを……書いた本人が、生んだ本人が、そんな簡単に否定するな! 編集者だってどうにもならないことがあって、本当に無力で……っ、それでも俺たちは小説が好きだから、消えてほしくないから、全力で向き合ってるんだよ! それなのにその小説家が、真っ先に自分の小説を捨てるんじゃねぇ!」

 鋭い言葉に心臓を突き刺され、私は顔を上げて、月垣くんの顔を見返した。

 そして、思わず息を呑む。

 だってまるで、月垣くんのほうが、今にも泣き出しそうだった。

 苦しさと、痛みと、悲しさの滲んだ顔をしていた。

 それは。

 私の作品を、愛してくれている人の顔だった。

「ふざけるなよ、甘えるな! 小説家が書いた世界が、どんなに苦しくても、辛くても、それを存在させるために、世に出すために、編集者がいるんだよ! 小説家なら、もっと編集者を頼れ! 一人で創造してると思うな! ――編集者だって、同じ重さの責任を抱えて仕事してるんだ!」

 半分こだろ、とかすれた声で言って、月垣くんはじっと私に視線を合わせる。

 私は呆然として、その言葉を、視線を、表情を、受け止めていた。

「つき、がきくんは」

 雨がいつの間にか、小降りになっている。

 真っ黒だった雲は少しずつうすい灰色になって。

 さっきより少しだけ静かで、少しだけ明るい世界の中で、私はぽつんと呟いた。

「私のことを、小説家って言ってくれるんだね」

「……当たり前だろ」

「そっか」

 当たり前か。


 誰も、そんなこと、言ってくれなかった。

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