八 満月、そして夜の星 ①
湯の香りも遠くなる今日この頃、二階の手すりに背をあずけて座り空を見る。今日も天の国は雲ひとつない青い空が広がっている。風が吹いて髪がさわさわ揺れて、くすぐったかった。
時計を見て見ると九時四十八分。七時ごろ朝食を食べて、丁度眠くなってくるような時間だった。
「おう、笹目」
墨雪が部屋から出てきたところで声を掛けられた。足で戸を閉め、うなじのあたりを掻きながらこっちにくる。
「墨雪、相変わらずいい天気だな」
「寝床もあったまっていい具合だ。今日は三度寝した」
「それは寝すぎだろ」
笑いながら立ちあがって手すりに寄りかかる。そのまましばらくぼおっとしていた。
……隣から、視線を感じる。顔を横に向けると墨雪がじっと僕の方を見つめていた。
「お前、髪伸びたよな」
「え?」
僕は自分の頬に触れてみる。細い毛がさらさらと指先の間をすり抜けていく。
「ああ、うん。でも結構ここにいるし。あれ? 墨雪たちはそんなに変わってないよな」
「変わんねえんだよ。死んでここに来たときからずっと」
「え……。でも、葉詰は、何も言わないし……」
「なんか理由でもあんのかね」
「理由って……」
ひときわ強い風が吹く。
「……墨雪は、知ってるのか? 理由」
「あいつが黙ってる理由は知らねえよ。髪が伸びてる理由は、知ってるが言いたくねえ」
「なんで」
「なんでも」
そんなの納得できるかよ。
墨雪が言わないといったことは絶対に言わないことはわかっている。いままでそれで十分だったこともわかっている。けれども思わず腹が立って、墨雪に掴みかかろうとした時だった。
「笹目、墨雪。どうしたんだい」
葉詰が階段を上ってきて、僕らを見て声を掛けてきた。本を数冊、手にしている。
彼の髪を見てみると、やっぱりいつも通りの、肩につくかつかないかくらいの所で柔らかく揺れている。彼は何も変わっていない。
「葉詰、葉詰は死んだんだよな」
「列車に轢かれてね。だからここにいるんだろう?」
「僕も、死んだからここにいる。なんで僕の髪が伸びて、君たちは変わらないんだ?
葉詰は、何か知っているのか?」
葉詰は白い狐面の口元をそっとなぞり、少し黙って答えた。
「忘れたことの話を覚えているかい?」
「忘れたこと?」
なんだろう、そんな話をしたような……。たしか、湯滝町に行ったときだったか。
「君の髪が伸びていることに関係するか分からないけれど、私には死ぬ前のことで思い出したことがあって、君も何かを忘れている。それを思いだしたときに、教えようと思っていることがある」
「なんでいまは言えないんだ」
葉詰はまた黙ってしまった。
「……みんな内緒、内緒、内緒。秘密の話ばっかりで、知らないのは僕だけか」
「笹目」
「いいよ、もう。もういいんだ」
僕はそのまま自分の部屋へ戻って戸を閉めた。いつもより大きな音をたてた戸に、自分でなんだかイラついて、部屋の隅に畳んでおいた布団を蹴飛ばした。蹴って、叩いて、それでも胸の中のイガイガした気持ちは収まらなくって、そのままぐしゃぐしゃになった布団の上で眠ろうとした。けれどズボンのポケットにしまってあるはずのあの時計がチッ、チッ、と秒針を刻む音が聞こえてきて、それも壁に投げつけてしまった。布団で体を包み込み、頭を塞いだ。なにも聞きたくなかった。
+++++
ごめんなさい。ごめんなさい。
お母さん。ごめんなさい。
「なんでできないの」
ごめんなさい、お母さん。
長い髪が教室の床に引っ張られていく。墨で黒く染まったお母さんが泣いている。
「どうしてあんたなんか」
ごめんなさい、お母さん。
「あんたなんか」
ごめんなさい。
「消えてしまえば」
+++++
はっと目を覚ました。なんだかすごく、嫌な夢を見た。お母さん。お母さん。たびたび見る黒い教室の夢。あれはいったい何だろう。僕の生きていた頃に関係があるのだろうか。
消えてしまえば
悲しい夢だった。つらい夢だった。そんなことを言われた自分よりも、そんなことを言わせてしまう自分が許せない夢だった。
いつの間にか涙がひとつ、ぽとりと布団に沁み込んだ。
トントン。戸を叩かれる音に、慌てて目を拭う。
「笹目」
葉詰の声だ。狐面の中でこもるあの柔らかな声が、少し寂しそうに聞こえる。立ちあがって、戸を開く。彼は少し驚いたように体をそらし、僕をまじまじと見ていた。
「どうした、葉詰」
「どうしたって、君、大丈夫かい? もうずっと出てこなかったから」
そういえば僕はどのくらい寝ていたんだろう。でも、眠る前のあの胸の内を引っ掻かれるような感覚はなくなっていた。
「いや、僕もうだいじょうぶだ。ごめん。変な態度取ったりして」
「私の方はいいんだ。こちらこそ謝らないと。君を不快にさせてしまったのは事実だから」
「でも言えないんだろう? 僕も思い出すまで我慢するさ。それにしても変な夢見たな。あれが僕の死ぬ前の記憶だったらどうしよう」
「そんな夢を見たのかい。それにしても君、食事もとってないから……」
とたん、ぐぅと腹の音が鳴り響いた。
「まずはお粥からだね」
……本当にどのくらい寝ていたんだろう。
「夜光街?」
葉詰の作った卵粥をレンゲで掬いながら、僕は聞きなおした。
「そう、夜光街っていう所に行けるって墨雪が言っていたよ。駅の看板にも、書いてあったからね」
「待てよ。看板に行き先が書いてあったのに行ってないのか?」
「だって君がいないとつまらないだろう」
顔が赤く染まった気がするのは、卵粥の熱だけではないだろう。粥の入った土鍋をかき混ぜる。
「でも列車は? 来ただろう」
「乗らなかったよ。それでも看板の文字は消えなかったし、列車は停まってるし。誰かが乗るのを待ってるみたいだ」
「列車に誰も乗らないとそういう風になるのか。知らなかったな」
ず、と最後の卵粥をすする。咀嚼して、飲み下す。
「行くか、夜光街」
「うん!」
いつになく嬉しそうな葉詰を見ていると、僕も何だか嬉しくなってきた。食器を片付けてシャワーを浴び、財布を手にしてから急に時計のことを思いだした。部屋のどこを探しても見当たらない。
まさかと思ってポケットに手を入れてみると、やっぱりあの時計が静かに秒針を刻んでいた。ピンクゴールドが日の光に輝く。
「これ、いま出したズボンだよな……」
この時計、やっぱり少し不気味だ。
天の国のゲートをくぐり、さわさわと揺れる草に囲まれた道を歩く。さびれた駅舎の中を通り、駅のホームの階段を上がると、確かにそこには赤い列車の姿があった。
ふと、ベンチに座っている人影に気がつく。ひょっとこ顔に、あの趣味の悪い蛍光イエローのシャツ。墨雪だ。
「……おう」
彼はこっちを向いてそう言うと頭をがしがし掻いて首を左右に揺らし、ベンチから立ち上がった。ゆっくりとこちらに歩いてくる。
「あー、あれだ」
「墨雪」
僕は彼の言葉を遮った。
「ごめんな。ありがとう」
そう言えば墨雪は「おう」とだけ言って、くるりと列車に向かい合う。
「んじゃー、行くか」
「うん」
三人で列車に乗りこめば、扉はぷしゅうと音をたてて閉まる。僕らが席に着くと列車はゆっくりと動き始めた。時計が正しい時を刻み始めるかのように。
少しして僕は、列車の中の丸い電球が煌々と明かりをともしていることに気がついた。あんまり明るいので、窓の外が真っ暗になっていることに気がつかないくらいだった。
「墨雪、外が真っ暗だ」
「夜光街に行くからな。夜の街だ。お日さんの出る幕じゃねえのよ」
「夜になったってことなのかい? それにしては星が見えないな」
葉詰は手で目の周りをおおいながら窓に顔を近づけて言った。僕も同じようにしてみたが、外は暗幕をかけたように真っ黒で、何にも見えやしない。
「そりゃそうだろ。こんなところで光ったって見てくれる奴はあんましいねえからな、星はみんな電球ん中に入って一緒に夜光街まで行くんだよ」
星。そうだ、天の国にも星はあるんだ。空があんまり明るいから、いつも人の周りで戯れるかのようにちらちらと舞っている。
ん? 待てよ。
「じゃあずっと夜光街にいればいいじゃないか。星なんだから夜光ればいいだろ」
「ばっかお前、そりゃお日さんの光をいっぱい貯め込んで、それで暗いところで光るんだよ。天の国にいるときは空で光ってたって見てもらえないから下にいるけどな」
「そういうものかい」
「そういうもんだな」
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