七 温泉、そして湯の煙 ③

 僕が思い出したら? 死ぬ前のことを? 葉詰は、それっきりそのことについて話してくれなかった。


 着いたのは大きな崖を背にした温泉施設だった。中に入るといくつもの階段や廊下があっちにもこっちにも伸びていて、外にいるときよりも多くの人びとのざわめきが聞こえる。

 墨雪は受付らしきところに行って何か話している。あたりをきょろきょろ見渡していると、話がついたのか声がかかった。

「おう、宿泊料は一泊三百円だ。とりあえず三日分は払っとけ」

 相変わらずこの世界は物価が安い。僕らは宿泊料を払うとそれぞれ鍵を貰った。「三ノ二ノ五」と刻まれている。三階の第二廊下の五号室という意味らしい。

「三階か、結構上だな」

「そこに行くまでにも温泉があるからな。とりあえずはしばらく一緒に回って見るか」

 いくつもの廊下が張り巡らされる中を進む。時折すれ違う人たちはみんな幸せそうで、ここがいい場所なんだなと分かる。

「葉詰、部屋の風呂だけじゃなくっても個人風呂あるからここで別れっか?」

 墨雪が葉詰に問いかける。そうだ、葉詰は一緒には入れないんだ。

「なんだか君らと別れるっていうのも不思議な気持ちだな。お言葉に甘えてそうさせていただくよ」

「おう。あっちこっちに看板あるから分かるだろ。行ってこい」

 僕はなんだか言葉に詰まった。天の国に来てからずいぶん経つが、僕と葉詰が離れることはあまりない。僕は葉詰を、葉詰は僕を支えにしている。そう言ってくれたのが葉詰だから、彼の方から離れていくのはいままで想像がつかなかった。

 彼には彼の理由があるのに、僕の身勝手で彼の自由を奪うことは許されない。

「葉詰、ゆっくり楽しんでくれな」

「……すまないね、笹目」

 なんだか葉詰は全部わかっているようだった。僕はちょっと笑って、彼に手を振った。


 一つ目に入った温泉には紅葉が浮いていた。天井に描かれた一面の紅葉の木からはらはらと葉が降ってくる。紅葉は僕らの動くのに合わせてしばらくゆらゆら揺れていたが、やがてすうっと溶けるように消えていった。

 二つ目は遠くの山の雪景色を眺めながらの露天風呂だった。ちらちらと雪の降るのに全く寒い気がしない。熱い湯の中で山々の青い影を見ながら、僕はやっぱり葉詰が傍にいればいいなと思った。

「みんなが一緒だったらもっと良かったのに」

 とろみのある湯を掬いながら言うと、「一緒だろうがよ」と墨雪に言われた。

「それでもやっぱり、葉詰がいないと僕一人みたいだ。ごめん、お前もいるのにこんなこと言って」

「見えなければいないのといっしょか」

 墨雪がふう、と溜息をつく。

「なあ」

 墨雪はぽつりと呟いた。

「確かにそこにいたのによう、誰にも覚えてもらえなかったら、そりゃ初めっからいないのと同じだと思うか」

 いつになく、静かな声だった。

「人が本当に死ぬのは誰からも忘れられた時だって、誰かが言ってたような……。漫画だっけか」

「んー、まあ、あれだ。誰にも見えなくなったってそこにいるのを知ってりゃ一人じゃねえってことだよ」

「お前みたいにうるさい奴は誰からも忘れられないだろうな」

 言いやがる。なんて言って墨雪は笑った。いつのまにか、いつのも調子に戻っているみたいだった。

 三つ目に入ったのは打たせ湯だ。さっそく打たれようとすると墨雪から待ったがかかる。

「なんだよ」

「よく見てみろ、鯉がいるぞ」

 細い細い湯の滝をよく見ると、中に小さな赤いものや黒いものがちらちらとたくさん光るのが見えた。

「鯉、なのか? あの魚の?」

「おう。このちっちゃい滝を上ってよ、それが龍になるんだと」

「へえ、鯉の滝登りか。ここの鯉なら、本当に龍になるんだろうな」

「その龍が空で踊って鱗が雪になって降ってくるって話、聞いたことがあるけどありゃホントなのかねえ」

 ちらちら、ちらちら。降り注ぐ雪をよく見ようとしても、手に触れれば消えてしまう。

 僕らは鯉の邪魔をしないように、別の打たせ湯を選んで肩や首を湯に叩かれる。

「はー、僕いっつも左肩が凝るんだよなあ」

「そ、う、い、う、こ、と、っ、て、あ、る、よ、な」

「……お前は頭を打たれているのか?」

 僕のあきれたような声に、墨雪は笑っている。ばたばたと跳ねる水音に混じって聞こえるその笑い声はやっぱり断続的で、余計に頭が悪くなるんじゃないかと思った。


 色々な温泉に入りすぎたせいか、三階に上がる頃にはすっかりのぼせてしまった。売店にある冷たいフルーツ牛乳を買い、ぐっと飲みこむ。冷え切った液体が喉の奥を通りすぎ、胃の中にふわりと広がっていく。

「あー、いいなあこれ。墨雪はコーヒー牛乳か」

「おう。ここのヤツならこれが一番好きだな」

 瓶を回収ボックスに入れ、売店から出ると見覚えのある柿色の羽織が見えた。

「はづ……」

 口にして気がついたがその羽織の人は狐面じゃあなかった。あの目立つ耳がついていない。その人はちょっと不思議そうにこっちを見たが、友人らしき人と連れ立っていった。

「お前、相当だな」

「うるさい」

「あいつも相当だぞ」

 墨雪の声に振り向くと、彼が親指で吹き抜けの向こう側の廊下を指さす。そこでは白い狐面の、さらさらと髪をなびかせる、葉詰が手を振っていた。

 人にぶつからないように廊下を早足で進む。葉詰も、こっちに向かってくる。

「笹目! まさか三階に上がるまで会えないとは思わなかった。あっちとこっちの廊下で大衆風呂と個人風呂で別れているみたいだね。会いたかったよ」

「僕も会いたかった。温泉に入るたびに葉詰がいたらどうだろうって思ってたんだ」

 僕と葉詰は笑いあった。なんだ。結局僕らは離れていても同じことを考えている。

「生き別れの恋人かよ。きもちわり」

 墨雪の茶々なんかも気にならない。気持ち悪かろうが何だろうが僕らにとっては互いが互いの支えになっているということが、とても大切なことなんだ。


「へえ、打たせ湯に鯉が上っているのか。個人風呂の方には打たせ湯はなかったからなあ。いや、あったのかもしれないな。全部に入ったわけじゃないから」

 僕らは廊下の竹でできたベンチに座り、互いにどんな湯に浸かったかを話していた。

「私の方もね、結構すごかったよ。金色に光る蓮の花に囲まれたり、いい香りを吹きだすちっちゃな汽車が湯船の周りをまわっていたり。ああ、酒桜泉の金塊を沈めた所もあったな。お酒の香りがほんのり漂ってね、また鬼の坂月に行きたくなっちゃったよ」

「懐かしいなあ、鬼の坂月」

 とたん、思い出してしまった。酒盛りをしていた鬼たち、彼らは地獄に彼女が、笹目木塔子がいないといっていた。天の国をいくら探してもいなかった。ここなら、人の多いこの湯滝町なら笹目木塔子はいるんじゃないか?

「笹目、どうしたんだい」

 急に黙った僕の顔を覗き込む葉詰。笹目、笹目、ささめ……。彼の声が遠のいていく。笹目木塔子の名前だけが頭を回る。

「探してみりゃいいじゃねえかよ」

 急に墨雪の言葉が耳から染みわたる。

「……え?」

「笹目木塔子だろ、お前が探してんの。天の国にいた時みたいに片っ端から聞いてみりゃいいじゃねえかよ」

 ひょっとこ顔がじっとこっちを見ている。僕は思わず目をそらしてしまった。

「でも、ここで探すなんてどこかしら宿に泊まってないといけないだろ。いくら安いからってここにずっといるわけにはいかないだろ」

「金なら俺が貸すし、ここの奴らはさ、いい奴ばっかだぜ。天の国でもそうだったろうが。みんなに探してくれって頼んで、見つかりゃオッケー見つかんなきゃまた次でいいじゃねえか」

 視界がにじむ。頭の前の方が熱くなって、鼻の奥がつんとなる。

「ありがとう」

 それしか言えなかった。


  +++++


 結局、笹目木塔子は見つからなかった。

「二人ともごめんな。付き合わせちゃって」

「私は何にも気にしてないよ。君のためになることは私のためになることなんだから」

「俺もべつに。温泉入りまくって気分がいい」

 三人で天の国に帰るための列車を待つ。空は青色、白い雪に染まる町

「桜湯ってのはよかったね。あ、列車が来たよ」

 ゆっくりとホームに入る列車。中に入ると服はあっという間に来たときのものに変わった。残ったのは随分と軽くなった財布。

「あーあ。ここに来たい時に来れればいいのになあ」

「しょーがねーよ。どっか別の場所に行けるのは天の国だけだからな」

 走り出す列車。僕らは天の国に帰る。僕は笹目木塔子を探すため。葉詰は僕を支えるため。墨雪は……。まあまたなにかしら面白いことを教えてくれるだろう。

 遠のく意識に身をゆだね、僕らは目を閉じた。

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ここからは天の国 猫塚 喜弥斗 @kiyato

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