七 温泉、そして湯の煙 ②
外に出ると葉詰の姿はもうなく、急いで洗面台へ行き顔を洗う。ふと気づいたのは持ち物だった。階段へ向かい、下にいる葉詰に声を掛ける。
「葉詰、温泉に行くんならなんか持ち物いるだろ? なに持っていく?」
「いや、墨雪が言うには必要なのはお金くらいで他に持ち物はいらないそうだ。タオルも石鹸もいらないらしい」
そうか、温泉の町というくらいなら何でも揃っているだろう。僕はそのまま階段を降り、葉詰と合流した。
「墨雪は?」
「もう行ってるよ。私たちも行こう」
墨雪は相変わらず忙しない。
駅への道を駆けていく。駅舎のがたつく戸をこじ開けてホームに向かうと墨雪がこっちを振り向いた。
「おう、来たか」
「墨雪はいつも早いな。看板にはなんて書いてある?」
墨雪は黙って看板を指さした。看板には「湯滝町」と表示されている。町。町……。
「なあ墨雪、町ってことはそこに住んで暮らしてる人がいるってことか? 天の国みたいに」
「んー、ナイショ」
また内緒か。墨雪の内緒は楽しみにしていろという意味と、説明が面倒くさいという意味がある気がする。今回はどっちだろう。まあ楽しみにしておくか。
タタン、タタン。タタン、タタン。
列車の来る音が近づいて来る。この音を聞くと眠くなってくるのはなぜだろう。起きたばかりだというのに。目の前でぷしゅうと扉の開く音を聞きながら中に入り込む。誰もいない、僕らだけの空間。背後で扉の閉まる音がして、列車はゆっくりと走り始めた。
タタン、タタン。タタン、タタン。
ボックス席に座る墨雪の前の席に座る。葉詰は僕の隣に。墨雪はもうあくびをしていた。
「もう寝るのか?」
「列車ん中なんて寝る以外することねーよ。いつまでたっても変わんねー景色だし」
たしかに、外の景色はもう一面の水世界と青空に支配されていた。
「この景色っていつもいつの間にか変わってるね。なんでだろう」
「知らね。俺も一時期気ぃ張って見てたときもあるけどよ、ふっと気がつけばもう変わってんのよ」
「ふーん」
タタン、タタン。タタン、タタン。
車窓に頭を当てる。心地よい揺れが伝わってきて、いっそう眠くなってくる。
「僕もう寝る」
「私も」
「寝とけ寝とけ。どうせ着いたら停まるんだ」
墨雪の声は最後まで聞こえなかった。
+++++
ああ、まただ。髪が重くて仕方がない。長く伸びていく髪が机に渦を巻いて吸い込まれていく。
「なんでできないの」
誰かが泣いている。それが苦しくてしょうがない。
「なんで、どうしてあんたなんか」
ごめんなさい。ごめんなさい。
ごめんなさい。
お母さん。
+++++
ぱちりと目を覚ませば、目の前で墨雪が軽く伸びをしていた。列車はもう止まっている。
「起きたか」
「ああ。葉詰はまだか」
「起こせ、行くぞ」
墨雪がさっさと行ってしまいそうなので葉詰の肩を揺する。彼はすこしびくっとして、あたりを見渡している。
「もう着いたのか。なんだかあっという間だ」
「そうだな。行こう」
窓の外を見ると、透きとおる青空の中でちらちらと雪が降っていた。しまった。雪が降ると聞いていたのにTシャツで来てしまった。長袖なのが幸いだが、温暖な天の国から来た僕には寒すぎるだろう。しかし墨雪は半袖にもかかわらずいつもの調子で「降りるぞ」と言っている。足もとを見るとサンダルだった。馬鹿は風邪をひかないのか。
列車を降りるとぶるりと体が震える。と、なんだか体が妙なものに包まれた。なんだ? と体を見てみると、白地に井桁模様の浴衣に麻色の羽織を身にまとっていた。足もとは雪があるせいか、ブーツを履いている。手にはいつのまにか巾着がさがっていて、その中に持ってきた財布が入っているようだった。
「墨雪これ……」
隣に立つ墨雪も同じ浴衣を着ていた。羽織の色だけが深い藍色で僕と違っている。もう一人戸惑っている葉詰の姿も変わっている。こっちは柿色の羽織だ。
あっけにとられる僕らを見て墨雪は笑いだした。
「はーっはははっ。おっもしれえの」
「墨雪、これってどうなってるんだ?」
「落ち着け笹目。俺も最初は驚いたって。なんでこーなるかっていうと神様がそういう風に図らったとしか言えねえがな」
「神様……。ヨキソラノアオシ様かい?」
「あのお人の考えることはよー分らんが、いちいち着替えたりしなくっていいだろ」
そういうものなのだろうか。口にすれば「そういうもんなんだよ」と墨雪は答えるだろう。
「慣れればいい場所だぜ。温泉以外何にもないけど」
「ここはそういう所ばっかりだな」
溜息をつけば、葉詰がくすくすと笑う。彼が笑っているのなら、別にいいだろう。
湯滝町は先に聞いた通り雪の降る町だった。町と言っても人の住む家屋というより、温泉や宿泊施設がひしめいている。あちらこちらで浴衣に羽織の人たちが歩いているのが見える。心なしか、天の国よりも人が多いように思える。
「不思議だ。天の国が中心にあって他のところには人がいないんじゃないかって思ってた」
「ここの奴らだって天の国の奴らと変わんねえよ。天の国からここにきて、ここが気に入って入り浸ってる奴らばっかりだ」
「天の国にはいつでも帰れるから、留まりたくなるんだろうね」
そう言う葉詰は少し身震いした。僕もただ歩いているだけではちっとも温まらない。
「冷える所だな。早く温泉に浸かりたい」
「さっさと温まるんならそこらへんにだって湧いてるぞ。ちょっと右の路地見てみろよ」
墨雪が言う路地を覗いてみる。奥に入る手前に「男湯」と看板があった。
「私はいいよ。ここで待ってる」
そう言って葉詰はひらひらと手を振った。彼だって寒いだろうに。少し後ろ髪をひかれながらも路地の奥に行ってみる。少し開けたその場所には降り積もった雪のあちこちに穴が開いている。そこから湯気が湧いているので、小さな温泉になっているのがわかった。底の方からぽこぽこと気泡が沸き上がっている。
「これなんだ? そのまま入るのか?」
「そのまんまだとタコみたいに茹だるぞ。こうやって入るんだよ」
そう言って墨雪は周りの雪をかき集めてお湯の中に入れ始めた。少ししてからぱちゃぱちゃと指先で湯の温度を計っている。
「こんくらいになったら入れるぞ。熱いと思ったらまた雪入れりゃいい」
「へえ、おもしろいな」
墨雪はさっさと服を脱ぎだし、その辺に置いてあった籠の中に服を入れている。
僕も自分の穴を決めると服を脱いで恐る恐る手をかざしてみた。これは確かに熱そうだ。周りから雪を集めて、中に落としていく。
指先を入れて、少しかけ湯をする。うん、ちょうどいい熱さだ。
中に屈んで入ると自然と溜息が出た。空を見るとさっぱりとした青い空に雪の降る景色が目に沁みる。
「……いいもんだな。温泉」
「満足するにゃ早いぜ。他にも景色のいいとこなんかいくらでもあるしな」
「そりゃ楽しみだ」
すっかり温まったので上がることにする。タオルがないのでどうしようかと思ったら、お湯から出た途端すっかり体は乾いていた。
「汗かいたろ。ちゃんとした温泉行こうぜ」
墨雪がさっさと行ってしまいそうなので慌てて引き留めて服を着る。人の多いこの場所で、彼に先を行かれてはどうしようもない。
「お前案内する気があるんなら人に合わせろよ」
「おう、悪かったな」
歩みを緩めた墨雪のあとを歩く。く、く、と積もった雪に足跡がつく音が聞こえるほど、静かだった。
「おかえり、どうだった?」
葉詰は小さな雪だるまを作って待っていた。
「面白い温泉だったよ。地面に穴が開いていて熱湯が沸いてる中に雪を入れるんだ。足は伸ばせなかったけど十分温まったよ」
「それはよかったね」
「ごめんな葉詰。寒かったろ」
彼の指先が赤くなりはじめている。思わず手を握ると「温かいね」と言って葉詰は笑った。
「葉詰は……」
「うん?」
「僕らと温泉に来るの、嫌だったか?」
「いいや、嫌というよりも……。少し、理由があるんだ」
「理由?」
「君は気づいていないのかい」
気づいてない? なにを?
「じゃあ、君は……。なにに気がついたんだ?」
「忘れていたこと」
「それってもしかして死ぬ前の? どんな?」
「……君が思い出したら、教えてあげる」
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