七 温泉、そして湯の煙 ①
「はあ~、あっつい」
ちらちらと雪の降る中、湯の中に体を沈める。若干とろみのある泉質のおかげで、熱さも増して感じられる。
「いい所だなあ、ここ」
温泉のふちに頭を預け、力を抜くと体が浮いて来る。そのまま宙に浮きそうな感覚。じんわりと額に浮かぶ汗をタオルで拭う。
「おう、山も見事なもんだぞ」
右側から墨雪の声がする。たしかに、遠くに目をやれば堂々と連なる山脈が雪をかぶり、時折見える影や岩肌が青味をおびて見える。その山頂のひとつが丸みを帯びていて、なんだかまるで和装の花嫁のかぶる綿帽子のように思えた。
「まあここは雪しか見るもんがねえけどな」
まあたしかに、空は相変わらずの晴天だが、その寒さのため陽光は雪を融かすには至らず、どこからともなく降ってくる雪は湯に当たり消えていく。
「なんだかずっとここにいたい気分だ」
「極楽って言うんだよな~。こういうの」
なんて言いながら笑いあう。
「はーあぁ……」
沈黙。
「葉詰も一緒だったらもっと良かったのに」
僕の隣には墨雪がいるばかり。あとは知らない他の客と、ただ湯の煙が立ち上るだけ。葉詰の姿はどこにも見えなかった。
+++++
今日も長屋のシャワー室で体を洗い、髪を乾かす。使ったタオルや着替えを洗濯機に入れてスイッチを入れる。ぐるぐる回る洗濯機。見ていても仕方がないので洗濯が終わるまで廊下で待つ。外は相変わらず柔らかな風が吹いていて、少し火照った体に心地よい。しかし、やっぱり物足りない。
「……湯船につかりたい」
そう、ここ天の国に来てからずいぶん経つが、大通りのどこへ行っても銭湯も風呂のついた家屋も見つからないのだ。
毎日シャワーは浴びている。すっきりするし、気分もいい。けれどやっぱり物足りない。湯船につかりたい。足をぐっと伸ばし、肩まで湯に浸かって汗を流したい。
思い始めたらもうたまらない。頭を抱えてしゃがみこみ、ため息をつく。
「おう、どうした笹目」
上から降ってくる声に顔をあげる。案の定墨雪が赤い目覚ましを首からぶら下げて僕を見おろしていた。白いYシャツを着ているのが珍しいが、赤地に緑の水玉模様のネクタイがなんとも珍妙だった。
「ああ、墨雪。うん、ほら、ここって風呂ないだろう? 湯船」
「まあねえな。俺も探してみたりしたけどよ」
「またどこか、列車で行けるところにあるのか?」
「……ある」
なんだかいま妙な間があったな。とりあえず気にしないことにする。
「列車っていつ来るか分からないかなあ。僕とにかく湯船に浸かりたくって」
「んー、来るんじゃねえか? どっか行きたいって思う奴が多かったりすると来ることがある。たまに。多分」
「ずいぶん濁すな」
「むかーしな、なんかどっか行きてえなーって思いながら何人かで駅に通ってたら駅の看板にどっか場所が書いてあるってことが多かったんだよ。いまはどうか知らねえ。外に出たがるのも俺ら三人くらいだしな」
「昔はもっと人が多かったのか」
「まあな。みんな行っちまったけどよ。それより温泉だろ。行きたい行きたいって思ってりゃそのうち行けるだろうぜ」
みんな、どこに行ってしまったんだろう。聞きたかったが墨雪の話の持っていき方が「あまり聞くな」というような雰囲気を出していたので、何となく聞きづらかった。
ピー。洗濯の終わる音が聞こえた。墨雪に断って服やタオルを部屋に干しに行く。年がら年中晴天であるこの天の国ではどこで干したって洗濯物はからからに乾く。こんな所も、結構好きだ。
廊下に出れば墨雪は葉詰と話していた。葉詰は僕に「やあ」とあいさつしてくる。
「うん、葉詰。墨雪となに話してたんだ?」
「ああ、彼に君との会話を聞かせてもらってね。温泉かあ……」
葉詰はなんだか微妙そうな口ぶりだった。顔はこちらを向いていても、視線がなんだか合わない。
「葉詰、温泉いやなのか?」
「湯船に浸かりたいとは思うけれどね。人前で裸になるのがあんまり好きじゃないんだ」
「まあしょーがねーよな、そーゆーの。でもあそこにゃたしか宿場もあったから個室で入れるところもあるはずだぜ」
「本当かい? みんなと一緒にっていうのができないのは私も残念だけど、だったら行ってみたいなあ」
「列車が来ればなあ」
三人、空を見あげる。天の国の空に鳥は飛んでいない。ただただ澄み渡る青い空。
「……行ってみるかあ」
墨雪が声をあげ歩き始める。葉詰と顔を見合わせてから、彼を追いかけ階段を下りる。墨雪はさっさと駅へと向かう道を歩いていく。
周囲を草に囲まれた道を歩き、寂れた駅舎の中を通る。掲示板を一応確認してみたけれど、特に何も貼られてなかった。
ホームに上がり、看板を見る。「終着点 天の国」のほかには「地獄」のみで、他に行き先は示されていなかった。
「ま、こんなもんだろ」
墨雪はあっさり肩をすくめて言うとまたさっさと帰り始める。
「待てよ墨雪。待ってれば列車が来るかもしれないだろ」
「なんも書いてないときはなんも来ねえよ」
そういうものなのだろうか。葉詰はというと、遠く地獄のある方を見ている。見ても青い空と草原に挟まれた線路があるばかり、何も見えない。
「……私たちが来てからも、向こうから人が来ているのかい?」
「おう、来てるぜ。毎日毎日列車は来てるそうだ。でも大概の奴らは最初っからここにいたっていう風に思っちまうから、いつの間にか紛れ込んでいて気づかねえのよ」
毎日列車は天の国にやってくる。毎日人は死んでいる。当たり前のことなのに、なんだか少し悲しくなった。
気持ちを切り替えたくなったので、墨雪に温泉のある場所について聞いてみる。
「墨雪、温泉ってどんなところにあるんだ?」
「ん? まあいい場所だと思うぜ。あそこは年がら年中雪が降ってんだ」
「寒い所なのか」
「寒いけど、温泉があっちいからな。気持ちいいぜ。あとは楽しみにとっとけよ」
ずっと雪の降る場所か。温泉と言ったら雪国。川端康成も言っていた。
「トンネルでも通るかな」
「さすがにそれはないんじゃないかな」
そう言って葉詰はくすくす笑った。肩が揺れるのに合わせて髪もさわさわと揺れる。
「うどんでも食いにいくかあ」
うんと伸びをしながら墨雪が言う。確かに、そろそろお腹がすいてきた。満腹亭に行くとしよう。葉詰も頷くので、僕らは揃ってうどんを食べた。うどんのつゆに浸かった海老の天ぷらが何ともいえず甘く、ぷりゅぷりゅとした食感がたまらなく美味しかった。うさぎ頭の店主はいつものように少し照れるようにしながら手を振っていた。
それから数日間、駅のホームへ通う日々が続いた。一度温泉に入りたいと思ったらもうどうしようもなくたまらなくなって、早くどこかへ行ける列車がこないか待ち遠しくなった。
今日も葉詰と一緒に駅へと向かう。ホームに上がってみると、墨雪が青いベンチの上に座っていた。
「おう、お前らも飽きねえな」
「墨雪だってそうだろ。看板、変わったか?」
「いんやなんも。まあここは時間だけならいくらでもあるからな」
あんま気にすんなよ。そう言って墨雪はぽんと軽く背中を叩いて来る。
「そうだな。墨雪は、駅の看板が変わったところって見たことあるのか?」
「ねえな。気づいたらいつの間にか書いてあって、それで待ってたら列車が来る」
「じゃあ待っててもしょうがないじゃないか」
「まあそうだな」
言いながら墨雪は遠くをぼんやりと見つめる。……墨雪が待っているのは、駅の看板が変わることなのだろうか。そんなに温泉に行きたいのか? それとも別の場所に? 墨雪に聞こうと思ったけれど、なんだか少し戸惑いを感じてしまった。この感情は、なんだろう。
結局僕らはみんな、駅を背に歩き出す。さあっと吹き抜ける風が心地よく、胸の内でとぐろを巻いていた感情も一緒にさらっていくようだった。
+++++
「笹目。起きてるかい」
戸を控えめに叩く音と葉詰の声で目が覚めた。
「ああ、うん。いま起きたよ」
「駅のね、看板に行き先が書いてあったそうなんだ。着替えておいでよ」
看板、駅の看板? 寝起きで言葉を理解するのに少し時間がかかった。
「駅の看板って? どこにいくんだ?」
「温泉だよ。温泉のある町に連れて行ってくれるそうだ」
温泉! それを聞いて跳ね起きた。葉詰にすぐに行くと返事をして、部屋の外から葉詰の「顔も洗うんだよ」という声を聞きながら大急ぎで着替える。
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