六 神様、そして祭の日 ③

「そんな疲れたりしねえよ」

 そう言って登り始める墨雪について行く。上って、上って、上り続ける。なるほど、足が重くなることはなく、息が切れる様子もない。すいっすいっと簡単に上っていける。後ろを見て見るともう駅は見えず、ただ雲海が広がっていた。雲はやっぱり金色に輝いているが、ところどころ虹色に光っている部分もある。思わず手を伸ばすと、さっと冷たい感触が走り、指先にきらきらとしたものが残った。

「それな、神様んとこの宴席でも出るぞ」

「え、もしかして食べれるのか? これ」

「結構うまい」

 恐る恐る指先をなめてみても何の味もしない。墨雪に鼻で笑われてしまった。

「このまんまじゃ味しねえよ」

 ふと、足元にすり寄るものがあった。天の国でも感じたことのあるこれは、猫だ。するすると足に体をこすりよせながら、きらきらとした猫の輪郭がだんだんはっきり見えてきた。白や三毛や黒い猫。大勢の猫がにゃあにゃあ言いながら階段を上っていく。みんな天の国から来たんだろうか。

 猫たちと一緒に階段を上り続けると、大きな門の前に着いた。大きいと言っても、ちょっと立派な家の門が少し大きくなったかな、といったようなもので、あまりに金色な風景に囲まれているのに、なんだか普通に見えた。

 門の扉はすでに開かれていて、猫たちはぞろぞろと中に入って行く。中に入った猫はすっくと立ちあがり、うんと伸びをして。

「ああ。やっと着いた」

 などと話している。

「墨雪、猫が喋ってる」

「喋るだろ。神様も鬼もいる世界だぜ」

 僕はもう、何に驚いていいのかもう分からなくなってきた。

「それでもやっぱり、何がここの普通なのか、普通じゃないのか。私たちには分からないことばっかりだ」

「そういうもんか。俺もそうだったのかね」

 門をくぐるとそこは芝草の生えた広場に緋毛氈がいくつも敷かれ、すでに来ている人や猫が重箱を囲んでいた。墨雪は少し奥に歩いていって、猫たちが丸まっている近くにどっかり腰を下ろすと僕らを呼んだ。

 猫たちの間にそっと座る。近くの三毛猫はぼくのことをちょっと見て、笑って話しかけてきた。

「アオシ様のお誕生日は初めてですか?」

「え、ええ。初めてです」

「アオシ様はみんなが喜んでいるのを見るのが好きなんですよ。いっぱい食べて、のんびりしなさいね」

 そう言って徳利からお猪口にきらきらと光る水を注ぎ始めた。ここに来るまでの階段で見た虹色の雲を思いだす。

 墨雪はすでに自分の分を注いで葉詰にすすめているので、僕は自分の分に口をつける。すっと冷たい感触が舌を通りすぎ、飲み込めば体の中に風が吹き抜けるような感覚が身を包む。鬼の坂月で飲んだ酒桜泉の酒とはまた違う飲み口だ。

「うまいな、これ。酒なのか?」

「雲から精製したもんだからな、水みたいなもんだよ」

「うん。けどすごくおいしいね」

 葉詰もぐいぐい飲み干していく。重箱の中身は手巻き寿司に稲荷寿司、海老や昆布巻きなんかが入っていて、なんだか正月みたいだなと思った。

「まあ、めでたいことには変わりないからな。洋物食いたいんならあっちにあるけど」

 墨雪が指さす方は立食形式になっていて、そこでも人や猫が笑いながら飲んだり食べたりをしている。

「いや、いいや。ここのもすっごく美味しいし」

「あっそ、俺はケーキ食いに行ってくる」

 ひょいとつまんだかまぼこを口の中でもごもごさせながら、墨雪はテーブルの立ち並ぶ方へと去って行った。

「楽しい方ですね」

 ふと、隣から声を掛けられた。いつの間にか一人の青年が座っている。青い着流しに、長く黒い髪が緋毛氈の外まで広がっている。

「ああ、でも食べながらしゃべるなんて、あんまり上品じゃないですよね」

「いいんですよ、ここでは。楽しむことが一番ですから」

 そっと笑うような顔をして、お猪口を口にする。ほっと息を吐きだすと虹色の輪が口から飛び出して、猫たちがじゃれついた。それを見てくすくすと笑う姿があまりに絵になるので、僕はついぼうっと見とれてしまった。切れ長の目を縁取るまつ毛は長く、すっと線を引いたような眉は猫たちを見て穏やかに下がっている。その眼差しがあまりにも柔らかいので、凛と立つ白百合のような美しい女性にも見える。

 眼差し。顔。そうだ、この人の顔が見える。天の国に来てから、人の顔というものを見る機会がなく忘れていた。半紙でも、面をつけるわけでもなく、その人はその顔のままでそこにいた。

「あなたは……。あなたはもしかして、神様?」

「はい。皆からはヨキソラノアオシと呼ばれております」

 青年は、神様はすっと頭を下げた。慌てて僕と葉詰も頭を下げる。普通だ。その立ち居振る舞いのすべてが美しいのだが、その口ぶりも態度も、あまりにも普通過ぎる。天の国を歩いてすれ違ったとしても、気がつかないだろう。けれどなんだろう、この人自身が光り輝いているようにも見えるし、いるとわかってしまえばとても無視することのできない存在感がある。なんだか冷や汗が出てきた。

 神様は笑いながら「頭をあげてください」と言った。

「天の国は、どうですか?」

「とても、いい所です。夜がこないのが最初は慣れませんでしたが……」

「ああそうですか。うん、大丈夫ですよ。そのうち夜に行く機会もあるでしょうから」

「夜に行く?」

 葉詰の言葉にも神様は変わらず、静かに笑いながらそっと自分の髪を撫でた。

「ええ、私も夜は好きですから。ちゃんと夜はありますよ。楽しみにしてくださいね」

 そう言って神様は立ちあがろうとした。

「あ、あの」

「はい」

 つい引き留めてしまってからしまったと思ったが、神様は相変わらず笑っている。

「神様は、ここのことをすべて知っていますか。僕は、探し物をしているんです」

「知っています」

 神様はきっぱりと言った。僕がまた口を開こうとすると、その白い指をそっと僕の口に当てた。

「探し物というのは探しているうちは見つかりません。けれど探さなければ見つからない。難しいものです。探し物が見つからないのは遠くにあるか、近くにありすぎて目に見えないかのどちらかです。私はすべてを知っているがゆえに、すべてを話すことができません。言えることと言ったら……。あなたの場合は、近くにあります」

「近くに、いるんですか」

「そう遠くない未来に」

 そして神様は僕と葉詰を見る。

「良い友人をお持ちだ」

 そう言って神様は長い髪をなびかせながら別の宴席に向かった。

 僕らはそれを見送りながらはあーっと息を漏らす。

「あれが天の国の神様かい。なんだか、普通に見えるけれど、すごい人だったなあ」

「うん。普通だけど普通じゃない、変な感じだった。でも顔も名前も無くなってしまう天の国で、顔を持っているって言うことは、やっぱり特別なんだろうな。神様、か」

 別の場所に行ってしまえば、来たときと同じようにすっとまわりに溶け込んで、もう神様がどこにいるのか分からなくなってしまった。それでも僕らは少しぼうっとして、あの気配にあてられたのか少し酔ったような気持ちになってしまった。

「おう、お前ら。神様に会ったか」

「ああ墨雪。うん、会ったよ。なんだかすごい人だった」

「そっか」

 それだけ言って墨雪はまたどっかり座り込んだ。

「墨雪は? 会わなくっていいのか?」

「いいよ俺はもう。うまい飯がくえりゃそれで。お前ら連れてこられて満足だ」

「なんだ、そんなことで満足してていいのか」

「いいんだよ。神様に会うと俺、ちょっとセンチメンタルになっちゃうから。向こうもそれ知ってるから遠慮してんだよ」

 センチメンタル。墨雪が。そして神様が遠慮すると言う。葉詰は頭を抱えていた。僕もちょっとよく分からない。

「そんな関係なのに誕生会に来たのかい」

「そんな関係でもうまいもんはうまい」

 膨れた腹をぽんと鳴らして、墨雪は立ちあがった。重箱の中身も随分なくなっている。もうお開きか。猫たちはもう姿を消している。

 門を出るとき振り返れば、青い着流しの、あの天の国の空のような青い色をした神様はゆっくり手を振っていた。振り返していいものか少し迷って、やっぱり振った。神様は笑っていた。


 帰りの列車の中で、笹目木塔子のことを考える。探し物は近くにある。そう遠くない未来に、彼女はいる。

 なんだか少し気が楽になった。

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ここからは天の国 猫塚 喜弥斗 @kiyato

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