六 神様、そして祭の日 ①

 教室の中、椅子に座って本を読む。読んではいるのだが内容は頭に入ってこない。小さな字の羅列が意味をなさぬまま溶けだして雨となっていく。

 紙が濡れる。黒い雨が教室の床を濡らしていく。濡れて重たい髪を耳にかけ、振り返る。

 僕がいた。ここにいる自分とは違う、けれど同じもの。顔は溶けた文字と同じようにぼうと滲んでわからない。

 滲んだ僕は僕に声を掛ける。口の無い僕は声にならない声を発している。聞こえない。髪が長すぎるんだ。引っ張るとずるずるとのびていき、床の海に混ざっていく。

 頭が重い。僕が何か言っている。

「——ささ」

 眠い。


  +++++


「笹目」

 はっと顔をあげると目の前に見なれた狐面がいた。葉詰だ。彼は柔らかな声で僕の名前をもう一度呼んだ。

「笹目。起きたかい」

「ああ、葉詰。僕寝ていたのか」

「そうだね、ちょっとだけ。ここは気持ちいいから」

 僕らがいるのは長屋の裏にある草原だった。相変わらず静かな風が吹いていて、草が銀色に光っている。

 たまには外で食べようとおにぎりを作ってお昼にしたんだ。梅干しの入った簡素なおにぎりは、草原の中で食べるという非日常がスパイスとなって充足感があった。

 満たされた腹を抱えて、少し横になっているうちに眠ってしまったらしい。年がら年中真昼である天の国の日は肌を痛めつけるような熱は感じず、柔らかな布団の中にいるような心地よさばかりを与えてくれる。

「夢でも見たかい?」

「見た。忘れたけど」

 嘘だ。本当は覚えている。僕が僕を見ている夢。夢の中の、顔のない僕は何と言っていたっけ。ささ? 現実で葉詰が笹目と呼んでいたからそれが出たんだろうか。

 何で僕は忘れたなんて言ったんだろう。

 強い風が吹いた。葉詰の髪がふわりと揺れる。その姿を見るたび、いつも心に映るのは笹目木塔子の長い髪。線路に落ちていく後姿。そういえば、夢の中の僕も重い髪を引きずっていた。あれは何の暗喩だろう。

「葉詰は夢占いって信じるか?」

「信じないね。夢を見ること自体は面白いとは思うけど。気になる夢でもあるのかい?」

「いや、別に」

 きっとここに来てから、死んでからずっと笹目木塔子のことに囚われていることの暗示だろう。僕はずっと彼女のことを考えている。彼女に会えば何か変わる気がする。そんな不確かな綱を頼りに、僕は歩いている。そんな僕を支えてくれる葉詰には感謝してもしきれない。

「葉詰、僕はずっと笹目木塔子を探して君を頼ってばかりいる。君の願いはなんだ? 僕にできることがあるのならすぐに言って欲しい。僕も君の力になりたい」

「君と一緒に人探しを続けるの、私は嫌いじゃないよ。私の願いは……私は、君の力になることができればそれでいいんだ。君が君でいてくれればそれでいい。でも、もし笹目木塔子が見つかって、それで君が君でなくなるのなら……」

「葉詰?」

「……君が私を必要としなくなるのは少し、寂しいね」

「そんなわけないだろう! 僕と君は、ずっと友達だよ。それは変わらない。きっと」

「……私は私を頼ってくれる君に支えられているんだよ」

 また風が強く吹く。僕が頼ることで葉詰の支えになることができる。本当にそれでいいのだろうか。頼ってばかりいて、甘えているのは本当にいいのだろうか。彼はそれで幸せになれるのだろうか。

「……今日は風が強いな」

「そうだね」

 僕らの幸せはどこにあるのだろう。


「おう、お前ら。駅の掲示板見たか?」

 草原から長屋に戻っても少し気まずい沈黙が流れている僕らの前に、いつも通りの墨雪が顔を出す。なんだかほっとした。

「いや、これから見に行こうと思ってたんだ。なにか貼られてたか?」

「おう。聞いて驚け、神様に会えるぞ」

「神様?」

 かみさま? そんなものがいるのか、ここには。

「そういえば前に言ってたね、猫が好きな神様がいるって」

「ああ……なんかそんなこと言ってたっけか?」

 ここ、天の国には猫が多い。神様が猫好きだそうで、外を歩けばすぐにあちこちから足元にすり寄っていき、触ろうとすれば逃げていく。けれどその猫は人に見えることはない。猫が好きでない人もいるだろうと、神様が猫の姿を見えなくしているそうだ。……猫嫌いの人のそばには寄らないのだろうか? 見えない猫が近寄ってきたら怖いだろうに。

「お前らあんま驚かねえのな」

「まあ鬼も見たし、雨を降らせる人も見たしねえ」

「つまんねーの」

 頭をぽりぽり掻きながら墨雪はこぼす。けれどやはり、興味はある。

「神様って普段は会えないのか?」

「会えねーからこうしてわざわざ教えに来たんじゃねーかよ」

「それは悪かったね。駅の掲示板、見てみたいな」

「おう、行ってこい」

 手をひらひら降る墨雪を背に、僕らは駅へ向かう。

 古びた駅舎の戸はいつだって開きづらい。がたがたと引きずるように開く戸をくぐり、明るい外と反して薄暗い駅舎の中の掲示板に目を凝らす。


『天の国の神、ヨキソラノアオシ様

 誕生日につき祭りを開きます

 参加歓迎  ※猫多し、注意』


「よきそらのあおし様?」

「聞き覚えのない名前だね。でもこの天の国はずっと青空だから、そういう名前なのかな」

「神様に誕生日ってあるのか?」

「……さあ、どうだろう。ここにはあるんじゃないかな」

 張り紙にはそれだけ書かれていて、裏を見ても何もない。他に掲示物もなく、きっと僕ら以外の、“天の国に初めから住んでいると思っている人たち”にはわかるようになっているんだろうと思った。

「やっぱり墨雪に聞くのが一番だな」

「そうだね」

 どうも動かない戸を蹴飛ばしながら閉める。もうここ、開けっぱなしでいいんじゃないかと思いながらも、何となく閉めてしまうのはなぜだろう。

 長屋に戻ると墨雪は二階の自分の部屋で寝ていた。戸を開けたままだったのでそこから声を掛ける。

「墨雪ー。いいか?」

「んああ? おう……おう。いいぞ、なんだ?」

「いや、ヨキソラノ……神様の誕生日なんだって? いつあるんだ? 何か持ってった方がいいのか?」

「いやあ、なんも要らねえよ。ただ言って『おめでとうございます』って言えば喜んでくれる人だからよ」

「墨雪は会ったことあるのかい?」

 窓の近くの万年床からのそのそと起き上がってきた墨雪は腹を掻きながら「んー」と少し考えてからこう言った。

「あるっちゃある。ここ日付の感覚薄いけど、誕生日ってなりゃ毎回行ってるしな。んー……」

「どうした?」

「……ナイショ」

 そして墨雪は顔の前で人さし指を立てる。ひょっとこ顔でやられるとなんだかむかつく。

「楽しみにとっておけってことかい」

 葉詰はそう言ってくすくす笑った。まあ墨雪はそういう所がある。それにしても。

「お前、寝てたけど本当に何もしなくっていいのか?」

「何もしなくっていいんだよ。しばらくしたら列車が来るから分かるからな。大通りもにぎやかになるぞ。いまは寝とけ」

 何もしなくていいと言われても、何かしないといけないという気になってしまうのは仕方がないのだろうか。

 あくびをしながら寝床に戻る墨雪を見て、僕たちは顔を見合わせた。

「……しょうがないね、墨雪が言うんなら大丈夫だろう」

「そうだな。ヨキソラノ……なんだっけ?」

「ヨキソラノアオシ様だよ。楽しみだね」

「ああ」

 ヨキソラノアオシ様か……。どんな人なんだろう? そもそも人の形をしているのだろうか。

 葉詰と別れて部屋に戻り、言われた通り眠ることにした。


  +++++


 教室の中、椅子に座って本を読む。読んではいるのだが内容は頭に入ってこない。小さな字の羅列が意味をなさぬまま溶けだして雨となっていく。

 ああ、これは前に見た夢だ。振り返ると僕がいる。重い頭を持ち上げ、後ろを見る。

 立っているのは、狐面。

 葉詰だ。葉詰が僕の席に立っている。

 頭が重い。

 「——ささめ」

 僕の名前を呼んでいる。

 いかなくちゃ。そう思うのに墨色の海に足が沈んでいく。長く伸びた髪が引っ張られていく。

 体が沈む。

 眠い。


  +++++


 ちゃんかちゃんか、ちゃんかちゃんか。

 奇妙な音が聞こえて目が覚めた。お祭りで鳴るような、鉦の音。

 欠伸をしながら起き上がって窓の外を見ると、ちらちらと何かが降っていた。以前鬼の坂月で見たような、桜吹雪を思いだす。窓を開け、手を伸ばす。それは金色をした紙吹雪だった。日の光に照らされて、きらきらと光っているそれは手の中で雪のように解けて消えていく。

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