五 極卒、そして桜の川 ②
「んあ?」
墨雪に肩を揺すられて目を覚ました。どうやら随分深く寝入ってたらしい。隣の葉詰も伸びをしている。列車は停まっているようだった。
「ああ。僕、どのくらい寝てた?」
「いま九時十五分だね。乗ってからだいたい三十分くらいかな」
葉詰が懐中時計を見てパチンと閉じる。その時、葉詰の向こう、窓の外で何かがちらちら落ちていくのが見えた。
「なんだ、あれ。……花びら?」
「おう。降りるぞ」
酒瓶の入ったリュックを背負い、墨雪は開いた扉へと向かっていく。慌てて後を追い外に出て見ると、扉は閉まり列車は走り出した。看板には左側に「天の国」、中央に「鬼の坂月」と書かれていて、列車の去って行った側には何も書かれていなかった。ホームには屋根もベンチもなく、花びらが降ってくる。ピンク色で、切れ込みの入っているこれは……。
「やっぱ桜か、これ」
「ここはずーっと桜が咲いてんだ。めでたい場所だろ」
「へえ、綺麗だね」
空を見あげていると、あの抜けるような青空はどこにもなく、ただただ光に満たされた桜色に輝いていた。空の上から桜の花びらが降り注ぐ。
「不思議だ、木も無いのに」
「木は木でちゃんと別にあるけどな。ほら行くぞ」
がっちゃがっちゃと音をたてて墨雪は歩きだす。僕らも重いリュックを背にふり続ける桜の中を歩き始める。ホームを下りても、駅舎が見当たらない。ただ人の歩くような道にだけ花びらは落ちておらず、そこは天の国に似ているなと思った。
歩き続けて瓶の入ったリュックが肩に食い込んできたとき、先の方に大きな木が何本も生えているのが見えた。木の下には人影があり、かすかに笑い声も聞こえる。
「人がいるね」
「まあ人っていうか……行きゃわかるか」
大きな木はみんな桜の木だった。そのどれもが花を目いっぱいに開かせていて、花びらを散らせている。地面には花びらが厚く絨毯のように敷き詰められている。
桜に目を奪われていると、笑い声が耳に届いた。花見をしているのだろうか。そこの人たちに酒を分けて貰うのだろうか。
笑い声のする方に目をむけると、小さな人影の正体に気がついた。赤い肌、大きな体、頭には尖った角が二本はえている。
「す、墨雪、あれって」
「おう、鬼だな」
「鬼、かい。天の国に行く途中で見たけれど……」
そう、鬼だ。天の国の手前、地獄で乗客たちを次々と頭陀袋の中に入れていった奴らだ。あの時険しい顔をしていた鬼たちは、いまは陽気に笑い、重箱と酒瓶を囲んでいる。僕がすっかりぽかんと立ち尽くしていると、墨雪はずんずん進んでいき、鬼の一人の肩をぽんと叩いた。
「おう、飲んでるか?」
「飲んでるぞお! ん? なんだお前、また来たのかあ!」
鬼は大声で笑いながら墨雪と話している。他の鬼たちも「また来たかあ!」「飲め飲め! どんと飲め!」と大きな杯を手に叫んでいる。
「んん? 他にも人間がいるなあ!」
その声をきっかけに鬼たちが一斉にこちらを見たので思わず身がすくんだ。
「ど、どうも」
「こんにちは」
何とか挨拶をすると鬼たちはお酒のなみなみ注がれた杯を僕たちの手に押し付けてきた。ぷんとアルコールの匂いが立ち上る。
「まあ飲め! 飲め! ここの酒は飲まなきゃ損だぞう!」
「あの、でも、僕らお酒飲んだことがなくって……」
「笹目、飲んでみろよ。うめえぞ」
「でもこれ、結構きついんじゃないかい?」
葉詰はすんすんとお酒の匂いを嗅いでいる。僕らがしり込みしている間にも、鬼たちはどんどん杯を空にしていき、墨雪も木の根元にどっかり座り込んでぐいっと杯を傾ける。
「あーっ。これだよなあ。お前らも飲めよ、飲んでみりゃ分かるからよ」
ここでただ立っていても、なんだかバカのような感じがしてきた。僕は思い切ってお酒に口をつけて見る。びりっと舌が痺れたと思った瞬間、鼻の中を勢いよく熱が通りすぎていく。
「がはっごほっごほっ」
「大丈夫かい、笹目」
口に入れた分をほとんど出してしまった。それを見ても鬼たちは笑っている。大丈夫かあ、などと叫んで手拭いを投げてよこす者もいた。
「お前飲むの下手だな」
墨雪に言われるとなんだかむっとくる。口元を拭い、もう一度杯を口に運ぶ。アルコールの匂いが鼻を通る前に一気に飲み込むと喉の奥がカッと熱くなり、ぱんと目の前がはじけたように感じた。体の中を冷たい風が吹き抜けるような清涼感と、目の前のすべてが輝くような感覚が頭を支配する。踊るような花びらが一枚一枚鮮明に移り、空を飛んでいるような心地がする。あとはふわふわと浮くような感覚と、花の匂いが残った。
「なんだこれ……。お酒ってこんなにすごいのか?」
「本当だ。もともときれいな景色だけど、なんだか世界が違って見える」
「いやあ、他のとこの酒も飲んだことあるけどここのは格別だな。いいだろ」
「飲みすぎてアルコール中毒になりそうだ。二日酔いが怖いね」
「ここの酒はいくら飲んだって後に引いたりしねえんだよ。また飲みてえってなるが依存症ってほどにもならねえ。夢の酒だよ」
杯の分を飲み干すと、鬼が酒瓶を持ち上げるので座って注いでもらう。降り続ける花びらが杯に浮かんでくるくると回る。なんだか綺麗だ。
「なんだか不思議だ、一口ごとに味が違う気がする」
「花びらが入ると味が変わるんだよ」
重箱も差し出された。中に入っているのはかわいらしい茶巾寿司だ。薄焼き卵の黄色にイクラや甘エビなどが良く映えている。食べて見るとほのかに甘い酢飯とレンコンのシャキシャキ感がたまらなく美味しい。そこで酒を飲むと世界がまたぱんと弾けては輝き、笑いたくなってきた。
「ああ、これは楽しいな」
「そうだね。景色もいいし茶巾寿司も美味しい。いい所に連れてきてもらったね」
「そうだろ、いいとこだよな、ここ」
墨雪がまた杯を空けた。降り注ぐ桜の中、しばらくぼうっとする。
「なあ墨雪、ここの鬼たちって、地獄から来てるのか?」
「おう。地獄の極卒だよ。地獄に落ちた人間しばきまわして、その休暇になるとここに来るんだと」
「なら、笹目木塔子がいるかわかるかな」
「んー、地獄にいるなら知ってるだろうし、ここに来る人間なんてそういないからな。会ってたら分かるかもしれねえな」
よし。僕は立ちあがって鬼たちの方に歩み寄る。
「あの、すみません」
「どうした?」
「人を探しているんです。笹目木塔子という名前の女性で髪が長くて……知りませんか?」
「笹目木塔子、笹目木塔子……。お前ら知ってるかあ?」
「いや、地獄じゃ聞いたことねえなあ」
「ここで見たこともねえなあ」
鬼たちは知らないようだった。少なくとも、地獄にはいってないことがわかった。
「ありがとうございました」
「おーう。見つかるといいなあ!」
鬼たちは笑ってまた酒を飲み始めた。笑い声を後ろに、僕は少し気が楽になった。笹目木塔子は地獄に行っていない。またいろんな所を探すことになるだろうけど、それもまた楽しみだ。
「どうだった?」
「地獄でもここでも知らないって」
「地獄にいないってのはいいな。俺、地獄には行ったことねえからよ」
「そうなのか?」
「まあな。行きたくもねえしな」
そう言ってまたお酒を飲み干す。僕は満腹になり、また少し眠くなってきた。ごろりと横になる。これほどまでに花びらが散っているのに、木はいつまでも満開の桜を咲かせている。
「……花で溺れそうだ」
「本当だね。凄く綺麗だ」
「寝とけ寝とけ。あとでいいとこ連れてってやるからよ」
いいとこってどこだろう。電車でも寝たのに、でも葉詰も寝ている。そんなことを考えているうちに眠りについた。
目が覚めると、鬼たちはまだ笑ってお酒を飲んでいた。
「おう、起きたか。そろそろ葉詰も起こせよ」
墨雪に言われて隣で寝ている葉詰の肩をそっと揺らす。彼は少しびくっと動くとそろそろと起き始めた。
「ああ、どのくらい寝ていたかな」
「そんな経ってねえよ。ほら行くぞ」
さっさと歩き始める墨雪。僕らも立ちあがって後を追う。酩酊感が残っているかと思ったけれどすんなり歩き出すことができた。後に引かないというのは本当らしい。頭もはっきりしている。
鬼たちの笑い声が少しずつ遠くなり、代わりに水の音が聞こえてきた。お酒の匂いも強くなっている。
桜の木々の合間に、きらりと光るものが見えた気がした。足を止めて花びらを払ってみる。
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