四 連雨、そして花の香 ③

 僕らは言われるがまま針をゴムに通す。そして廊下の手すりから瓶を放り、ぼちゃんと音をたてて雨水の中に沈んでいくのを見送る。二分、三分と時間が過ぎていく。

「何も起きないぞ」

「釣りなんてそんなもんだろ」

「あ、なにかかかったよ」

 葉詰の方を見ると確かに浮きがぴくぴくと動いて、ストンと水の中に消えていった。慌てて釣竿を引く葉詰の所に、瓶が勢いよく飛び出していく。葉詰はそのまま尻もちをつき、瓶は一階の廊下のあたりでぶらぶらと揺れていた。

「うわっ」

「葉詰! 大丈夫か?」

「そんな勢い良く引かなくったって逃げねえって」

「初めから行って欲しいな……そういうこと」

 葉詰は立ちあがり、釣竿を引く。瓶には水がたっぷりと入っていて、ただそれだけのように見えた。

「ただの水……じゃないんだろうね」

「おう、飲んでみろ」

 輪ゴムから針を外し、恐る恐るといった風に葉詰は瓶を口に運ぶ。そして少し舐めて、首をかしげてから一口飲み込んで、驚いたように声をあげた。

「ラムネだ、ラムネが入ってるよこれ」

「えっ」

「おい、お前のも引いてるぞ」

 確かに手元にぴくぴくと引く感触がある。そっと瓶を引き上げてみると、やはりただ水が溜まっているようにしか見えなかった。

 瓶の口から匂いを嗅いでみる。特に匂いはしない。葉詰がしたようにそっと舌先で水に触れて見ると、なんだか甘いような酸っぱいようなそんな味がした。

「これ……レモネード、か?」

 一口、また一口と飲んでいく。飲めば飲むほどレモネードの味が口の中に広がって、甘ったるいような、抜けるような酸味が喉を通る。気がつけば一息に瓶を飲み干していた。

「なんだこれ、雨水じゃないのか?」

「わかんねえ。でも前に瓶落っことしてよ、そんとき酔ってたからそのまんま飲んじまって……。青汁だったなあ、吐いちまったよ」

「へえ……何が入っているかはランダムなのかい?」

「おう。なにが釣れるかわかんねえ。暇潰しにはなるだろ」

「まあな」

 そう言って僕はまた瓶を水の中へと投げ入れた。葉詰はラムネの入った瓶を手に、釣竿を墨雪に渡す。茶色な瓶を括り付けて、それがぼちゃんと波紋をたてるのを見送る。

 しばらくして、また瓶が沈むような手ごたえがあった。そっと引き上げて味を確かめる。

「オレンジジュース」

 墨雪は笑って自分の瓶を引っ張り上げ、中身をぐいっと飲み干そうとして。

「がっごへっ!」

 噴き出した。

「あおじるだ……」


  +++++


 酷い豪雨だった。だああっと雨音は途切れることもなく鳴り続ける。雨に遮られ、外の様子は何も見えない。釣りをする気にもなれず、人と会う気にもなれず、布団の中で横になっている。水位はどれほどまで上がっただろうか。ここまで降るのなら、あれほど拍手をするのではなかった。この雨に、それほどの価値があるのだろうか。気は鬱々と滅入り、空と同じように晴れることはない。

 葉詰か、墨雪かが何度か戸を叩いたようだが返事をする気にもなれなかった。申し訳ないと思いつつも、どうも気だるい。

 眠い。

 目を閉じているうちに晴れないだろうかと思い、雨音を聞いているうちにいつの間にか眠ってしまった。


 目が覚めると、窓から光が射していた。これまでの薄曇りの合間から覗くかすかな明かりではなく、雨上がりの晴れ晴れとした陽光だった。あまりにも明るくて目が眩む。

「晴れだ……」

 布団から抜け出し、窓を開け放つ。桟の際まで雨水は溜まっており、かすかに波をたてていた。

「晴れだ、晴れだ、晴れだ!」

「うるせえよボケナス!」

 墨雪の声がして戸をどんっと叩かれる。僕ははっとして駆け寄り戸を開け離した。懐かしいひょっとこ顔が僕を迎える。

「墨雪。すまない、迷惑かけたな」

「俺は心配なんかしちゃいねえよ。葉詰の方だな、やばかったのは。早く顔出してや……」

「笹目! 大丈夫だったかい!?」

 途端、墨雪を押しのけるように葉詰が入ってきた。葉詰は僕の手を触り、顔を触り、様子を確かめてくる。

「よかった、心配したんだよ、ずっと出てこないから……」

「ごめんな。なんか気分が上がらなくって……でも晴れたな」

「ああ笹目、廊下にきてごらんよ。すごいことになってるから」

 葉詰に手を引かれ外に出る。日の光を浴びると、寝る前までの鬱々とした気持ちが乾ききった流木のようにすっきりと抜け落ちていることに気がついた。なんて単純なやつなんだろう。自分の心に笑えてくる。

 手すりの下まで来ている水面は日に照らされてまるで一面に敷き詰めたビー玉が光を反射しているように、あるいはダイヤモンドを散りばめたのかように輝いていた。

「すごいな……こんな景色、初めて見た」

「水の中もすごいよ」

 手すりから身を乗り出すように指さす方を覗いてみれば、そこは一面花が咲いていた。手毬のような紫や青の紫陽花、すきっと立つ桔梗、目を凝らしてみれば小さな鈴蘭がゆらゆらと揺れていた。

「なんで水の中で咲いてるんだ?」

「それはここが天の国だからとしか言えねえな。ほらお前ら、舟に乗るぞ」

 見れば墨雪が水に浮かんだ舟にもう乗り込んでいた。葉詰は「行こう」と僕の肩を押し、墨雪の手をとって船に乗る。僕も葉詰が差しだす手をとった。案外舟は揺れずに僕らを乗せてしっかりとしている。墨雪が櫂を漕ぎだすとゆっくりと動きだし、やがて手を離してもそのまま水の上を進んでいた。

 静かに、静かに舟は進んでいく。

 墨雪は屋根の下に入って眠りはじめた。あたりには睡蓮の花が咲いている。

「笹目、睡蓮と蓮の違いってわかるかい?」

「睡蓮は確か水面に咲くやつだろ、これだよな。蓮は水の上までのぼって咲くやつ」

「そうだね」

 そう言って葉詰は睡蓮の花に手を伸ばす。

「君はもう知っているんだね」

「? 何をだ」

「なんでも」

 突然彼は舟から身を乗り出し、水に顔をつけてた。僕が驚いて見ていると葉詰は顔を起こし、狐面から水を拭う。

「笹目、水の中で息ができるよ。行ってみよう」

「えっ」

 返事をする間もなく、僕は葉詰に手を引かれ水の中へと落ちていった。どぼんと落ちる音が響き、自分の口から出る泡が目の前を白く染める。慌てて上へと向かおうとする僕の手を掴み、葉詰はどんどん沈んでいく。思い切って深く息を吸ってみると、なんのことなく呼吸ができた。僕らはそのまま沈んでいく。

 見あげると睡蓮の茎がまっすぐのびていて、その葉の影の隙間から日が差し込むのが見えた。綺麗だと思った。

地面につくと、そこは上から見たように様々な花が咲いていた。百合、山梔子、立葵。そっと顔を寄せて匂いを嗅いでみる。むっとくるような甘い匂い。でも、嫌いじゃない。

 葉詰と二人、水の中の花畑を歩く。彼は桔梗の花を少し摘んで、僕は鈴蘭を摘んでみた。鈴蘭、再び希望は訪れる。願掛けのようなものだった。笹目木塔子が見つかるように。僕の記憶が、なにか戻るきっかけになるように。


 舟に戻ると墨雪は目を覚ましていた。

「おう、落ちたのか」

「いやまあね、少し散歩をしてたんだよ」

「そりゃいいや。綺麗だったろ」

 そう言って彼は首から下げていた目覚まし時計を見る。僕も時計を見てみると八時三十分を指していた。

「もうそろそろだな」

 何が、という前にそれは起こった。水面がぶるぶると震えだし、ぷくん、ぷくんと水の玉が空へと上っていく。大粒の雨が逆再生でもするように、シャワーを上向きにして水を出したように、太陽の輝く空へ向かって、雨水が帰っていく。

 水かさはどんどん減っていき、花は蕾になって茎が縮みはじめる。僕らの服からも水の粒が立ち上り、乾いていった。あとに残ったのは元通りの静かな草原だけだった。けれど手の中には、確かに水の中で摘んだ鈴蘭があった。

 墨雪が舟から降りると途端にがたがた揺れはじめ、舟が少しづつ小さくなっていく。慌てて僕らも降りると舟は借りた時のように手乗りサイズになっていた。

「な、楽しかったろ」

 舟を拾いながら墨雪は言う。

「あれが見れるのは雨降ら師が来たときだけだぜ」

 僕は手元の鈴蘭をいじる。

「まああんな景色が見れるならやっぱり雨もいいな」

「あんなに部屋に籠ってたくせに」

 言われて僕は笑った。

 次に目が覚めた時には鈴蘭はどこにも見当たらなかった。

 けれどあの花々の香りを、僕はまだ覚えている。


 そういえば僕は、鈴蘭の花言葉をどこで知ったんだろう。

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