四 連雨、そして花の香 ②
「……雨は初めてかい」
ぼそぼそと低い声が雫模様の奥から響く。驚きながらも頷くと、傘屋の主もこっくりこっくり頷きながら、
「……楽しんで」
そう言ってまた別の客の所へ行ってしまった。隣で葉詰がくつくつと笑っている。
「天の国の人は、優しいね」
「……地獄に行かなかった奴らだからじゃないか?」
「そうだね」
葉詰の低いような、高いような心地よい声が、人の賑わう店内でやけに響く。
「……葉詰も、優しいよ」
「違うよ。私が、優しいのは」
葉詰がこっちを見る。白い狐面が笑っている。
「君が君でいるからさ」
そう言って葉詰は、もう出ようかと言ってくるりと身を返す。僕は葉詰の言うことの意味を少し考えて、聞こうとして、やっぱりやめた。どう聞いても柳のようにかわされるような気がした。
+++
でん。
外から太鼓の音が聞こえて目が覚めた。顔を洗いに外に出る。廊下から見える草原はいつも通り青い空のもと、風にさやさやと音をたてている。これから雨降ら師が来るようにはまるで思えない陽気だった。
でん。
また、太鼓の音が聞こえる。大通りの方だろうか。傘を借りに言った日に、廊下に雨戸を引かなくていいのかと墨雪に聞いたが「いらねえ」と言われた。雨が降ったらびしょ濡れになってしまうだろうに。
でん。 でん。
顔を洗って出ると、太鼓の音の間隔が短くなっているようだった。葉詰は起きているだろうか。部屋の戸を叩いても何も返ってこないので下に降りる。台所に行ってみると葉詰が食器を洗っている所だった。
「おはよう笹目。起きたかい」
「おはよう。この太鼓の音なんだ?」
「墨雪が言うには雨降ら師が来る合図だそうだ。外を見てみたけれど人がいるふうでもないし、雨が降るようにも見えない。笹目、食事をとっておきなよ」
でん。 でん。
僕はご飯と味噌汁を器によそう。卵があったので目玉焼きをつくった。縁がカリカリになるまで焼いて食器を膳に盛り、部屋に戻る。今日の味噌汁はシジミだった。シジミの身は出し殻だなんて、どこで知ったんだっけと思いながら、それでも身をほじくり返す。うまい。
でん。 でん。 でん。 でん。
食器を洗って拭いていると太鼓の音がどんどん響いて来る。外に出ようとしたところで墨雪が入ってきた。
「おう。外に出んなら傘持ったほうがいいぜ。これから雨降ら師が来るからな。濡れるぞ」
「わかった。墨雪はどうする?」
「俺は出る。せっかくの雨だかんな」
「葉詰は?」
「出るってよ」
でん。 でん。 でん。 でん。
でん。 でん。 でん。 でん。
太鼓はの音ますます激しくなっていく。傘を取りに階段を上がっていくと葉詰と出会った。
「笹目、急いだほうがよさそうだ」
「そうだな、すぐ行く」
部屋に入ってすぐの所に置いておいた傘を手に階段を駆け下りる。靴を履いて外に出ると、周りの長屋からも人が出てきてもう傘を広げて立っている。
葉詰と墨雪も傘を広げていた。青空の下、茶色の番傘をくるくる回しながら墨雪が「おう」と言ってくる。
「お前ら、雨降ら師が来たら拍手しろよ。拍手がでかければでかいほど雨も調子よく降るからな」
「傘さしたまま拍手できるか?」
「別に濡れてもいいなら傘いらねえぜ」
でん。 でん。 でん。 でん。
でん。 でん。 でん。 でん。
でん。 でん。 でん。 でん。
太鼓の音はどんどん大きくなっていく。まるで空気も震えているようだった。
でん。 でん。 でん。 でん。
でん。 でん。 でん。 でん。
でん。 でん。 でん。 でん。
でん。 でん。 でん。 でん。
駅のある方を見ると、なにか物影が動いたような気がした。その時、通りに立っている人びとが一斉に拍手を始めた。墨雪も手を叩いて大声を張り上げる。
「ほら、お前らもするんだよ」
ぱっ。上からひとつ、音が鳴ったと思うとまたひとつ、ぱっと音が鳴る。見て見ると小さな水滴が透明なビニールの向こうに見えた。
「雨だ」
拍手をし始めた葉詰が呟いたとたん、空はまだ青いのにぱたぱたぱたっと雨が降り始めた。僕も慌てて拍手をする。
でん。 でん。 でん。 でん。
目の前で太鼓の音が鳴り、はっと顔を下せば通りを大きな人が歩いていた。その人は白い布を身にまとって、宙に浮かぶ和太鼓を太い撥で叩いている。二メートル以上はあるんじゃないかというような体をまっすぐに伸ばし、一歩、また一歩とゆっくり歩いていく。
傘を落とさないように拍手をしながら、その雨降ら師の顔を見る。翁の面をつけていた。
でん。 でん。 でん。 でん。
雨脚はどんどん強くなり、雨降ら師の姿が少しずつうすらぼけていく。その時、雨降ら師が歩みを止めた。
「
雨降ら師が天を仰ぎ大声で笑い始めた。すると翁の面の口から濃い灰色の煙のようなものがあふれ出てくる。笑い声が響くたびにその煙はどんどんあふれ、天へと昇っていく。ああ、あれは雲なんだと思った。
でん。でん。でん。でん。
喝采の中、笑い声と太鼓の音が入り交じり、雨脚はそれに呼応するように強くなっていく。雨降ら師はぴたりと笑うのをやめ、ゆっくりゆっくりとまた歩き始めた。
空を見ると灰色の雲が広がり、ある程度進んだところで切り分けたようにまた青い空が見える。遠のく雨降ら師はまたこの先で笑い、雲を吐き出すだろうか。
でん。 でん。 でん。 でん。
太鼓の音が小さくなっていく。そして拍手の音もまばらになっていき、雨の音しかしなくなった。僕はぼうっと空を見あげる。ばたばたと雨と傘がぶつかり合い、音をたてている。隣り合った雨粒が交じり合い、溶けるようにビニールの上を滑り落ちていく。
「……雨って、きれいなんだな」
「そうだね。ここに来てから青い空ばかり見ていたから忘れていたよ」
下を見ればだんだんと地面に水たまりができていき、そこに落ちた雨が波紋を描く。描かれた波紋はまた起きた別の波紋に打ち消され、と思う間もなくまた波紋が産まれる。
「三日もすりゃ嫌んなってくるけどな」
墨雪が隣で水を差した。
+++++
雨は降り続ける。細い雨、強い雨。仄かに日の射すときもあれば、あたりが真っ暗になるほど雲が濃くなる時もある。心配していた廊下の雨は、墨雪の言う通り何の問題もなかった。まるで透明な壁がそこにあるように、雨は長屋の中に入ってこない。けれど手を差しだせば、ちゃんと雨に当たって濡れるのだ。
さて、僕らはというと。
「暇だね」
「暇だな」
飽きていた。
それはそうだ。誰だって四日も(あれから四日経っていた)雨ばかりとなれば飽きが来る。
その間外に出れない訳ではないのだが、雨雲というものは人の気力を吸って膨らむのか、どうも力が入らない。
雨水がどこへも流れて行かないのも、部屋に籠る理由になっていた。降り注いだ雨はどこに行くでもなく、ただただ地面に溜まっていき、三日も過ぎればひざ丈まで水面が届くようになっていた。それでも、長屋の中まで水は入ってこず、戸のふちでぴたりと留まっているのだから不思議でならない。
とにかく僕らは、どこへ行くでもなく、この長屋の中でただ暇を持て余していた。
「舟に乗るにゃあまだ早いしなあ」
廊下から眺める水の底となった草原を見ながら、墨雪もそう言って頭をぼりぼり掻く。肩を回してぽきぽきならし、しばらくしてからぽつりと呟いた。
「釣りでもするか」
声を掛ける間もなく、墨雪は部屋へと向かう。彼の唐突な動きは今更なので、僕と葉詰は黙って待つことにした。
戸を開け離した墨雪の部屋からは何かごとごとがちゃがちゃと物音が響いていたが、少しすると足で戸を閉めながら戻ってきた。手には釣竿を二本と、何やら箱を抱えている。
「お前ら釣りしたことあるか」
「さあ、どうだったか」
「まあいいか。エサくっつけときゃなんでも釣れるからな」
そう言って墨雪は僕らに竿を渡してくる。
「待てよ、エサって……僕は虫嫌だぞ」
「別に虫でもいいけどよ、そんなんつまんねえだろうが。エサにすんのはこれだよ」
墨雪は床にどんと箱を置く。中に入っていたのは数々の空き瓶だった。透明なもの、茶色なもの、様々ある。日本酒が入っていたと思わしきラベルがそのまま貼ってあるのもあった。そしてそのどれも、首の部分に輪ゴムが巻きつけてあった。
「好きなの選んで釣り針を輪ゴムんとこにつけるんだよ。それで溜まった雨ん中におとす。やってみろ」
「それで何が釣れるんだよ」
「やってみねーとわかんねーだろ」
「……」
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