四 連雨、そして花の香 ①

 今日も天の国はいい天気だ。太陽はただただ温かで、青い空には雲一つない。そんな窓の外を眺めながら、僕は笹目木塔子のことを考えていた。

 ここにきて数日たつ。彼女は一向に見つからない。裏の草原をあてどなく歩いた。大通りを行き、道行く人に彼女のことを訪ね歩いた。それでも彼女に繋がる道は見えない。

 もう、彼女はここにはいないんじゃないかと思うこともある。もう諦めようと。けれどそう思うたびにまた彼女のことを思いだし、探しはじめる。

 なぜこんなに彼女のことを思うのか。それは僕に僕の記憶が無いからだ。生きていた時のことを、何も思いだせない。例えば両親、例えば友人。一般常識や住んでいた世界のことならわかる。でもそれはわかるだけで思い出ではない。そんな僕に残された唯一の記憶。ここに来る直前、駅のホームで見かけた笹目木塔子の姿。風になびく長い髪。線路に落ちる彼女の手をとって、僕はここに来た。彼女を見つければ、なにかが変わる気がする。そんな不確かな手がかりを頼りに、僕はここで暮らしていた。

 いや、頼りにしているのはもう一つある。僕と同時期にこの天の国に来た、葉詰。

彼がいてくれたおかげで、僕は自分を見失わずに済んだ。顔を失い、名前も思い出せない。そんな僕を支えてくれた。そして彼も、僕を必要だと言っている。

 本来、天の国の住人は生きていたことを忘れて、当たり前のようにここに住んでいるらしい。けれど僕らは忘れているということを知っている。そんな不安の渦の中、互いを支えにしようと言ってくれた。彼も笹目木塔子を探すのを手伝ってくれている。

 けれど行き詰った。もうこのあたりを探してもどこにも彼女の影は見当たらない。もう一人の友人、墨雪は言っていた。駅のホームの何も書いていない看板に行き先が書かれたとき、そこに行くことができると。きっと笹目木塔子はそこにいるのだ。何かが書いてあるのなんて、見たことないけど。

 その時突然、戸をどんどんと叩かれた。

「笹目、いるか? もうすぐ雨が来るぞ」

「墨雪?」

 僕は窓から目を離す。墨雪はまだ部屋の前にいるようだ。慌てて出迎えると墨雪は「おう」と言ってきた。今日は蛍光ピンク一色のシャツを着ている。目に痛い。

「どうしたんだ墨雪。雨なんて降るのか」

「降るっつーか来るんだよ。おら、葉詰んとこ行くぞ」

 墨雪は僕を置いて隣の葉詰の部屋に向かう。訳も分からずついて行くと墨雪は僕にしたように戸を叩いていた。

「葉詰! 雨が来るぞ!」

「なんだい騒々しいね。どういう訳だい」

 すらりと戸をひいて現れた葉詰は灰色の袴にスタンドカラーの、いつもの書生風の服装でいた。肩に届くか届かないかの髪がさらさらと揺れている。

雨降あめふが来るんだよ。んでここに雨が降るから傘用意するんだったら今からの方がいいぜ」

「アメフラシ? なんだそれ、ウミウシだっけ」

「アメフラシとウミウシは似ているけど別物だよ。しかし一体、アメフラシが来てどうするんだい?」

「なんか違うの考えてるなお前ら。雨降ら師は人間だよ、一応。ここは雨が降らねえけど、たまに雨を降らせに来るヤツがいるんだ。そいつのこと雨降ら師っていうんだよ」

 雨を降らせに来る雨降ら師? そんなことができる人間がいるんだろうか。そう考えた僕だったが次の瞬間にはそれを一蹴していた。ここは天の国。そういうこともあるんだろう。

「で、雨が降るから傘がいるのか? 外にでなければいい話だろ?」

「雨は七日間は降り続けるぞ。ずっと部屋ん中籠ってなんていられっかよ」

「七日も降るのかい」

 葉詰ははあーっとため息をついた。確かに、それだけ降るんだったら傘でも用意しておいたら気が楽だろう。

「あと舟だな。あったら楽しいぞ」

「舟? まさか雨が降りすぎて海になるとでもいうんじゃないだろうな。」

「まあそんなもんだな。いいもんだぜ、その頃には晴れてるしな」

 また話が分からなくなってきた。そんなアニメみたいな話があるのか。

 そのときふと思い出したのは、天の国に来るまでの列車に乗っていた時に見た光景。一面の青空の下、どこまでもどこまでも広がる水の世界。ここもそんな風になるんだろうか。そう考えて見ると、なんだか雨というものが俄然楽しみになってきた。

「墨雪、その雨降ら師はいつ来るんだ?」

「三日後って書いてあったな。駅舎に掲示板があるだろ? そこに貼ってあるんだよ」

「福丸雑貨店に傘はあったかな」

「傘屋に行った方がいいぜ。あそこもいつだって物があるわけじゃないからな。舟も貸してるし予約できるぞ」

「よし、行くか」

 墨雪はさっさと歩き始める。やると決めたら行動が速い。僕らは慌てて置いて行かれないように彼のあとをついて歩いた。


  +++++


 大通りを歩き続けてたどり着いた傘屋には人がいて、少し混みあっているようだった。そこまで多いわけでもないけれど、ここまでたくさんの人が集まっているのを僕は天の国に来てから初めて見た。

「ここ普段は何もやってねえんだよ、雨降ら師が来る時だけ開いてんだ。売ってるんじゃなくって貸し出ししてんだよ。雨が終わったらみんな返すんだ」

「なるほど。なんというか、天の国ならではといった感じだね」

 店の中に入ると結構広く、あちこちで色とりどりの傘が開いていた。様々な色や模様の傘がこちらを向いている様はまるで花でも咲いているようだった。人々は傘を開いたり閉じたりと、自分の気に入る傘を探している。

「俺いっつも番傘選ぶんだ。雨の当たる音がいいんだぜ」

 そう言って墨雪は店の奥に向かう。なるほど番傘。なんだか彼に似合っているように感じた。僕らも選ぼうかと葉詰の方を見ると目が合った。彼は僕からちょっと目をそらし、一本の傘の柄をなぞりながらこう言った。

「私は……ビニール傘でいいかな。透明なやつ」

 以外だ。彼も番傘のようなものを選ぶと思っていた。少なくとも安物のビニール傘が似合うようには見えない。

「いや、いいのか? いろいろあるけど……」

「うん。透明ならね、雨粒が傘に溜まるのがみえるから。少し楽しそうだろう?」

 そういうものだろうか。確かに楽しそうだ。

 けれど。

「笹目はどういう傘にするんだい?」

「僕は、僕は、何が欲しいんだろう。最初は青い傘を選ぼうと思ったし、中に入ったら柄物もいいと思った。葉詰の話を聞いたら、同じ傘を持ちたくなった。……やっぱりだめだな。僕には主体性がない」

 いつもいつも、葉詰を頼ってばかりいる。こんな自分が、情けなくて、悲しくて。悔しくて涙が出そうだった。

「笹目……」

「なーにバカ考えてんだよ」

 突然、墨雪の声が響いた。

「なんだっていいじゃねえかよ、傘なんて。最初にこれがいいって思ってもやっぱりあれがいいってなることもあるし、仕方ないから選んだやつだって使ってれば愛着湧くこともあるだろ。真似したっていいじゃねえか。気に入んなかったら変えりゃいいじゃねえか。いくらでもあるんだからよ」

「……いいのかな、それで」

「いいんだよ、それで」

 見れば墨雪はいつものひょっとこ顔で、それでも何だか笑っているように見えた。あきれながらも僕を心配している、そんな顔をしていた。葉詰も、笑っている。大丈夫だと、それでもいいよと笑っている。なんだ、そんなことか。

「僕はまたつまらない考えを起こしてたみたいだな。そういうもんだよな、迷ったっていいし、真似したって、変えたっていいんだよな」

「そーゆーもんだよ」

「そういうものだね」

「僕、ビニール傘がいいな。葉詰の言うように、雨粒が溜まって流れていくのを見て見たくなった。せっかくの雨だし」

 こうして僕らは傘を借りることにした。茶色の番傘がひとつ、透明なビニール傘がふたつ。墨雪は傘屋の主に言って船を借りるようだった。半紙に雫の模様を描いた無口な人らしく、墨雪がほぼ一方的にしゃべっている。主が奥に行くと墨雪は振り返って言った。

「一艘ありゃいいだろ。俺は一人でも乗るし、お前ら使いたかったら言えよ」

「そもそも僕は舟の乗り方なんて知らないぞ」

「舟なんてのは行きたいときに行きたいところに行くもんだ。楽だろ」

「天の国っていうのは何でもありだね」

 傘屋の主は小さな舟の模型を持ってきた。屋根がついていて、ほっそりと折れそうな櫂が入っている。

「屋根船かい。それにしても小さいね。水で膨らむなんてことあるのかい?」

「あたり。つまんねーの」

 墨雪は舟を片手で転がしながら傘屋の主に手を振り店を出るようだった。僕らも行こうと思ったとき、傘屋の主が声を掛けてきた。



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