三 雑貨、そして器の神 ①
「うまい!」
「うまい!」
僕と墨雪は満腹亭のたぬきそばを汁まで飲み尽くし、ほとんど同時に器をテーブルに置く。なんだろう、いま猛烈に知性がさがった気がする。
「やっぱこーしてっとよぅ、飯が美味いってことは最強だよな」
その辺には同意するしかないが。
「ごちそうさま」
葉詰は悠然と素うどんを食べ終え、手を合わせていた。食事中も目覚まし時計を手放さない馬鹿丸出しな墨雪と一緒にいると、こっちまでつられて馬鹿になりそうだ。昨日までは葉詰とゆっくりとした時間を過ごしていたから僕ものんびりしていたが、今朝はどたばたとしていたからか、墨雪につられやすくなっている。自分の過去が思い出せない分、人から影響を受けやすくなっているのか? どうせ似るなら、葉詰に似たい。彼はぶれない人間だ。僕と同じように、自分の記憶を忘れていても、彼は彼のまま、自分のペースでいるようだった。でも彼は僕を支えだと言っていた。彼の支えとして、しっかりしなくては。
でも、墨雪のひょっとこ顔のねじ曲がった口にそばがどんどん吸い込まれていくのは面白かった。やっぱり、そこから食べるのか。本人は特に違和感はないらしい。
「おう、うまかったぜ。ごっつぉさん」
なにやら意味不明な言語をうさぎ頭の店主にかけ、墨雪は立ちあがる。どこかの方言だろうか。僕と葉詰も店主に声を掛ければ、やはり彼はうれしそうに手を振っていた。
「さて、そんじゃあ買い物すっか」
「待ってくれ墨雪、さっきも言ったが私たちには金銭の持ち合わせがない」
さっさと満腹亭を出る墨雪の背を追いかけ、葉詰は小走りに言葉をかける。たしかに、ここに来る前、つまり迫り来る列車に身を出す前にスマホや財布なんか持っていたはずだ。だがポケットは空で、葉詰は泥井さんから服などいろいろ貰ったらしいが僕は着の身着のままだ。葉詰からもらった顔と名前以外、なんの持ち合わせもない。
「別にいいって、金だって物だっていくらでも持ってるしよ。だけど言っておくぞ、これは“貸し”だかんな。そのうちここに慣れてきたら返せよ」
その方がお前らも気兼ねしねえだろ。そう言ってひらひらと手をふる墨雪。言動も、そぶりも粗野な感じだが、こういう気づかいが出来るあたり、彼はやはりいい人なんだろう。首からかかっている目覚まし時計がどうも馬鹿っぽく見えるのは変わらないが。
「まずお前ら、何が欲しいんだよ」
墨雪はくるりと振り向いて訊ねてくる。まず指をさされた葉詰が答える。
「私は、そうだな……。服は泥井さんから貰ったのがいくらかあるけれど、他のも見てみたい気もするし、笹目はなにもないだろう? 泥井さんもさすがにあれ以上余っている服もないだろうし、そこのあたりをどうにかしたいな。専用のタオルとかもほしいし、まず服屋に行ってみるのがいいと思う」
「服な、笹目もそれでいいのか?」
「そうだな。ここに来てからずっとこの格好だし、ちゃんと着替えたいな」
一度寝て起きて、シャワーまで浴びたのに僕は着たきり雀だ。日が照る割に汗をかかないが、やはりどうも気になる。それに自分のタオル。なんていい響きだろう。洗濯は手間だが他人と共用というのはなんだか落ち着かない。
「んじゃまず服屋な。ここよりもうちょい奥に行くと食いもん以外もいろいろ売ってるからな、行ってみるか」
僕らの住む長屋の方を背にし、墨雪は歩きだした。それを葉詰が追いかけ、僕は葉詰の隣を歩く。葉詰を真ん中にし、三人で通りを歩いても特に誰ともぶつからない。ちらほら人間の姿を見かけるが、この長屋の続く規模の大通りにしては随分静かだ。
「なあ墨雪、ここって人が少ないのか? なんか全然人と会わないけど」
「あー、そもそもここまで来る人間が少ねえしな。部屋に籠りっきりの奴もいるし、どっかよそ行って帰ってこねえのもいるな」
どっかよそに。前も墨雪はそんなこと言っていた。僕もここ以外のどこかに、行く機会があるのだろうか。あの列車に乗って? ぞっとしない話だ。
それに、なんだろう。足もとを何かがさっと通りすぎるのを感じる。視線の端で、なにかがきらきらと弧を描くのが見えた気がする。葉詰の方を見ると目が合った。
「葉詰、足元の、」
「ああ、笹目。私も気になっていたところだ。墨雪に聞いてみるかい?」
やや迷って頷けば葉詰はすぐに墨雪の方を向いた。もしかしたら、僕が声を掛けなくてもそうするつもりだったかもしれない。なんとなく、声を掛けてよかったなと思った。
「墨雪、なんだか変だ。足もとで何か動いているし、動く光を見たんだ。光の反射とかじゃない、なにかが動いている」
「あ? なんだお前ら、今更気づいたのかよ」
墨雪は前屈みに、僕と葉詰を見つめる。なんとも拍子抜け、とでも言わんばかりなひょっとこ面に、なんだかイラっと来た。
「僕らがここに来たばっかりなの知ってるだろ? 昨日今日でここの全部が分かるわけないじゃないか」
「そりゃごもっとも」
んー、と首をひねり、喉のあたりでもごもごと言葉を選ぶ様子の墨雪。まさか悪いもんじゃないだろうな。
「光ってんのは、あれだよ、うん、星」
「ほし?」
葉詰と僕が同時に聞き返す。墨雪は少し顎を掻くと指をすっと空に向けた。
「夜ってよぉ、暗くなんじゃん。で、星が光るだろ。でもここはずっと昼だからな、空にいたってしょうがねえから、降りてくる。それがそこらじゅう走り回ってんだと」
天を指していた指をくるくる回し、そのまま下へ向ける。
「俺だってあんま知らねえよ、俺より前にいるやつらからの受け売りだかんな、これ。それにそこいらの奴に聞いたってたいした答えはねえよ。ここの奴らの大半は“ここにいるのが当たり前”になってんだからよ。どうして星が降りてくるなんて考えたこともねえよ。それが“当たり前”になっちまってんだ」
はぁ、と墨雪は溜息をつく。
「慣れりゃあ別に悪いとこじゃねえよ。ただそれをそのまんま受け入れるのに時間がかかる奴はいるな」
「君は、そうだったのかい?」
「まあ、そうだったな。ほら、俺って真面目だし」
それを聞いた葉詰はふっと笑った。
「本当に、君は優しくて、親切で、真面目だ」
僕は一瞬、「本当かな?」なんて考えてしまったが、右も左もわからない僕ら二人に付き合ってくれる彼は、やっぱり優しい。彼と同じ棟に住んで、よかった。
「じゃあさっきから足元にすり寄ってくるのは?」
こちらは光る様子は無し、柔らかな感触だけがするりと通り抜ける。
「そりゃ猫だ」
「ねこ?」
また葉詰と同時に聞き返す。今度は墨雪は笑いだしそうに横っ腹を掻いている。
「またちょっとわかんねえ話になるけどよ。ここは猫が多いんだよ。“神様”が猫好きだからな」
かみさま。ぽかんと口を開けたまま黙り込む。
「天の国には神様がいるんだよ。悪い奴じゃねえよ、俺だって何度か見たことあるし。ただちょっと行き過ぎた猫好きでな。ここじゃあ人間より猫の方が多いぜ」
「ねこ、猫。……なんで姿が見えないのかな」
「見つかるとみんな好き勝手撫でまわすだろ。それがヤなんだと。猫がそんな好きじゃない奴もいるし、だから神様が透明にしてるんだよ」
僕はいまだに、神様などという存在を受け入れがたかった。
「なんで神様なんているんだよ」
「そりゃいるだろ、日本の、天の国だぜ。八百万のなんとやら。あんま考えんなよ。いまからこの調子だとここで暮らしてけねえぞ」
俺も最初は納得いかなかったけどよ。墨雪はうなじを掻きながら葉詰を見る。葉詰は前屈みになって足元を何度か掬うような動きをしている。
「向こうは触ってくるのにこっちは触れないのかい?」
「そんなもんだろ、猫なんて」
「確かに、なるほどね」
葉詰はまっすぐ立ち直ると「残念だ」なんて言いながらゆっくり歩きだす墨雪を追う。彼は猫が好きなんだろうか。僕も猫は、嫌いじゃない。
「おう、ここなら大概のモンは揃うぜ」
満腹亭からしばらく、墨雪に案内された店はなんとも、なんとも形容しがたい趣をしていた。和風の建物が続く風景に似合わず虹色の看板がアーチを描き、両端に大きな星型をした飾りがついている。看板には白く「福丸雑貨店」と書かれていた。
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