二 時計、そして縁の話 ②
「まあなんにせよ、その感情は大切にしたほうがいい。なにをきっかけに記憶が戻るかわからないからね」
そう言って葉詰は僕から離れた。肩で切りそろえた髪が風に揺られていく。彼はそれを耳にかけなおすと、改めて話し始めた。
「さて、今日は墨雪さ……墨雪にいろんなことを教わろう。笹目、ここに来たばかりのときにここでは金銭のやり取りは基本的に行っていないと言っただろう? すまない、あれは結局私が知る限りでの情報でしかない。満腹亭はそれにあたるが、墨雪が言うにはここには一応、労働の対価に金銭を得て店で物を買うこともあるらしい。本当にすまない、君に誤った情報を与えてしまった」
葉詰があまりに丁寧に頭を下げるものだから、これには参った。
「そ、そんな風に頭下げるなよ。葉詰だって僕よりほんの少し先に来たばっかりじゃないか。だから一緒に、その、墨雪にいろんなこと教わるんだろ? いいじゃん、それで」
「笹目もいいこと言うなあ。いいじゃん、それで」
真似をするな。
「まずはなにが欲しいかだな。それが何の対価もなしにモノにできるか、自分の持ち物と物々交換か、カネを稼いで買うモンか」
墨雪は一本ずつ、計三本の指を立てる。そしてすぐ両手の人差し指で僕らを指し示す。
「お前らなんか持ってんの?」
僕と葉詰は顔を見合わせる。
「私はなにも……。泥井さんから墨と筆なんかはもらったけど。あと服をいくつか見繕ってもらったな」
「僕も、スマホとか持ってたはずだけど今はなんもない」
「スマホってなんだよ」
「スマホって、スマートフォンだよ。携帯電話、知らないのか? 墨雪っていつからここにいるんだ?」
「むかし、忘れた。携帯電話はなんか覚えてるけど」
僕と葉詰はまた顔を見合わせる。
「なんだよ、ここの奴らなんてみんなそうだぜ。生きてたってことも忘れて、ここにいるのが当たり前。たまに列車が来て、増えたり減ったりの繰り返し」
「待てよ、減ったり? ここからまたどこかに行く場所ってあるのか?」
「あるよ。なあそれっていま関係ある話か? 買いモンするんだろ?」
そうだった、僕らは家具をそろえに行くんだった。けれどどうも惹かれる話題だ。ここは終着点じゃなかったのか? 葉詰に肩をとんとんと叩かれる。
「笹目、とりあえず今日は必要なものをそろえよう。君にも着替えが必要だし、私は本とか欲しいな、宮沢賢治ってここにもあるのかな?」
宮沢賢治って、雨にも負けずとか銀河鉄道とか書いた人か。授業でやったような? そんなような? 奇妙な感覚はある。葉詰は小説が好きなんだろうか。背筋を伸ばし、本に向けて少し目線がかたむく。そんな姿が容易に想像できた。
そんな想像がはかどるなかで、やはり自分は葉詰の隣に立っていていいのだろうかという気持ちも浮上してくる。僕は小説なんか全然読まないだろうし、もしも葉詰が僕を待っていなかったら、顔を合わせる機会があったとして、まったく、あいさつもしないだろう。ああ、自分の駄目な部分ばかり思いだしていく。
「笹目はまず、何が欲しいんだい?」
葉詰が僕に問いかける。優しい声だ。聞いていると安心する。自分の軸が揺れる感覚が薄れてくる。
「とけい……」
気がつけば、口からこぼれていた。
「僕は、時計が欲しいな。ここはずっと昼だけど、僕は、葉詰と一緒に時計を持ちたい」
「時計、なるほど時計か。そうだね、そうしたら二人の予定を合わせられるし、いいと思うよ。墨雪、時計はどこかにあるのかな」
「おう、あるぜ。つーかそれなら俺の部屋にある。集めてんだ、結構あるからもってけよ」
「え、」
僕は口をぽかんと広げたまま墨雪をまじまじと見つめる。
「あ、あるからって、そんなほいほいあげていい物なのか? 集めてるんだろう?」
「いいよ、別に。またその辺ふらついてりゃ手に入るし、欲しいヤツのとこにあんのが一番だろ。あいつらにとってもさ」
あいつらって誰だ? なんて疑問をはさむ余地も無く、墨雪はさっさと自分の部屋へと向かう。
「おう、お前らも入れよ。散らかってっけどよ」
「汚いな」
「汚いね」
「うるせえ、汚くはねえだろ」
墨雪の部屋は、なんというか、あちこちに物が散乱していて、魔窟めいていた。どうして、いったい何をどうしたらここまで物を溜め込めるのだろう。右を見れば山積みの段ボールがひしゃげて今にも崩れそう。左を見ればなぜか道路標識が幾本も壁に立てかけてあり、その足元には酒瓶らしきものがごろごろと転がっている。床にはおそらく脱ぎ散らかしたであろう服が散乱していた。押し入れの戸は開けっぱなしで、よく見えないがきっと何かしら溜めこんだと思われる山が見える。ただ窓のあたりは、万年床のおかげか日が当たっていた。
自分の部屋とおなじ一室限りの間取りであるはずなのに、なんだか宇宙の一端を顧みた気分だ。すこし、気持ち悪い。
「どうした? 入れよ」
「いや、服とか落ちてるし、歩けないだろ」
「私もちょっと……。この部屋に入るには勇気が足りないかな……」
「遠慮すんなって」
遠慮とかじゃない。
生ゴミのたぐいが無いのが唯一の救いか。窓は開かれていて、空気が淀むことはないが何しろ進むべき道が見当たらない。墨雪本人はなんともなげに散らかった床を歩いていく。あちこち散らかった衣類に、よく足をとられないものだ。
「別によー、何がどこにあるかわかってりゃそれでいいじゃん。俺的には全然問題なしだぜ」
「……君の主義主張に口をはさむつもりはないよ。ただ、私たちが入って何か崩してしまわないか心配なんだよ」
葉詰のやんわりとした拒絶に、しょーがねーな―、なんて言いながら押し入れへと向かう墨雪。僕と葉詰は入り口に突っ立って見ていることしかできなかった。
墨雪は押し入れの下の段をごそごそといじっている。あれを出して、これを出して、そうこうしているうちに奥の方からなにかを取り出した。出したものを片付けないまま、一抱えもある菓子缶を持ってこちらに向かってくる。
「おう、持ってきたぜ時計」
そう言って墨雪は缶の蓋を開ける。とたん、中からちっ、ちっ、ちっ、と秒針の響く音が幾重にも重なり、部屋に広がった。古びた懐中時計に腕時計、ベルが二つ付いているいかにも目覚まし時計ですと言わんばかりのものまでいくつか入っている。
「この目覚ましはダメな、気に入ってんだ」
見ると赤い目覚まし時計の取っ手には紐がついており、墨雪はそれを首にかけてポーズをとってみせる。なんというか、馬鹿の手本みたいだった。あきれかえる僕の隣で、葉詰がうつむいて小刻みに震えているのは笑いをこらえるためだろう。こらえきれてないぞ、葉詰。
一度廊下に出て、僕と葉詰は時計の詰まった缶を見つめる。陽光を受けてきらめく時計たち。どの時計も寸分違わず同じ時刻を示していた。
「これってここの正確な時間なのか?」
「知らねえ、でもどこで手にいれても同じ時間だぞ」
「それは不思議だね」
葉詰はすこし曇りのある金色の懐中時計を開けては閉じて、開けては閉じてを繰り返している。カチン、パチン。カチン、パチン。
「葉詰、それ気に入ったのか?」
訊ねれば「うん」とうなずいた。こちらに懐中時計の中を見せてくる。
「文字盤のね、三時、六時、九時、十二時の所、数字のかわりに菱型の宝石が置いてある。文字盤の紺色に合っていて、好みだ。他の数字にも石が使ってあるよ」
私はきっと、こういうキラキラした物が好きだったんだ。そう言いながら時計の蓋を閉め、その周りをなぞる。
「かなり摩耗しているけれど月桂樹のモチーフが浮き出てる。月桂樹の花言葉、というより葉には『私は死ぬまで変わらない』というメッセージがある。
……私たちはもう死んでしまった、だからこそここで出会える何かのための変化を受け入れたい。墨雪、これを貰っていいかい?」
「おう、それを聞いて断る理由はねえな。俺はそんなとこまで気づかなかったしよ。持ってけ、それが一番だ」
大事にしろよ、墨雪が言い切ると葉詰は大切そうに両手で時計を包み、カバンの中に入れた。本当に、大切そうに、狐面の上からでも葉詰のうっとりとした顔を感じることが出来た。
いま、葉詰の心は時計のことでいっぱいなのだろう。変化を受け入れる。僕と友人になったのも、そのためなのだろうか。葉詰は僕を利用している? まさか、そんなことはありえない。僕らは互いの支えのはずだ、だって葉詰がそう言っていた。
適当に、腕時計を手に取る。ちっちゃな文字盤に、ほっそりとした茶色い革のベルトがついている。それには花のレリーフが刻まれてあり、見るからに女性ものだ。缶に入れなおす。
まって
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