二 時計、そして縁の話 ①

「っ寝坊した!」

 がばりと布団を跳ね上げ携帯電話を探す。いまごろ日は高く昇り、友人との待ち合わせに絶対に間に合わないだろう。ばたばたとあちこちを手で探るがスマホはどこにも見当たらない。ザラザラとした畳の感触しかしない。ん? たたみ? 僕の部屋はフローリングで、ベッドに寝ていたのに。

「あ、そうだった」

 僕は列車に轢かれて死んだのだった。そしてここは、

「天の国……」

 障子戸に遮られて薄明るい室内を見渡す。がらんとして何もない部屋。隅に置かれた文机だけが唯一の家具らしいが、引き出しの中には何も入っていなかった。

 ぼう、とした頭で布団の散らかる部屋を見ていると出入口の引き戸を叩く音がした。

「笹目、起きたのかい? 入ってもいいのかい?」

 とんとん、また戸を叩く音。この声は隣の部屋の葉詰だ。

「あ、ああ! 今起きた! 入ってくれ!」

 慌てて返事を返すとすらりと戸が開く。入ってきたのはやはり葉詰だ。朱のさす狐の仮面をつけ、眠る前と変わらず書生服を着ている。ただ袴の色だけが、灰から濃紺になっていた。葉詰は僕の部屋を見渡し、溜息をつく。

「……これは入ってくれなんて言える部屋じゃないだろう。布団くらいしまいなよ」

「なんだよ。どうせ他に物もないんだからいいだろ。別に」

「まあいいけれどね。そうだ、廊下の奥に洗面台とシャワー室があるから浴びてきなよ。着の身着のままだから、家具のついでに服も見に行こう」

 葉詰に連れられるまま、吹き通しになっている廊下の奥に向かう。さんさんと日の照るなかシャワーを浴びるというのは変な感じだが、ここは常に真昼だ。そのうち慣れるだろう。

 奥の戸を開くと洗面台と洗濯機が置いてある。結構新しい、CMでもやっていたドラム式だ。隣に柔らかで清潔なバスタオルやらが置いてある。

「使い終わったタオルなんかはこっちの籠にいれてくれ。泥井さんや誰かが洗ってくれるらしい。専用のタオルなんか欲しいならそれも見に行こう。ただし、そっちは自分の服と一緒に自分で洗うこと。シャワーを浴びたら軽く清掃すること」

「石鹸とかは?」

「それも共用。欲しければ自分で何とかする、それがルール。半紙で隠れていると思うだろうけれど顔もちゃんと洗いなね。分かるんだから」

 用が足りたら部屋に来てね。そう言って葉詰は自分の部屋へと帰っていった。ううん。自分だけの風呂やなんかが無く、他人と共用するというのはなんだか落ち着かない。現状、自分のものと言えるのはあのなにも無い部屋だけだ。

 でも自分には葉詰がいる。葉詰には自分がいる。いまはそれだけで満足だ。


  +++++


 シャワー室を片付け、使用中になっていた札を裏返す。やはり湯船につかりたい。天の国には銭湯もあるのだろうか。

 葉詰の部屋へと向かう。長屋に三つ連なる部屋の真ん中が葉詰の部屋だ。僕は階段近くの右隣。

「なにも無い……んだな」

 部屋の窓からは天の国の大通りが見えた。廊下側は吹き通しになっていて、雨戸の開いているいま、長屋の裏側がよく見えた。駅から天の国へと続く道、人の踏む場所以外には多くの雑草が生えていた。そこと同じように、廊下から見る風景はたくさんの草が生い茂る、緑の海となっていた。時折、ざざあと吹く強い風に揺られ、銀の波をつくりだす。昨日通りを歩いているときに、長屋の裏手に通じる道は見つからなかった。一階の廊下からならそこに行けるのだろうか。特に行ってみたいとも、思わないけど。

 笹目木塔子のことを思いだした。彼女のすとんとした長い髪も、よく風に揺られ光を放っていた。教室の斜め前の方の席で彼女が髪を耳にかけるしぐさを、この銀の波を見て思い出した。


 笹目木塔子を探さなくては。


(でも、どうやって……)

 ここに来る前の記憶で、確かなのは迫り来る列車と、落ちていく笹目木塔子のことだけ。彼女を見つけて、どうするのだろう。彼女も記憶をなくし、ここの住人になっていたら、どうやって探せばいいのだろう。どこか長屋の一室に、のんびりと暮らしているのかもしれない。あるいはこの広い広い草原を、一人で歩いているかもしれない。いやもしかしたら、もしかしたら地獄へ行ってしまったかも。どうやって、どうやって……。

「おい」

 ぺしん、いきなり頭をはたかれる。一瞬、自分の身に何が起こったのか理解できなかった。訳の分からないままふりかえると、一人の男が立っていた。

 黒い髪を後ろに撫でつけ、ひょっとこの仮面をかぶっている。黒のTシャツに、白い文字ででかでかと「海」と書いてある。

「おい、死んでんのか?」

 ぺしぺしと容赦なく頬を叩かれる。それにはっとして、思い切りのけぞったら、手すりから身を乗り出して落ちそうになった。それをひょっとこ男は慌てたように僕のシャツを掴む。

「馬鹿かお前? 死ぬ気か?」

「も」

「も?」

「もう死んでる……です」

 何も考えず、反射で出た言葉だった。ひょっとこ男はあっけにとられたように黙っていて、そしていきなり笑い出した。

「はっはっはっはっはっ! もう死んでる! まさしくその通りだ! はっはっはっ!」

 げらげらと、こちらの肩をばんばん叩きながら笑い続ける。いい加減、こいつは誰なのかと言う方に思考が戻ってきた。

「な、なんなんですか貴方は! いきなり人の頭ひっぱたいて、誰なんですか!」

「あー、よせよせ敬語なんて。俺もここに住んでんだよ。お前、葉詰の友達だろ」

 葉詰? 彼の関係者か? けれどもあの葉詰が、こんなやかましい輩のそばに立つ姿が想像できない。葉詰はもっとスマートで、柔らかい。そんな人間だ。僕はいろいろと例外だとしてもこいつとまで付き合いがあるのか? 同じ棟にいるというだけで? なんとも受け入れがたかった。

 葉詰の部屋の戸がするりと開く。

「やあ笹目、さっぱりしたろう」

 出かける準備ができたようで、葉詰は昨日も見た白いカバンを肩にかけている。目の前の男に目もくれず僕に話しかける葉詰に、多少なりとも優越感に浸ることが出来た。しかし続く彼の言葉にその気分もしぼんでしまった。

「笹目、彼は墨雪さん。私たちよりずいぶん先に天の国に来たそうだ。いろいろな話を聞けるよ。墨雪さん、こちらは笹目、私のすぐ後に来たから、この天の国について私と同様、なにも知らないんです。どうかよくしてあげてください」

 葉詰が僕以外を頼りにしている。スミユキさんだなんて呼んで。君は私の支えだと言った葉詰の声がよみがえる。なんだ、結局なんだかんだ僕がいなくたって彼は自分で何とかなるんだろう。

「笹目、また何か余計なことを考えているね」

 葉詰の声が響く。

「なんてことないよ、笹目。墨雪さんは新参者の私たちに親切にしてくれる優しい人だ。きっと頼りになる人だよ」

「葉詰、お前も敬語なんて使うな。さん付けもすんなって言ってんだろ。そんな仲になった覚えはないぜ」

「そんな仲もなにも少し前に合ったばかりじゃないですか。……いいえ、会ったばかりでしょう。……んん、……なんか違うかな」

 葉詰はなにやらもにょもにょと言いずらそうにしている。僕とあったときはすでにタメ口だった。また優越感が少し頭をもたげる。

「笹目、お前だって俺のことさん付けすんなよ」

 どうも親し気に見える二人に胸の内でくすぶるものが残るが、葉詰が言うなら、仲良くしてやろうという気持ちになってきた。初対面で頭をひっぱたかれたことはともかく、二階から落ちかけた僕を助けてくれたのだから、本当に悪い人ではないのだろう。落ちかけたのも、こいつのせいだが。

「笹目」

 そっと葉詰がささやきかける。

「なんだか少し変だね。泥井さんに会ったときにはそうじゃなかったろう?」

 そうだ、胸に引っ掛かる違和感。泥井さんに感じていなかった感情を僕は墨雪に感じている。

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