一 列車、そして天の国 ③
障子戸を開き、外を見る。すぐに身を乗り出せるかと思いきや、ごちんと窓ガラスにひたいをぶつける。建物は古いくせに、ところどころ現代の香りが混じる。額を擦っていると葉詰が笑いながら鍵を開け、窓を開いた。涼しい風が入ってくる。窓辺に腰を掛け、外を眺める葉詰の髪が揺れる。その髪が笹目木塔子に重なり、慌てて目をそらす。
「……あの列車は……どこから来るんだ? どこから来て、どこに連れて行くんだ?」
葉詰はしばらく黙ったまま、うん、とひとこと呟き話し始めた。
「おそらくあの列車には、死んだ人が乗っているのだと思う。死んだ人すべてじゃない、のかな。よくわからないけれど、乗員が少なすぎるからね。途中で止まった、地獄駅。そこでどのようなふるい分けがされているのかわからないが、そこで地獄に連れていかれなかった人間だけが、この終着点『天の国』に送られる。……終着点、というのが分からないがここから先になにがあるのか、私は知らない」
ふう、と溜息をつく。
「……何度も言うけれど、私もここに来たばかりなんだ。私が乗った列車の次に、君の列車が来た。ここまでくる乗客はみんな以前のことを覚えていない、覚えてはいないが体が勝手に動くんだ。そしてここの住人に馴染んでいく。だから君を選んだ。最後まで列車の中で、何をすればいいのかわからない、私と同じ人間を」
葉詰と僕の目が合う。君と私は持ちつ持たれつなんだ。葉詰の声がよみがえる。葉詰も怖かったんだ。自分が何者なのかわからない、寄る辺ない、あの感情を僕らは共有していた。
「葉詰」
僕は問う、僕と同じだった葉詰に問う。
「君はどうやって君の顔を手にいれたんだ? 僕にとっての君みたいに、誰かに教えてもらったのか?」
「なんだい、そんな真剣に。……別に大したことはないよ。ただ街を歩いていたらのっぺらぼうな私を見て親切にこの面や衣服をくれた人がいたんだ」
安心しなよ、私には君だけさ。君だけが特別なんだ。くつくつと笑いながら葉詰は答える。僕はなんだか恥ずかしくなってしまった。僕はまだ見もしない相手に嫉妬するような、そんな人間だっただろうか。顔に熱が集まる。
半紙によってそれは隠されていたはずだが葉詰はそれを読み取ったのか、彼はますます声をあげて笑う。しまいには床に身を伏せてきゃらきゃらと笑い転げていた。高いような低いような、男女の区別のつかない声が狐面の中で籠り、部屋に響く。
そんな彼はたっぷり笑ってすっきりした風にこう言った。
「ねえ笹目、私の隣の部屋に住みなよ。そうしたらいつでも会えるだろう」
「君がそんなに誘ってくれるなら、しょうがないから住んでやるよ」
そう言って、顔を見合わせて、また笑った。今度は自分も一緒に笑えた。
床に転がり、ぼんやりと窓枠に切り取られた青空を見上げる。ここに来てずいぶん経つが、太陽は相変わらず真上に佇み、さんさんと街を照らしていた。
「ここはいつまでも昼間さ」
いつまでも変わらない景色。雲一つない、ただただ青い空。葉詰が起き上がる。
「外に出よう。私と笹目の家具もそろえないといけないし、お腹がすいてきた」
「ここには時計がないのか?」
「探せばあるかもしれないけど、私は持ってないよ」
「ここでも金銭のやり取りが必要なわけ?」
「私が聞いた限り、そういうのは無い、と思う」
勢いをつけて起き上がる。天の国では、どんなものが食べられるのだろう。そんなことを考えると自分まで腹が減ってきた。
「なんか食べれるところがあるのか?」
「もう少し奥に行ったらうどん屋があるんだって。何の変哲もない、ただのうどん。そばもある」
「きつねうどんに?」
「たぬきそば」
「でも金がないぞ」
僕はポケットを探る。財布もスマホも、何も入っていなかった。
「いや、そこはお金がなくってもいいんだよ」
「そりゃいいな、行こう」
寝っ転がってよれた袴の裾をなおす葉詰を見る。僕がここに来たのは夏休みも半ば、普通の半袖のシャツにジーパンだ。葉詰みたいな、そういう服もそろえた方がいいんだろうか。後で聞いてみよう。
すっかり身を整えた葉詰に連れられて階段を下りる。階下でほうきを掃いていたずんぐりしたおばさんが話しかけてきた。顔には半紙が張り付き、二重の丸が描かれている。
「こんにちは、葉詰ちゃん。新しい人だね」
「こんにちは、泥井さん。彼は友人の笹目です。私の隣に空き部屋がありましたよね。そこに住ませようと思っていますが、かまいませんよね」
「もちろんいいわよ。笹目ちゃん、よろしくね」
「え、と、はじめまして、ドロイさん。よろしくお願いします」
長屋を出て葉詰に聞けば、泥井さんは別にこの長屋の持ち主というわけではなく、一階の一室に居を構えているらしい。天の国に長くいるらしく、何か困ったら聞くといい。そう葉詰に言われた。
「私にこの狐面や服をくれたのも泥井さんだ、彼女はいい人だよ。少し節介が過ぎる癖があるけれど」
「名前に泥がつくなんて、どうやって思いついたんだろう」
「あまり考えない方がいいよ、笹目。人の名前っていうのは、それこそ人それぞれだから」
そんなことを話しながら街の奥のうどん屋まで歩く。それにしても長屋の風景だけが続いている。途中に何度か物売りの店があったりしたけれども、道はどこまでも奥へ向かっていくばかりで、路地なんてものは存在しなかった。
「この国はほかに行くところはないのか? なんだか退屈になりそうだ」
「その点も含めて、二人でいろんなところに行こうよ笹目。長い暮らしになりそうだ」
しばらく歩くとついにうどん屋まで来たようだ。店の表に「満腹亭」と書かれた暖簾がかかっている。客を満腹にさせる自信があるのだろう。期待が高まる。もちろん、葉詰が勧めた店だから、という理由もあるが。
暖簾をくぐると出汁のいい香りが広がる。出入り口近くにいた男が揚げたての海老天にかぶりつく音が聞こえる。ぐう、と腹の音が響いた。
「いらっしゃいませ」
声の方を見ると奥の厨房からうさぎが顔を出していた。いや、うさぎではない、人だ。人が着ぐるみの頭部のようなうさぎを頭からかぶっている。遊園地にいそうなピンクのうさぎなんかよりずっとリアルで、少し気味が悪い。けれども葉詰は何も気に掛けるそぶりを見せず、「きつねうどんとたぬきそば」などと注文している。この国に慣れるまで時間がかかりそうだ。
席につけばさほど待つ時間もなくうどんがテーブルにあがる。透き通った出汁に、味のしみた二枚の油揚げから湯気が立ち上り、その香りがなんともいえず食欲をそそる。葉詰の前にもたぬきそばが出され、彼は割り箸を割った。狐面なのにたぬきそば。なんだかおもしろい光景を目の当たりにした気分だ。
「いただきます」
さっそく油揚げに箸をのばす。じゅんと味のしみた油揚げは光り輝いて見えた。が、さっそく問題が見つかった。
「どうしよう葉詰。いまの僕には口がない」
「じゃあどうやって喋っているんだい。そんなこと気にする必要はないよ。見えないだけで目も鼻も口もそろっているんだから。顔の半紙も気にしないでいい。そのまま啜ればなんともないそうだよ」
見れば葉詰はそばに手をかける。幾分か冷ましてそのまま狐面の口元に持っていくと、確かにずるずると音をたててそばが消えていく。
「すぐ慣れるよ」
いい加減に腹が減ってどうしようもない。箸でつまんだ油揚げを口元へもっていく。なるべく大きく口を開く。するとどうだろう。口の中に油揚げの味がぐんと広がった。本当に、仮面ものっぺらぼうも関係なしに口に油揚げが吸い込まれていく。噛めば噛むほど染み入った味が口の中に広がり、ついにごくんと飲み込んだ。
「うまいな、この油揚げ」
馬鹿みたいな感想しか出てこないが本当にうまいんだから仕方がない。うどんを啜ればコシの強い麺に出汁が絡み、噛みしめるたびに歯が喜ぶようだ。店主が嬉しそうに厨房からこっちの席をちらちら見ている。
「君の口に合ってよかったよ。こっちの揚げ玉もいい具合だ。笹目、次に来た時に食べるといい」
汁の一滴すら残さず完食する。なるほど満腹亭。その名に恥じぬ名店だ。すっかり膨れた腹を撫でれば、葉詰もようやく食べ終わったようだ。
「笹目、さっきも言ったようにこの店では金銭の取引が基本的には行われていないらしい。だからその分しっかり、店主に伝えないとね」
葉詰は空のどんぶりに向かって手を合わせる。なるほど、それに倣い僕も手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
厨房にいる店主はありがとうとでも言うようにこちらに手を振っている。気味が悪いと思っていたうさぎ頭も、店主の人柄が現れたかのように幸せそうに笑っているのがうかがえる。こっちもなんだかとても幸せな気分だ。
満腹亭をでるとなんだかとても眠くなってきた。しまった、これから家具を見に行く予定だったのに。
「かまわないよ、笹目。布団だの座布団だのは押し入れに揃っているそうだから、帰って一回寝よう。ここに来たばかりで疲れただろうし、それからまた、やりたいことをすればいい」
長屋に帰る頃には眠気はピークに達していた。葉詰と別れ、自分の部屋に入る。押し入れからかろうじて敷布団を引きずり出すと、ろくに敷きもせずそのまま倒れ込んで寝てしまった。
まどろみの中、葉詰が部屋に入ってきたのが分かった。鍵くらいかけなよ。彼はそう言って溜息をつきながら、薄手の掛布団を取り出し僕に掛ける。
「なんだかまあ、とりあえず。天の国へようこそ、笹目」
こうして僕の天の国での生活は始まった。列車に対する不安も、笹目木塔子のことも、いまはすっかり抜け落ちていた。
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