一 列車、そして天の国 ②

「てんのくに」

 言葉にしてみてもぴんと来ない。天国ではないのだろうか。天国だったとして、随分寂れた場所だ。けれど多分、悪い所ではないのだと思う。

 駅から出ることにした。ホームの短い階段を降り、さびれた駅舎へ向かう。車窓から覗いていた永遠の水はいつのまにかどこにも見当たらなく、ただ空が青いのは変わらなかった。頂点に達した太陽から降り注ぐ光が足元に黒い影を残す。その強い光を一身に浴びているはずなのに、ただただ温かさだけを感じて、焼かれるような感覚はなかった。地面は土がむき出しで、人が多く歩くところ以外には雑草が生い茂る。そっと吹く風が草をゆらしていた。

 もうずっと列車を見送っていたから、駅舎に誰もいないだろうと思ったけれど、それでも入ることにした。ガラスのはめ込まれた建付けの悪い引き戸に手をかける。がたがたと音をたてる木製のそれはいつから建てられたのだろう。表面は経年劣化で真っ黒に染まっていた。

 わざわざここを通らなくても、ぐるっと遠回りすればよかったのかもしれない。そう思い始めたとたんに大きな音をたてて戸が開く。またこれを閉めなければならないのかと溜息をついたその時、中に人がいることに気づいた。

 明治時代の書生風とでもいうのだろうか。灰に染まった袴に、スタンドカラーのシャツを着ている。人だ、でも、人か? その顔には狐の仮面をかけていた。白いそれに朱の化粧が映える。その異様な面持ちは不思議と暗い駅舎に似合っていて、疑念に染まる自分がまるで馬鹿になったみたいだった。

「やっと来たね。待っていたよ」

 仮面の中に、低くこもる声が響く。男のものなのか、女のものか、区別はあいまいだ。背は自分と同じくらいか、少し小柄だった。少し長い、肩でそろえられた髪が揺れる。

 待っていた。僕を待っていたのか。ぽかんと口を開けたまま突っ立っていることに気づき、その人物に声を掛ける。口の中はからからに乾いていて、うまく音が出ない。

「あ、あ……。あなたは誰ですか……? ここは、どこなんですか?」

 ああ、本当に馬鹿みたいだ。でも自分の存在すらわからない僕によく似合う、間の抜けた質問だった。

「私は、君より先に来た者だ。そしてここは終着点。天の国と呼ばれている。前の駅、地獄で降りる必要の無いものが来る場所だよ」

 私も詳しくは知らないのだけどね。そう答える狐面の彼(あるいは彼女)の声は落ち着いていて、不安だった心に一筋の光をもたらす。結局、詳しい事情は知れなかったけれども。

「その……顔の面は……」

「うん、これかい? これはここに来たときに人から貰ったから被っているのさ。君だってそうするべきだろう?」

 え、と声をあげる。頬に手を当てると、つるりとすべる。両手で顔を触る。何の起伏もない、奇怪な感触だ。目は見えているのに目はあらず、話しているのに口は無く、古い駅舎の埃っぽいにおいをかぎ取る鼻もない。うろたえる僕に狐面の彼は肩から下げていた白いカバンから布を取り出す。彼が布を外すと鏡がきらりと光る。それを慌てて受け取り見てみると、そこには何もない、のっぺらぼうのような顔が映っていた。

「な……なんで、こんな、僕の顔は」

 思いだせない。列車に乗り始めた頃から何も思いだせない自分。僕はそんな自分の顔すら、覚えていなかった。ぐらぐらと足が震える。世界が揺らいでいく。

 がくり、傾く体を彼が支える。そしてゆっくり、椅子の方へ連れて行ってくれた。

「君は、忘れてしまったんだね、自分のことを。私も同じさ。ここはそういう人たちがよく来るんだ。なにも、怖いことはない。大丈夫だ」

 彼の言葉のひとつひとつが心にしみわたっていく。ぐっしょり汗で濡れきったシャツの背中を撫でてくれる。彼の存在だけが、今は唯一のよりどころだった。

「……君は、どうしてそう落ち着いていられるんだ。君も、顔を無くしてしまっているじゃないか」

「言っただろう、君を待っていたんだ。もし最後に降りてきた人がいたら、その人を私の支えにしようと思っていたんだよ。君と私は持ちつ持たれつなんだ。君がいるから私は揺らがないでいられるんだ」

 そう答える彼の声はどこまでも優しかった。何も知らない、得体の知れない人間を自分の支えにする? そんなことが出来るのだろうか。しかし僕は、初対面である彼にもうすっかり頼りきりでいる。

「しかしそのままの顔でいるわけにもいかないね。鏡を見るたびに揺らいでしまう」

 さあ、立って。そう言って彼は立ちあがる。僕はおぼつかない足どりで彼の手をとり、椅子から離れる。彼のそばを離れたら、本当にひとりきりになってしまう。そんな僕の心境を察してか、彼は僕にむけて笑う。

「大丈夫、君を置いていくわけないだろう?」

 君は私の支えなんだから。僕の手を引きながら、彼は駅舎の外へと向かった。がたがたと言うことを聞かない引き戸の端をがつんと蹴り上げる姿はなんだか人間味があって、やっと彼を人として見ることが出来たような気がした。

「そういえば君、名前も忘れてしまったのかい?」

 そう聞いてくる彼に、僕は頷く。覚えているのは近づいてくる列車と、長い髪。

「いいさ、それならいま名前を考えよう。思いだせるもので、なにか引っ掛からないかい」

「人を、探しているんだ……。笹目木塔子という……」

「ささめきとうこ……。ふうん、女性か。まあいいさ、私は今から君を『笹目』と呼ぼう。私の方は『葉詰』とでも呼んでほしい。」

「ハヅメ? ハヅメはなにが由来なんだ?」

「シロツメクサが好きなんだ。シロツメクサは昔、積み荷の隙間に詰め込められたそうだよ。だから葉を詰めるで葉詰」

「それなら花を詰めるじゃないのか? だったら初めからシロツメクサでよかったんじゃないか?」

「それはちょっとね、恥ずかしいんだ」

 おかしなことを恥ずかしがる人だ。

 そうこうしている内に僕の手からするりと抜け出す葉詰の手。失くした体温にまた揺れそうになる。けれどきっとまた、支えてくれるのだろう。新しい名前と、新しい友人に、出会えて本当に良かった。なんだか背筋がまっすぐになるのを感じた。


 二人連れ立って歩くうち、ひとつのゲートに当たった。長く伸びる二本の柱、その上を横切る柱に看板が掛けられていた。どこか神社の鳥居に似ている。「ようこそ天の国へ」看板にはそう書かれていた。

「そういえば天の国ってなんだ? 天国とは違うのか?」

「……どうだろうね、この国は。私は君より少し先に……一日とちょっとくらいかな、その程度先に来ただけだから。ここは時間があいまいらしいし、どういう場所なのか詳しくは知らない。もっと『中』の人たちなら知っているかもしれないけれど」

 中。このゲートの先には、ぱっと見た感じ時代劇か大正時代のセットのような街並みが続いていた。二階建ての長屋……とでもいうのか? とにかく家屋が道の両端にずらりと続いている中で、往来を行く人たちを見かける。和装をしている人がいると思えば、すらりとした腕をだす半袖にパンツを合わせた、どこか見慣れた服装の者もいる。しかし道を行く誰もが奇妙な面や半紙を顔にかけていた。

 葉詰はここに部屋を持つらしく、長屋の一つにはいり靴箱に草履を入れる。それに倣い靴を脱ぎ、階段をのぼる葉詰を追う。畳の床が広がる部屋はどこかがらんとしていて、本当にここに住んでいるのかと思えるほど物がなかった。押し入れから座布団を一枚取り出して、入り口の前に突っ立っている僕にほうる。

「まあ私も新参者だからね、そんなに物は持ってないんだ。適当に座ってくれ」

 そう言いながら文机の引き出しから墨と筆を取り出す。

「笹目、顔が無いのは恐ろしいだろう」

 葉詰は筆に墨を含ませ、半紙にするすると筆先を滑らせる。顔のない、のっぺらぼう。自分が自分でなくなるような、そんな不穏な思いは十分にある。

「天の国の住人にはみな顔がない。だから作るんだ。みな己の寄る辺を求めている。それに必要なのは名前と顔なんだ。もっとも簡単に自分を定義することが出来る。」

 さあできた。そう言って葉詰は半紙をこちらへ向ける。そこに書かれていたのはいっそ見事と褒めたくなるような、へのへのもへじが踊っていた。

「笹目がいやならまた何か描こう。けれども当面の間これでしのぐといい」

「いや、葉詰が描いてくれたなら僕はなんだっていいよ。すごくうまいな、これ。気に入った」

 そう言うと葉詰はどこか照れた風でそうかい、とひとこと言って笑った。狐の面をかぶっているのに、ちゃんと笑っているのが感じられて少し不思議だった。

 葉詰は僕の前に座ると半紙の裏側を僕の顔へと向ける。

「君、動くんじゃないよ」

 そう言って彼はへのへのが踊る半紙を僕の顔に押し当てた。何の力が働いているのか、半紙はぺたりと僕の顔に張り付き、不思議な安心感を僕に与えた。名前と顔が揃い、そして僕は天の国の住人になったのを感じた。

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