一 列車、そして天の国 ①
タタン、タタン。タタン、タタン。心地よい振動に目を覚ます。ここはどこだろう。
タタン、タタン。タタン、タタン。列車だ。ここは列車の中だ。柔らかなシートに座っている。
眠りの淵へと誘う心地よい揺れから必死に目を開く。やはり列車の中だ。向かい合わせになった赤いシートの窓側へ、僕は座っている。隣に一人、向かいに二人、列車の中はそこそこ混んでいて、立ってつり革を掴んでいる人もいる。
なんだろう、なにかがおかしい。向かいに座る男を見る。スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩めて、ぼうと窓の外を見つめている。しかしその顔が分からない。目は二つ、鼻は一つ、口もある。あるはずだ。しかしその顔は靄でもかかるかのようにぼんやりとしていて、どうもはっきりしない。
周りの乗客を見渡す。誰も彼も、人であることは間違いないのに、その顔は杳として知れない。うつむいている婦人を見かける。どうやら泣いているようだった。その人を見たとたん、周囲の人々の表情が何となく理解できた。たくさんの年をとった人、壮年の男女。みな一様にぼんやりと下を向いていたり、窓の外を見たり、その表情はどれも悲しげだった。
まだ幼い子供の姿を見かける。ここがどこなのかわかっていない表情で、母親の膝に座っている。母親はなにか小さく呟いているようだった。
ごめんなさい
その姿を見た瞬間、気がついた。ホームに入る列車。細い手首。傾く体は止められない。僕は列車に轢かれたのだ。僕は立ちあがる。笹目木塔子の姿を探す。あたりを見渡してもその姿は見当たらない。愕然としてそのまま立ち尽くす。そしてとんでもないことに気がついた。笹目木塔子を探す、それ以前の問題だ。僕はいったい誰だ? 何も思いだせない。覚えているのは列車が段々と僕に近づいてくる姿。笹目木塔子の長い髪。
席に座りなおす。汗が噴き出して止まらない。さっきまで心地よい振動にまどろんでいたのに。列車、そう列車だ。僕と笹目木塔子を轢いた列車が重なる。頭の中が嫌なもので埋め尽くされてどろどろと濁っていく。そんな僕を置いてけぼりにし、車内放送が流れる。
「次は、地獄、地獄でございます」
思わず顔をあげる。じごく? じごくってあの地獄か? 車内に緊張が走る。みなそわそわしはじめ、落ち着かない雰囲気だ。列車がゆっくりと止まる。
ぷしゅう。空気の抜ける音が響き、列車の扉が開く。そこに立っていたのは、鬼だ。赤い肌に、筋骨隆々の肉体。顔は修学旅行先で見た仁王像のように唇をゆがめ、目を見開きこちらを睨みつける。その頭には角が二本はえていた。首には頭陀袋をさげている。
「ひ、」
乗客の一人が息をのむ。車内がざわつく。しかし誰も逃げることもせず、ひとり、またひとりと扉からやってくる鬼を見つめている。扉のすぐ近くにいた男性が頭を掴まれる。男性は声もあげずに鬼の持っていた頭陀袋の中に放り込まれる。あっけにとられている間にも鬼たちは次々に人間を頭陀袋に詰め込んでいく。
どんどん人が減っていく。前に座っていた二人も、僕の隣に座っていた人も詰め込まれ、いよいよ僕かと思ったが、鬼は僕を見もしない。そのまま次の席へ行き、また人を詰め込んでいく。
そして鬼たちは来たときと同じように、ぞろぞろと車内から出ていった。一言もしゃべることなく、淡々とやることをなし去っていく後姿が、なんだか普段列車の中から見送るサラリーマンの姿を思いだされた。
こんなにも、地獄に落ちる人間がいるものだろうか。そう思うと同時に、なぜ僕はここに座ったままなんだろうと思考が移っていく。笹目木塔子、彼女もここに残っているのだろうか。人の減った車内を見渡す。僕のほかには四、五人か残っているだけで、笹目木塔子はやはり見つからない。他の車両に乗っているのだろうか。しかしそれを確かめる気にもなれず、ゆるゆると背もたれに体を預ける。ごつん。窓に頭がぶつかった。列車が動き始めた。
僕は誰だったんだろう。自分のことも不確かなのに、どうでもいいサラリーマンの後ろ姿は覚えている。他人のことを考えるのが馬鹿げて思えた。
タタン、タタン。タタン、タタン。列車は走り続ける。
タタン、タタン。タタン、タタン。ぼんやり外を眺める。
窓の外には一面の青空、そしてそれを映すかのような鏡のような永遠の水。空と水との境界が曖昧で、自分のようなあやふやな存在を現しているように見えた。そんな気持ちになるくらい悲観的だった。世界で一番不幸な人間になった気がした。
+++++
どのくらいの時間が経っただろうか。列車はまたも行き先を告げる。
「次は、終着点、終着点でございます。皆様お忘れ物のないようご注意ください」
終着点? またもよくわからない。正直さっき地獄行きを免れて、天国にでも連れていかれるのかと思った。天国に行けるほどの人間だったか、思い出せないけど。
また空気の抜ける音とともに扉が開く。しかしさっきのように鬼が待ち受けているわけでもなく、ただ外へと開かれた扉があるだけだった。
アナウンスも何もなく、扉が閉まる訳でもない。先ほどまで残っていた人たちは降りたのか、車内には僕一人だけが残っていた。終着点。ここで終わりなのだろうか。もうどこにも辿り着けないのだろうか。そう思うと急に不安になって、あわてて扉の外へと向かった。僕が外に出ると列車の扉は閉まり、そのまま線路を進み続けた。ここが終着点だと言っていたけれども、列車にも帰る場所があるのだろうか。
遠く遠く走る列車を見送って、いま自分がいるところが何なのか見てみることにした。先に降りた人たちの姿は見当たらない。地獄を超えた終着点。それが良いことなのか、悪いことなのか。まずは駅を見ることにした。
どこか田舎の無人駅のような外観。錆の浮いた鉄柱に、塗装されていた青が剥げかかったベンチ。それらを通りすぎ、標識を確認した。まず左にかかれた文字、予想通りそこには「地獄」の二文字が書かれていた。右へと視線を移す。そこには何の文字もなく、ただ右向きの矢印だけが刻まれている。そして気になるこの駅の場所。そこには大きく「終着点 天の国」と書かれていた。
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