第8話

 オートン・ナイヨール伯爵はリーリャの父である。もちろん、ナイヨール家の当主だ。


 オートン・ナイヨールは、若い頃、数々の軍功をたて、救国の英雄と言われた猛将であった。


 しかし、現国王の兄であるチャークシ・ランドール(現公爵)派であったため、国王から遠ざけられていた。今では家も没落していた。


 チャークシは、弟のショージとの王位継承競争に敗北したのである。




 ナイヨール伯爵家の屋敷の廊下を、1人の中年女が歩いていた。名前をギリオカーン・ナイヨールという。

 リーリャをいつもいじめていたアーニ・ナイヨールの実母であった。

 ギリヲカーンは、銀のお盆の上にコップと水入れを乗せて運んでいた。


「まったく、あの人が、素直に国王派になっていれば、私がわざわざこんなことをしなくてもすむというのに……」

 生まれつき意地悪そうな顔つきのギリヲカーンは、さらに邪悪な顔をする。機嫌がわるそうにブツブツとつぶやいていた。


 やがて、ギリオカーンは、屋敷の一室の扉をひらいて入っていった。


 部屋の中央にはベッドがあった。ベッドの上には30歳半ばの男が横たわっていた。この屋敷の当主、オートン・ナイヨール伯爵である。

 一見して、顔色が悪いのがわかる。オートンは、ここ数ヶ月で急激に体調が悪くなり、寝たきりの状態になっていた。


「あなた、お薬をお持ちしましたわ」


「……薬さえ飲みたいくない気分だ」

 オートンの声は、弱々しい。


「いけませんわ。お体のために、ちゃんとお薬を飲まなくては」

 ギリヲカーンは言った。


 オートンはベッドの上で、わずらわしそうに上半身をおこした。渡されるままに、ワインレッドの液体の入ったコップを手にとって、飲み干す。


「うっ……」

 オートンが一瞬、飲んだ薬を吐きそうにする。


「あなた、大丈夫ですか?」

 ギリヲカーンが、オートンの背中をとんとんと軽くたたいた。


「ごほっ。……なんとか大丈夫だ。しかし、飲みにくい薬だな。わたしは、この薬は嫌いだ」


「でも、お体のためです。ちゃんと飲まないと」


「ふんっ。しょせん、薬も気休めにすぎん。この体が、もうたないことは、私自身が一番よくわかっている……」

 言った瞬間だった。「ウグアッ!」

 オートンが口から血を吐いた。


「あなた、大丈夫ですか?」

 ギリヲカーンが、オートンの上半身をささえる。


「ぐはっ」

 オートンは再び血を吐く。ベッドの上が血まみれになった。


「あなた……」


「俺はもうだめだ。もっても、あと半日というところだろう。リーリャを呼んでくれ。最後に言っておきたいことがある」

 オートンは、血の気のない土色の顔で言った。


「今すぐ、アーニも呼びますね!」


「アーニは、リーリャの後でいい。おまえと一緒に会おう。その前にリーリャを呼んでくれ」




 しばしあって、ギリヲカーンから説明をうけたリーリャがオートンの部屋までやってきた。


「お父様……」


「リーリャ、わたしはもうダメだ」


「そんなことを言わないで」


「よく聞きなさい、リーリャ。本来、おまえの母が、わたしの正妻だ。ギリヲカーンはめかけ。つまり、この家の時期当主はおまえがなるのが正しい。9歳のおまえを、ひとり残していくのは心残りだが、もはやこの体ではどうしようもない。遺言書は、わたしの書斎の机の一番上の引き出しの奥に……。ぐはっ」

 オートンはふたたび、口から鮮血を吹き出して倒れた。


「お父様ーっ!」



  ☆☆☆



 オートンからリーリャへの最後の言葉を、扉の外から盗み聞きしていた人物がいた。ギリヲカーンである。


「……まあ、なんてことでしょ。まさか、オートンが、この家の跡取りをリーリャに指定してたなんて!」


 ギリヲカーンは、オートンたちに聞こえないように、忍び足でその場を立ち去った。向かうのは、オートンの書斎である。


「いかがいたしましたか?」

 急ぎ足のギリヲカーンを見て、この屋敷の数少ない使用人の1人、執事のセバスが近づいてきた。「かなりお急ぎのようですが」


「急ぎもなにもないわよ」


「いかがなさったので?」


「オートンが、わたしに隠れて遺言書を残していたのよ」


「遺言書ですか!?」


「そうよ。この家の跡取りとしてリーリャが指名されているそうよ」


「それは一大事です!」


「せっかく、毎日のように毒を薬といつわって飲ませていたのに……、リーリャが跡取りになってしまっては元も子もないわ」


「それは、まったくそのとおりです。特に、昨日から飲ませている毒は、どんな健康な人間でも、3日とたたずに死へと至るトリリンカブトの毒。いつ死んでもおかしくありません」


「そうよ。はやく今のうちに遺言書を処分しなくては」


「たしかに、急ぎましょう」


 ギリヲカーンとセバスは、遺言書が隠されているというオートンの書斎へと急いだ。 オートンが死んだ後、アーニが跡取りとなり、国王派につく。そうすれば、今よりは良い生活に戻れるだろう。それがギリヲカーンのたくらみだった。




  ☆☆☆



「お父様ーっ!」

 リーリャは鮮血を吐いて、ベッドの上に倒れたオートンの肩に手をやる。「お父様!」


「……ううう……。わたしはもうダメだ、リーリャ。あとは頼んだぞ。」

 オートンの声は弱々しく、かすれていた。


「お父様、しっかりして!」


「うっ……」

 オートンが意識を失った。その顔には血の気がない。息も浅く、いつ死んでもおかしくないような状態だった。


「お医者様を呼ばなくては……、いや」

 そこでリーリャは思いだす。「そうだ。どんな傷、病気でも、たちどころに治る魔法スキルを神様にもらったんだっけ……。試してみよう」


 リーリャは、オートンに向けて魔法を唱えた。「『完全パーフェクト神ってるヒール』!」


 魔法が発動し、すぐにオートンの浅かった息が、おだやかなものへと戻っていく。顔にも血の気がもどり、完全に健康そうな様子になっていた。


「あれ? 血まみれだった布団やシーツまできれいになっちゃったぞ。『完全パーフェクト神ってるヒール』って人間が治るだけじゃなくて、物まできれいになるのか」


 きれいになったベッドの中で、オートンがすやすや眠っているのをみて、リーリャは安心してニッコリする。


「これで、お父様はもう大丈夫だね。今はゆっくりと休んでね」

 リーリャはささやくように言って、部屋を後にした。



  ☆☆☆



 しばしあって、ギリヲカーンが、オートンの寝室の前まで戻ってきた。傍らにアーニも連れている。


(そろそろ、ポックリったかしら? 遺言書も処分したし、これでこの家の跡取りはアーニに決定ね)

 心に邪心を抱きながら、ギリオカーンは、オートンの寝室に入る。


「なっ!?」

 ギリオカーンは、部屋にはいったとたん、びっくりして身を固まらせた。「あなた……、な、なにをなさっているのですか!?」


 オートンは、逆立ち片手腕立て伏せという、やたら上級者向けのトレーニングをやっていた。


「いったいなにが!?」


「いや、なに。急に体の状態が良くなってな。しばらく、病気でベッドでふせって、運動不足だったので、トレーニングを再開したのだ。よっ、よっ、よっ……、ふう。たった300回が限界か……。すっかり体がなまってしまったな」

 一般人なら一回するのすら難しい逆立ち片手腕立て伏せを300回やっても、オートンはケロリとしている。


 オートンは、救国の英雄と呼ばれるまでの猛将である。基本脳筋で、元来は、やたらと体力がある人物だった。


 逆立ち片手腕立て伏せの次に、オートンは、足首に100kgの重りをつけてドラゴンフラッグをはじめた。これも、上級者向けのトレーニングである。

「よっ。よっ。よっ……」

 初心者には厳しい、やたら高負荷のトレーニングをなんなく何十回と続けていく。


「ひえええーっ!」

 あまりの驚きに、ギリヲカーンは体をふるわせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る