第5話 ひたすらにブランコを漕ぐ 結晶が落ちて砕けて水になる音
蓮の晴れやかな笑顔を見て、私は心底嬉しくなった。
蓮が高校で吹奏楽部に入らなかったと聞いたときは、本当に驚いたものだった。
週末の練習日の登校時刻も早く、三年の頃には職員室に音楽室の鍵を取りに行くのは大抵蓮か私だった。
(蓮は、楽器が嫌いになってしまったのだろうか)
さみしいことだと感じながらも、蓮が昔から行きたいと言っていた大学は相当レベルが高いし勉強に集中したいのだろうとか想像し、それでも私が楽器を嫌いになることはないだろうと、そう思っていた。
私が進学した高校の吹奏楽部は、この辺りではそこそこの強豪校だ。
中学の頃より練習時間は長いし、指導も厳しい。
でも、顧問の先生も部員も楽器が好きだ、音楽が好きだという思いがひしひしと伝わってきて、私は入って本当に良かったと思った。
それが変わったのは、今年の、衣替え期間で冬服より夏服の方が多くなってきたころのことだった。
ある曲でフルートのソロを誰がやるか決めるオーディションがあり、私は選ばれなかった。
別に珍しくもない、よくあることだ。
くよくよ考えないで、悔しさをばねに練習に打ち込もう。
蓮ならそうする。
そう思った。
それまでより熱心に練習に励むようにした。
でも、なかなか思うように吹けない。
実力は生半可な努力で身につくものじゃない、そう思って、練習が休みの日も時間を個人練に充てた。
それでも、理想とする音と実際の音には大きな隔たりがあった。
もっと必死に練習に打ち込む。
でも、まだ何か足りない。
練習する。
まだ足りない。
練習。
まだ足りない。
練習。
足りない。
練習。
足りない。
練習。
足りない。
練習。
足りない。
練習。
足りない。
練習。
足りない。
練習。
足りない。
練習。
足りない。
練習。
足りない。
練習。
足りない。
練習。
足りない。
焦燥感はどんどん大きく膨らんでいき、以前は出来ていたはずのことまで出来なくなっていた。
私は、楽器が楽しいと思えなくなっていた。
部員も顧問の先生も心配してくれ、私は部活を休むことになった。
私がいない吹奏楽部は、七月のコンクールで好成績を修め、今は地方大会に向けて一丸となって練習に励んでいる。
部員のみんなは相変わらず私に親しく接してくれるが、放課後に教室や図書室で遠くから飛んでくる楽器の音を聴いていると、ああ、あそこに私の居場所はもうないんだと感じてしまう。
部活がない、夜更かししようが昼に起きようが何の問題もない夏休みのある眠れない夜、私は耐え切れずに蓮にSOSを送ったのだった。
蓮は昔から弱音を吐いたり挫けたりせずに前を向き続ける強さを持っていたから、打ち明けてくれた内容は意外だった。
でも、同時に共感もした。
吹奏楽は、数十人のメンバーが総出で作り上げるもの。
たった数分間の演奏が、凄まじい量のエネルギーが注ぎ込まれて完成する。
ソロの演奏にはソロなりのプレッシャーがあるが、大人数での演奏には大人数なりのプレッシャーがある。
心強い仲間がいるのは素晴らしい幸運だが、自分が下手な演奏をすればかけがえの無い仲間たちの努力まで無駄になるのだ。
それ故に、自分の実力不足は何より怖い。
私ががむしゃらに練習した理由は、そこにもあった。
「実はね、蓮」
ゆっくり語り出す。
「私、自分が何が好きなのか、何をやりたいのか分からなくなっちゃった」
蓮は、安全柵に腰掛けて静かに聞いてくれた。
胸の内の全てを吐き出す。
蓮の前だと、不思議とするすると言葉が出てくる。
昔からそうだ。
こいつなら何があっても受け止めてくれると、そう思わせるものが蓮には昔から備わっていた。
全部語り終えた時には、私は声は震え、目は涙でいっぱいになっていた。
ここで私が子供みたいに泣きじゃくったとしても、きっと蓮は受け止めてくれる。
でも、蓮ならきっと前を向く。
盛大に転んで目標を果たせなくなっても、痛みも悔しさも堪えて立ち上がるこいつなら。
私は、ちょっと格好つけることにした。
「蓮、そこ
座板に足を乗せ、大きく、大きくブランコを立ち漕ぎしていく。
涙が、私の心から溢れた全ての感情を閉じ込めた結晶が、次々に落下していく。
少しずつ、空が明るくなってきた。
「夜明けだ」
「夜明けだね」
眠れない夜は明け、私たちの世界に新しい朝が訪れた。
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