とある午後:Day03『飛ぶ』
「ねえアルト。これは何かしら?」
吐き出し窓に姿を現した少女が、言葉とともに手に持った草の束を窓の外へ突き出した。
その拍子に、風に乗って草が放つ独特な匂いが窓辺に漂う。
彼女の声に、呼ばれた少年は厚めの板を持ったまま窓の方へ振り返った。
「ああ、ベガか。さっき森で採ってきたんだ」
答えた彼の金髪が太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。
その輝きに目を細めた少女は、ややあって、クスクスと小さく笑う。
「それはわかるわ。貴方が兄さまと一緒に山菜採りに行って、持って帰ってきた物だもの」
彼女ベガは、少年を助けてくれた青年タラゼドとともにこの小屋で暮らしている。
タラゼドとベガは兄妹だ。数年前、水没する故郷から命からがら逃げ出してきた後、この村の住民たちの厚意でこの小屋に移り住んでいる。
そして、少年のアルトという名前は、自身の名前も覚えていない彼のために兄妹がつけてくれたものだ。正式には『アルタイル』と名付けてくれたのだが、ベガは略称の『アルト』と呼んでいるのだ。
ベガが口を開こうとしたのと同時、屋根の上から別の声が飛んできた。
「おーいアルタイル。その板くれるか?」
「これで届くか?」
「ああ。助かる」
言葉とともに、アルタイルが掲げた板がゆっくりと上へ引っ張り上げられた。
アルタイルは今、小屋の修繕をするタラゼドを手伝っている。というのも、先日の嵐で近くにあった森の木が倒れてきて一部が壊れてしまったのだ。
午前中は森で集めた山菜の半分を、村の木こりが所有する木材と物々交換した。それから昼食をとった後で、早速小屋の修繕を開始したのである。とはいえ記憶喪失のアルタイルはもちろんタラゼドも大工ではないので、やっていることは修繕とは名ばかりの雨風を凌ぐための応急処置でしかないのだけれど。
ややもしないうちに、タラゼドが屋根から身を乗り出して窓越しにベガを見やる。
「ベガ。アルタイルと話したい気持ちはわかるが、作業は進んでいるのか?」
「別に話したいわけじゃないわ。アルトが持って帰ってきたこの草の匂いが気になって集中できないのよ」
「ああ、あの変な草な」
ベガが手に持っている草は俵型の葉が茎の根元から上へと連なっており、柑橘系に似た爽やかさがありながらも少しツンとした刺激のあるような独特な匂いを漂わせている。
「おれも気になっていたんだが、それは食べられるのか?」
「いや。食用じゃなかったはずだ」
「それなら、何か特別な草なの?」
「それが、俺もよくわからないんだ」
あっけらかんと言ったアルタイルの発言に兄妹は思わず顔を見合わせた。
困惑を隠せない彼らを尻目に、少年は思案顔を浮かべながら言葉を続ける。
「その草が何なのかは覚えてないんだが、見つけたら集めてたことは覚えてる。確か……いざという時の足しになる、だった気がするんだ」
「いざという時の足しってことは、やっぱり食べ物じゃないのか?」
「そんなに気になるなら、タラゼド、食ってみるか?」
「おいおい、冗談はやめてくれ。さっき食用じゃないと言ってたじゃないか」
タラゼドはわざとらしく顔を顰めると、乗り出していた身を引っ込める。
しばらくもしないうちに屋根の上からはトンカンと釘を打つ音が聞こえ始めた。
残されたアルタイルとベガは顔を見合わせる。
「……アルトはその匂い、気にならないの?」
「匂い? ああ。この匂い、俺は嫌いじゃないんだ」
そう言いながらアルタイルはベガの手から草の束を取った。
「すまない、ベガ。君の作業を邪魔しちまって」
「ううん、気にしないで。それに、わたしもその匂いは嫌いじゃないわ。ただ、少し慣れていなくて集中できないだけなの」
「そうか。なら、こいつの匂いが君の邪魔をしないように玄関の外に置いておくよ」
「大事にとっておくのね」
「ああ。きっといつか、何かの役に立つかもしれないだろ」
「ふふ、いざという時の足しになるんだったわね」
ベガはクスクスと微笑んだ後、おもむろに室内へと戻っていった。
しばらくすると、開け放たれたままの窓の奥から、カタンカタンと機を織る音が聞こえ始める。元凶がなくなって集中力が戻ってきたのだろう、ベガが作業を再会したようだ。
アルタイルは玄関へと向かいながら、その手に持つ草の束をそっと揺らす。
葉から漂う独特な匂いが少し強くなった。
風に乗って飛んでいくその匂いにアルタイルはそっと目を細めた。
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