day30:色相
祖父が退院できる状態になったというので、病院と施設との間で打ち合わせをしてもらった。退院祝いにでも行ったほうがいいのかもしれないけど、まあ、祖父は僕のことわからないし。
でも、たぶんハルは覚えられている。少なくとも僕の認識では、祖父の記憶があるころと今とで、そんなに変わらないから。……と言ったらハル本人は「全然そんなことない」って答えたけど、どうだろう。わからないな。
僕からするとハルは今でも、追いつけない大人だ。
一度ハルに、面会行く? と聞いてみたことがある。僕らが養子縁組をしたあとのこと。でもハルは、少し考えてから頭を横に振った。
ハルは祖父を未だに「所長」と呼んで、少なくとも僕の前では祖父を嫌っているような様子を見せないし、もちろん悪く言ったこともない。でもハルは僕と違って、他人へのネガティブな思いを家でもほとんど顔に出さない。もちろん口にも。だから、本当はどうなんだろうな、と思うことがある。
僕らは、僕が大学に入ったあと、ほとんどなし崩し的に一緒に暮らすようになって、ちょうど具合のいいことが多かったものだから、その中途半端な関係を手放す踏ん切りもつかないまま漫然と続けた。そのうちに、たぶん親族という関係を結んでおかないとフォローできないことも出てくるなということになって、僕らは僕がハルの養子になる、という形でそれを解決した。僕はそうして「大神」の姓を離れるにあたって家族には何も言わなかった。言えば反対されるだろうし、聞くつもりもなかったので。
僕の両親は、世間では少数派の、苗字を母のほうに揃えて結婚した夫婦だ(今は「元夫婦」だけど)。そうした理由は母が祖父母の一粒種で、母が父の氏を称すると苗字が消えてしまうので、それを祖父が嫌がったから。祖父は飲むとよくその話をしては、同席した人に意外な顔をさせた。そういうことにこだわる人には見えなかったとみんな言う。
でも祖父は、そういう古式ゆかしい考え方を手放さなかった。家族として接していれば、いろんなものが見える。
だから僕の足は自然、祖父から遠のいた。そういう祖父に僕を評価されたくなかったから。僕は当時の僕なりに最善の選択を積み重ねていて、だからやましいことなどなにもなかったけど、否定されるのはそれでも、避けたかった。そうしているうちに祖父は、僕を認識できなくなった。
夕飯前に母から電話がかかってきた。急遽休みが取れたのでさっき空港に着いて、明日祖父の施設に面会に行くのだという。一緒に行くか聞かれたけど、断った。祖父が僕を判別できないことを知っている母は理由を聞かず、電話を切った。
電話を伏せて食卓に置きながら椅子を引くと、「所長、具合よくないの」とハルが聞くので、僕は首を傾げながら席につき、答えた。
「医者から聞いたとおりの推移だよ」
「じゃなくて、ふみの感覚だと、どうなの」
「よくはないと思う。次の入院が最後かなと思ってる」
ハルは、そうなんだね、と言うと俯いて少し考えているようだった。僕はそれを見、伏せたスマホを見、それからため息をついて、「やっぱり行っとく?」と聞いた。
「報告。ちゃんと義理を通しておきたいっていうんだったら。もうそんなに機会ないと思うし」
「義理を通したい、というのとはちょっと違うんだよ」
「じゃあなに?」
「事後報告じゃ所長は許すも許さないも選べないだろ。だから僕が今何を言っても自己満足なんだ。それは、この期に及んで所長を利用するみたいで、やっぱりね……」
僕は、ふうん、と呟きながら汁椀を手にとり、味噌汁をすすった。
ハルも、僕も、母も。きっとそれぞれが祖父を、違う色で見ている。
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