day18:蚊取り線香
僕は知らなかったのだが、冴さんは母を通じて父に、僕や店の状況をわりと頻繁に連絡していたらしい。冴さんと父との関係を案じていたのは僕の取り越し苦労だった、というより、僕が見守られていることを僕だけが知らなかったような状態だった。
それを聞いたのは、父と母とが帰省してきた日の晩だ。
祖父の家が代々引き継いできた屋敷は、今はさとしさん一家が暮らしている。一家と言っても、さとしさんの子ども(僕の従兄弟たち)はみんな家を出ているから、さとしさんと、奥さんと、犬二匹と、猫一匹と、庭の鯉(数えられない)。さとしさん曰く「たぶん天井裏にイタチの家族も飼っている」。裏の家庭菜園にも天塩にかけた子たちがいるはずだ。
庭を含めた敷地を周りの土地よりかさ上げしてあるのは、もと地主の屋敷にはよくあることらしい。かつて、祖父のその父の代くらいまでは、ここから見える範囲の大半が井原家の土地だったそうだ。
まあ、そういうお宅であるので、場所は不便だが、とても立派だ。帰省してきた親戚が泊まれる部屋もいくつもあるので、僕と冴さんは、さとしさんの長男一家が帰省してくるのに合わせて店を休みにし、お邪魔させてもらうことにした。もちろん冴さんが腕によりをかけて焼いたタルトを持参で。
晩は、さとしさんと僕と従兄弟とで、庭に椅子と蚊遣りを出して、冴さんが出してくれた塩こしょうの利いたクッキーをつまみにビールを飲んだ。
僕は今の店を開くときにこっちに帰ってきたから、さとしさんのお宅には車で簡単に来られる(それでも、ほとんど信号のない直線道路を数十分走ることになるけど)。しかし県外で暮らす父母は特急と各駅停車を乗り継いで、駅からはさらにタクシーに乗らなければならない。バスもあるけど、その時刻表はこともなげに「年寄りは公共交通機関を使えばいいのだから免許は返納しろ」と言う都会の人たちが見たら卒倒しそうな白さだ。そして駅の周りには、都会みたいに暇つぶしできる場所もない。
だから僕は母から電車の予定を聞いて、駅まで迎えに行くことにした。
前の日からさとしさんの家にお世話になっていたので、僕は冴さんをさとしさん宅に置いて駅に向かった。冴さんは、従兄弟夫婦の子どもたちと犬たちが遊んでいる様子を写真に撮りたいと言って、さとしさんの家に残った。
このあたりは山が迫っているせいか、店のあるあたりとは空気が全然違う。僕は運転席の窓を開け、ちょっと青臭い外の匂いを吸い込むと、エアコンを切ってから助手席の窓も開けた。
信号待ちのとき、対向車線で待っていたのは「わ」ナンバーの車だった。あれも帰省かな、と思いながら発進する。運転していたのは僕と同じくらいの歳の男性で、後部座席にはチャイルドシートに乗った子どもと、奥さんらしき人が乗っていた。
駅に着くと、もう父母はロータリーで待っていた。僕が車を停め、助手席側に少し身を乗り出すようにして「お待たせ」と言うと、助手席には母が乗り込んできた。
母は、はぁ暑かった、とか呟きながらシートベルトを締めると、車内それから僕をくんくんと匂って、後部座席を振り向いて言った。
「蚊取り線香のにおいがするわね。ね、お父さん」
「おう」
数年ぶりに会った父は、来るときの電車の混み方などについて母が同意を求めても「おう」しか言わなかった。でも機嫌は全然悪くなさそうだ。だから母もニコニコしている。
僕は、あの記念品の大きな「父より」を思い出し、ちょっと楽しい気分になりながらロータリーを出発した。
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