day09:ぱちぱち

 帰宅した私はまず洗面所に寄り、濡れた服を着替えると、タオルを持ってリビングに向かった。

 テレビの前では夫が、息子七割洗濯物三割くらいの力加減で取り組んでいて、私に気がつくと「おかえり、お疲れさま」と言って立ち上がった。その隙に息子は夫が畳んだタオルを広げてしまった。


 お惣菜を器に並べ、レンジに入れたりしながら、私は夫に「X3の人わかったよ」と言った。X3というのは大神さんの車のこと。夫がそう呼ぶので私もそう呼んでいる。

「上の、あの二世帯のお宅の人だった。たぶん車の持ち主が大神さんで、瀬上さんが奥さんの親御さんかな? 旦那さんのほう、まだ三十そこそこくらいっぽかったけど、車にチャイルドシート乗ってるとこ見たことないから、子どもはいないかも」

「名探偵樹里じゅりちゃんじゃん」

「いや、わかんないけど。想像」

 夫は食卓にお箸を並べながら、でもね、と言った。

「瀬上さんは管理組合で会ったことあるけど、確かお子さんいないって。四十代のパリッとしたおじさん」

「え? じゃあどういう関係?」

「普通に同居なだけかも」

「男ふたりで? 学生ならわかるけど……」

 夫は残念そうな顔で息子の食事用の椅子をセットしながら言った。

「あのね樹里ちゃん。そういう思い込みみたいなのって、ふとしたときに出ちゃうからね、気をつけなね。うちの中ではいいけどさ」

「それはわかってるんだけど。でも気にならない?」

「ならないねえ」

「そうなんだ」


 夫の興味関心は私とは全然違う(出会いのきっかけになった、サーフィン以外は)。サクッと流せるのはそのせいだと一瞬思ったりもしたけど、こういうのが「偏見」と言われることは私だってわかっている。夫の言葉は正しい。正しいし、たぶん、指摘するときの言い方もちゃんと選んでくれている。職業病かもしれないけど。

 私は、雨がさざ波みたいに打ち付ける音をバックに、息子が広げてしまったタオルを畳みに戻った夫の背中を見ながら、この人やっぱりすごいな、と思った。一瞬むっとしても、でも少し冷静になればやっぱり、ストレートに、喝采。だから私は潤ちゃんと結婚した。


 私は保険外交員をしている。潤ちゃんは小学校の先生だけど、今は休職中。本人は戻りたい気持ちはあるみたいだけど、私は戻らないほうがいいんじゃないかなと思っている。

 たぶん、とても、教えるのには向いている人なのだ。でも、向きすぎているから、今の「教える」以外のことが多すぎる「先生」という仕事は、向いていない。教えることと同じくらいの熱量で、そういう別のことにも精一杯取り組んでしまって、そして彼はちょっと、疲れてしまった。

 それに対して私は。

 営業成績はとってもいい。いいけど、でも、自分が「真面目に取り組んでいる」という感覚は、正直、ほとんどない。要領がいいだけ。無駄なことをしてない。だからいつもじっとりと、負い目を感じている。

 努力って、そうして切り捨てた「無駄」の数も合わせて測られるべきだと思っている。それが本当に無駄かなんて誰にもわからないのだから。だから私は、仕事ができると褒められてもあんまりうれしくない。むしろ「違うんだ」と思う。わかってないなと感じる。もちろんちょっとした達成感とか、得意になる感じはある。でも私ってずるいなという気持ちも増えて、いつも結局プラマイで見たら、マイナスだな、と思っている。


 テレビの前から戻ってきた潤ちゃんは、今は席について息子に食事をさせている。

 その「正しい」彼の向かいで私は、幸せだけど、なんだか情けないというか、恥ずかしいというか、ちょっとだけ下向きの気持ちになった。

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