day07:ラブレター
ふみは結局、その入所のお誘いを断りこっちに戻ってきた。彼は研修を終えて最後の試験に合格し、その年の年末頃から、僕も何度か仕事で手伝いをしたことがある弁護士事務所に勤めるようになった。ベテラン弁護士と事務員で総勢十数人の、このあたりならどちらかと言えば大きい事務所だ。
もちろんふみは、また僕と一緒に暮らすようになった。でもふみが前よりずっと忙しくなったから、家事分担は以前のようにはいかない。僕は彼が気後れしないよう、改めて生活費を計算して、その負担割合をいじって、これでどうかなと彼に提示して、彼はそれをそのまま受け入れた。
意気地なしの僕はこんなふうに、あの日の自分の動揺に蓋をし、あるいは無視し続け、彼も何も気づいていないものと信じようとした。そのうちふみが僕を「ハル」と呼ぶようになって、僕は確信を深めた。そう。僕と彼のルームシェアは、なんの波風も立たず、なんの問題もなく、ただただ単調で、そして順調。
その状況に変化が訪れたのは、彼が就職して数年が経ったころだった。
ふみは一人暮らしどころか、贅沢をしなければ家族を養うのにさえ十分な収入を得るようになった。だから彼はいつでもここを出ていける。そうしてその日はやってきた。その夜彼は、僕が焼いた魚をつつきながら「そろそろ引っ越そうかと思うんだよね」と言った。
高校を寮で過ごした彼は、卒業後大学に入るにあたり二ヶ月だけ所長宅に居候したあと僕の家に来たが、そのときはほとんど身ひとつだった。だから僕が一人暮らしをしていた物件の狭い空き部屋でも当時の彼には十分だったが、大学、大学院を経て仕事を始め、彼の部屋はだんだん彼の荷物(主には本)を収めきれなくなっていた。
僕だってそのことには気がついていた。だからいつか彼がそう言い出すと予期はしていたけど、それは今日じゃないとも思い続けてきた。僕はまたも動揺を押し隠すように「そうなんだ」と、中身のない返事をした。
「この近くにするの?」
「職場のこと考えたら、そんなに遠くは選べないよ」
「そう。じゃあ引っ越しても、よければご飯、食べにおいでよ。僕も食べる人がいるほうが作るの楽しいし……」
子離れできない親みたいなことを言いながら、僕は一度目を伏せてから顔を上げた。
「ごめん。なんか意外と脂っこかったね。大根おろし、足す?」
「ハル」
ふみが箸を置いて僕を見、僕は思わず唾を呑んだ。これまで見ないふりをしてきた、それで「ない」ことになったと信じてきたことが、本当は全然そんなことはなくて、しっかり爪痕を残している。目を背けてきただけの僕は何も言えなかった。
もう彼はとっくに自立していて、そして僕はとっくに彼の保護者なんかじゃなかったのだ。それこそ僕が、とっくに知っていたように。
ふみは無言で席を立ち、封のされていない封筒を持って戻ってきた。それから彼はまた腰掛けて、その封筒を僕と彼の間に、僕に向けて置いた。
「資金繰り、考えてほしいんだけど」
そう言って彼は封筒を指さした。開くと中身は一昨日くらいに見た覚えのある新築分譲マンションの折込広告。この辺ではハイグレードなブランドで、一番狭い間取りでも3LDK。僕は紙面に目を落としたまま言った。
「広いところにするんだね。これならきみが……」
「僕らなら上層階の、アイランドキッチンの間取りも選べると思う」
顔を上げた僕に彼は言った。
「ラブレターだよ。それは」
僕はその日たぶん、記憶にある限りでは一番、格好悪く泣いた。
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