day06:呼吸
僕とふみの同居は、なかなか終わらなかった。ふみのバイトが長続きしなかったり(本人の名誉のために言っておくと、辞めた原因はバイトの女の子どうしのもめごとで、彼は完全なとばっちり)、彼の両親が別居それから離婚することになった関係で学費や生活費の仕送りがごたついたりして、資金計画を大幅に練り直すことになったからだ。
もちろん彼はこの、当初は一時的な腰掛けと位置づけられていたはずの生活が長引くことに負い目を感じていたから、僕は彼に、居候じゃなくルームシェアという形にしないかと提案した。感覚的には、もっと対等になろうと。でも彼を納得させるのは精神論ではないから、僕はなあなあにしていた家事分担を整理・確認するとともに、彼と僕の二人分の生活費をしっかり記録して、その負担割合を決めた。
当然彼はそれ以前にも僕に支払をしていたけれども、それはしっかりとした根拠をもって算出された数字ではなかった。だからこうして僕の負担もつまびらかにした上で決めた金額の支払いは、僕に対してある種の責任を感じ続けていた彼をかなり楽にしたようだった。その頃から彼は僕を「瀬上さん」ではなく「ハルさん」と呼び始めた。
大学三年の夏を過ぎたころ、彼の目標からとうとう「一人暮らし」が消えた。と言っても厳密には「学生のうちに」という限定がついた一人暮らし。彼は進む道を選び、そのために大学院に進学することにした。大学院の間も今の同居生活を続ける前提ならなんとか資金繰りができる。彼はそう言って僕の意見を聞いたが、僕はもう彼がいることのほうが普通になってきていたから、反対する理由もなかった。
そうして彼が大学を卒業して大学院に進み、三年目、僕と彼との共同生活は終わった。
彼は司法試験に合格し、司法修習生として、ここからではとても通えない距離の裁判所に配属になった。彼は配属先が決まるとさっさと現地の不動産屋に連絡を取り、約一年間暮らす部屋を探して契約を結んだ。
あとで聞いた話だが、司法修習生は裁判所や検察庁、弁護士事務所などでの研修に専念せねばならずアルバイトなどもできないのに、彼の代(と、その前か後の代)だけは、一切の給料的なものがなかったらしい。そういう仕組みになることは数年前から言われていたので、彼が一人暮らしをせずにお金を貯めるという選択をしたのには、それに備える意味もあったそうだ。
そうして彼はずいぶんあっさりと、僕の家を出ていった。でも別に僕はそれをなんとも思わなかった。確かに家の中はさみしくなったけど、彼は彼の部屋をほとんどそのままにして行ったし、連休には帰ってきたりもしたので。
だけれども、彼が夏の終わりにかけてきた一本の電話は、僕を、自分でも信じられないくらい動揺させた。
彼は研修先として配属された弁護士事務所から、このまま就職しないかと誘われたらしい。もともと新規採用の予定はなかったが、研修中の彼を見て戦力として迎えたいと。
彼からの電話はいつもどおり、抑揚の乏しい淡々とした口調で、特段誇らしげな感じもなかった。でも、急な合格者増加のせいで試験に受かっても就職が厳しいなんていう悲観的な話も聞いていたから当然うれしいだろう。そうならば僕はそこでお祝いの言葉を述べるべきだ。いや、述べなければならない。彼の成長を見守ってきたひとりの大人として。
そう思いはしたのだ。即座に。なのに彼がもう戻ってこないかもしれないと思った瞬間、僕はにわかに息がしづらくなって、そうなんだ、と絞り出すのが精一杯だった。
切った電話を持ったまま、僕は呆然と時計を見上げた。秒針の進みが、いつもより遅い気がした。
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