day04:アクアリウム

 第一志望に合格したふみは、所長の自宅から大学に通うことになったものの、退院していた所長の奥さんはどうしたって孫のためにがんばってしまう。五月の連休で彼はそれにいよいよ危機感を覚えたようで、六月に入る前、僕は彼から連絡を受けた。

 合格の連絡は電話で聞いただけで、彼と会ったのは受験のために泊めたのが最後だった。だから僕は、せっかくだから合格祝いをさせてほしいと答えて、あの「最高」の店の特等席(要するにカウンター)に彼を連れていった。


 彼は既にいくつか物件を見ていて家賃の相場も認識しており、相談は主にはその他の一人暮らしの費用の確認と捻出方法についてだった。アルバイトも調べたが、一番時間単価がよかったのはパチンコのホールのバイトだったと言う。僕はそういう業界にまだ二十歳にもならない彼が触れるのには抵抗があったので、彼がそこにどの程度魅力を感じているのか探ろうとしたが、彼は僕が聞くまでもなく「大きな音が苦手なので、これはないなと思っています」と言った。僕は内心ほっとしながら聞いた。

「いいかもと思ってるのはあるの?」

「ぱっと見の時給だけならじゅくこうがよさそうでした」

「じゅくこう」

「塾の講師」

 ああ、と僕は応え、続きを促した。

「いいんじゃない。ふみくんの大学なら塾側も歓迎でしょ」

「それはわりとそうみたいなんですけど、ただ問題があって」

「問題?」

「時給算定がコマ数に応じるので、教えている時間基準なんです。でも実際、教えるとなったら準備が必要だと思うので。その時間とか、結果に対する責任みたいなのも含めて考えたら、決して割がいいとは思えなくて」

 僕は「なるほど」と返しながら、佃煮に箸を伸ばして続きを待った。

「で、いろいろ考えれば考えるほど、無理な気しかしなくなってきてます」

「まあ、生活が大きく変わったばかりだしね」

「海の生き物が陸に上がろうとしたときもこんなふうに逡巡したんじゃないかと」

「そこまで?」

 僕は半笑いで大将から出汁の入った土瓶を受け取り、佃煮を載せたご飯に注ぐと、その土瓶をふみとの間に置き、持ち手を彼のほうに向けながら言った。

「案外、飛び出してみたら思ったほどでもなかったりするんじゃない? 実際人間は陸でこんなに繁栄して、出汁茶漬けという至高の逸品を発明するに至ったわけで」

「生存者バイアスでは」

「それは確かにそう」

 大将が差し出してくれたレンゲをもらい、その一本を彼に渡して僕は続けた。

「とりあえずハードルの低いところからひとつずつとりかかったらどう? まずバイトを始めて、それが軌道に乗って貯蓄ができたら次は引っ越し」

「でも時間的に最優先なのが祖父母の家を出ることなんです。僕が目に入る限り祖母は絶対に僕の世話を焼こうとして無理をするので」

「まあ、その気持ちは、わかるけどね」


 僕がわかる気持ちは、どちらかと言えば彼本人のではなく、その祖母つまり所長の奥さんのほうだ。自分の手で育てたこともある、優秀でかわいい孫。家にいたらそりゃいろいろしてあげたくなるだろう。僕は少し考えて、レンゲを置くと彼に言った。

「じゃあ、ひとまず一時避難的に僕のところに居候したら? それなら費用はだいぶ抑えられるだろ」

「いいんですか」

「構わないよ。いきなり陸に上がる前に、一旦水槽に移って様子を見てみる感じでさ」

 僕はふたたび手にとったレンゲを、「僕ひとりだとあの炊飯器も本領を発揮できないしね」なんて言い訳じみたことを呟きながら、茶碗に差し入れた。

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