day03:飛ぶ
ふみは両親が帰国すると、事務所には来なくなった。中学に入ったあと再び所長夫妻に預かられていたことがあると聞いたが、僕の移籍後のことなので、詳しくは知らない。
勉強がよくできた彼は、高校はここから遠くの、寮のある男子校に行った。
彼の大学受験は前々日から、僕が彼に寝床を提供することになった。当初は所長の家を当てにしていたのが、奥さんが急に入院することになり、今更ホテルも空いていないというので。
もともと気楽な一人暮らしだし、ちょうど受験会場も近い。そんなわけで僕は快諾し、彼を空港まで迎えに行った。
五年以上は会っていなかった彼は、もちろん背は伸びてはいたけれども、顔は、事務所の日焼けしたソファーに見るたび違うアクロバティックな姿勢で収まりながらも一貫して本を読んでいたあの小僧のままだった。僕が声をかけると、彼は「お世話になります」と頭を下げた。その声がずいぶん低くなっていて、僕は彼の成長をしみじみ感じた。
僕は彼を助手席に乗せて自宅に向かった。中高の間の彼の生活のことをいろいろ質問したりもしたが、彼の返事はそっけなかった。
当時僕は今ほど料理をしなかったので、夕飯は出前をとった。外に食べに出ると勉強時間を削ってしまうので気を回したつもりだったのだが、彼は一人前をぺろりと平らげ、「ご飯と、納豆かなんかないですか」と聞いてきた。見た目からてっきり彼のことを小食だと思っていた僕は慌てて冷蔵庫だのなんだのを探り、レトルトのご飯と、あと、客にもらったまま放置していた漬物を発掘してきて彼に捧げた。
彼は改めて手を合わせ「いただきます」と言い、僕が適当に切ったその漬物をぽりぽり音を立てて食べ、それからご飯を頬張った。しばらくもぐもぐしていた彼は、口の中のものを呑み込むと、じっと僕を見た。僕は不安になって、聞いた。
「おいしくなかった? それ、僕、味見してなくて」
「いや。おいしいです。だから
そう言いながら彼は、漬物の皿を僕のほうに押し出してきた。
「食べたほうがいいです。絶対」
「そう? じゃあ一切れだけ」
僕が漬物を食べ、「本当だね」と言うと、彼はとても満足げに頷いた。
「そうでしょう」
僕と彼は翌日の朝も、夜も、そして受験当日の朝も向かい合って、その漬物を一切れずつ、ご飯にのせて食べた。
試験が終わった日、僕はふみを、その漬物をくれた客がやっている店に連れていった。大将を紹介すると、ふみは深々と頭を下げ、「最高でした」と一言感想を述べた。大将は彼があまりに真面目に言うので笑ってしまって、そのままいろいろサービスしてくれ、お土産まで持たせてくれた。彼は帰宅すると、それを冷蔵庫に大事そうにしまった。
翌日、所長の奥さんを見舞ったあと、僕は彼を空港まで送っていった。彼の本命は二週間後に試験を控えた国立大学で、今回受けたのはいわゆる滑り止め。
手荷物検査場に彼を送り出すとき、僕はふいに昨日彼が冷蔵庫にしまったお土産のことを思い出して声を上げた。
「あれ、持って帰らなくてよかったの」
「要冷蔵なので長距離は難しいです。なので瀬上さんが食べてください」
「いや、冷凍しとくよ。だから国立のときもまた泊まったらいい。それともホテルのほうが集中できるかな」
彼は首を傾げて少し考えてから答えた。
「じゃあ、よろしくお願いします」
彼が乗った飛行機を、僕は駐車場の車の中から見送った。
その帰り、僕は家電量販店に寄って、ちょっといい炊飯器を買った。
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