day02:喫茶店

 とっくに移籍していた僕がまだそう呼ぶのはおかしいかもしれないが、これは敬意を込めて。

「所長」の認知症状がかなり進んでいる、というのは取引先から聞いた。と言っても厳密には、当時はまだ、新しく取引先になろうとしていたところ。

 最初は、なんだか妙に怒りっぽいなとか、怒りだしたらなかなか収まらないなとか、そんな程度だったらしい。ところがあっという間に、頼んだことを何度も念押ししたはずなのに忘れていたり、確実に渡したものを絶対もらっていないと言い張ったり。もしかして、と思い始めた矢先、非常識な時間に電話をかけてきていろいろ質問をされたが、誰かと勘違いしているのか、全く意味がわからず。それで確定申告が迫る前に税理士を乗り換えなければと慌てて、知り合いの経営者に相談したら僕のいる事務所を紹介されたのだという。

 紹介してもらえるのはもちろんありがたいことだが、その乗り換えの経緯を聞いた僕はなんとも言えない気持ちになった。所長は僕の、実務の師である。移籍こそしたが、そのときは仲違いをしたわけでもなかったし、その後もしばらくは顧客の紹介をしてくれたりとお世話になった。だから、その衰えや悪評を聞くのは心が痛んだ。急な悪化のきっかけが、奥さんが亡くなったからだと察しがついたので、尚更。


 結局、所長については親族(主には孫であり、かつ弁護士になっていた、ふみ)が苦労して手続をとり、まだ残っていた顧問先は主に僕ら弟子筋が手分けして引き取って、実害までは出ないうちに廃業にこぎつけた。そうして退去した事務所の物件、すなわち僕の税理士人生始まりの地で、僕は今、コーヒー豆を挽いてもらうのを待っている。

 この物件は大家の親族が新たな借主となり、大改装を経て、小洒落た喫茶店……いや、その名乗りのとおりに呼ぼう。カフェになった。この空間に、僕が帳簿と睨み合っていたあの事務所の面影はもうない。壁にも床にも、建具にも、一切。

 それでも僕はこの店に来たときは、なんとなくいつも、僕のデスクがあったあたりの席を選んで座っている。


 僕が移籍したあと、この事務所の目の前には、片側一車線の道路を挟んで大きなスーパーができた。その駐車場に入る右折待ちの車で渋滞するようになったので、同じく事務所の目の前にあったバス停は少し東に移動し、事務所の前の歩道は人が通り過ぎるだけになった。

 こうして周りの環境が変化しても、所長、というか所長の事務所からの年賀状の一言コメントには毎年、僕が移籍する直前に植えられた街路樹のことばかりが書かれ続けた。


 それを僕は最初こそ、弟子である僕の成長を所長が木の生育になぞらえているのだろうなと、少しばかり誇らしくさえ感じていた。でもそのあとも一向に話題が変わらないので、僕は、僕とふみとの関係を必ずしも歓迎していなかった所長が「僕に共有を許せる話題はそのくらいしかない」と暗に意思表示しているのかと深読みすることもあった。

 ただ、今は僕はそれを、事務所から見える外の世界が急激に様変わりしていく中で、所長が唯一ついていける、というか、ついていきたいと思える変化が、「外」の中でも一番事務所に近いところにあるその木の緩やかな成長だったのかもしれないな、と思う。

 今はもう所長は、孫であるふみの顔さえわからないと聞いた。


 店主の丁寧な袋詰めを待ちながら、青々とした葉をつけた木を見ていると、店の前をバスが通り過ぎていった。

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