ダサい名前の税理士事務所の卒業生などの話

藤井 環

第1週/瀬上晴臣

day01:夕涼み

 僕が最初に勤めた税理士事務所は、ベテラン税理士が事務員ふたりと一緒にやっている小さなところだった。二十年以上は前のことだ。


 税理士は試験に受かるだけで開業できるわけではない。僕は必要な実務経験をその事務所で積み、税理士登録後も何年か居座った。その頃僕が「ふみくん」と呼んでいた、そして今は「くん」がなくなった彼は、そこの所長の孫である。

 事務員のひとりは所長の妻で、夫妻の子はとっくに独り立ちし家を出ていたから(それがふみの母親で、夫の海外赴任についていっているそう)、夫妻が揃って事務所にいるときは自宅は無人である。それで夫妻に預けられていたふみは、学校帰りにまあまあの頻度で事務所に寄って暇をつぶし、祖母と一緒に帰宅していた。当時はまだ放課後の小学生を預かるサービスは今ほど充実していなかったと思うので、たぶんそれもあってのそんな生活。僕は子育てをしていないから、あまり詳しくないのだけど。


 その、子育てをしていない僕が言うのも変な気がするが、普通ならうるさい盛りの小学生男子であったはずの彼はとにかく扱いやすい子で、本を与えておけば静かにしていた。それはさすがに小学生には難しすぎるだろうと思われるものであっても、文字を追うこと自体が彼にとっては楽しかったらしく。

 だからその頃のふみの印象は「いても仕事の邪魔にならない」というくらいで本当に薄いのだけれど、ひとつだけとても鮮明に覚えていることがある。

 近所の寿司屋で事務所の暑気払いをした帰り、タバコを買いにコンビニに寄ると言うと、所長も奥さんも(だから、ふみも)ついてきた。僕は目的のタバコを、所長は何かの雑誌を、奥さんは食パンを、そしてふみは(所長から渡された)ファミリー向けの花火のセットを抱えてレジに並んだ。奥さんは花火を棚に戻すよう言ったが、酔って陽気になっていた所長は聞こえないふりをして彼をレジに向かって押し出し、会計をした。


「あのときは大変だったよねえ」と、僕は床に座り、ベランダに脚を投げ出して缶ビールを開けた。

 当時まだ十歳になるかならないかだった彼は、今はもう立派な社会人である。今僕らの前にはベランダの柵越しに日の落ちたばかりの空が。そして後ろには大量の段ボールと、それ以外はほとんど何もない部屋が広がっている。

 彼は「そうだっけ」と言いながら段ボールのひとつに腰掛け、同じく缶ビールを開けた。そうだよ、と僕は答えた。

「奥さんがさ。所長に、もう遅いんだから花火なんかさせてる時間ないとか、いつもそうして甘やかすとか言って怒り出して。それで僕ら、先に戻っとこうってなって、待ってる間ふたりで、事務所の裏の駐車場でわびしく黙々と花火、したじゃない」

「そのせいでハルはライター切れて、せっかく買ったタバコ吸えなくなったんだよね、確か」

「そう、それで僕、そのまま禁煙したんだ」

「そうなの?」


 アルミ缶の肌を滑った水滴が足に落ちた。ベランダから入る風が気持ちよかった。

 僕らの引っ越しは明日だ。

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