第27話 没頭と、自意識過剰

自意識過剰に没頭できる趣味は少ない。


いつも自分を上から俯瞰し、言動をジャッジしてしまうからだ。よく言われがちな「意識高い系」という言葉にいちばん怯えているのが、何を隠そう自意識過剰である。自分にそんなつもりがなかったとしても、万が一誰かに「意識高いね」などと言われようものなら、すぐ舌を噛み切って絶命するかもしれない。


自意識過剰にとって普通の人は不思議だ。


例えば、映画。

なぜ2時間も同じ画面を見続けられるのだろう。

自分はどんなに内容が面白くとも、体内時計で経過時間を測ってしまう。それで終わりに近づくと、「ああ、帰ったらアレをしなくては」やら「こういう展開が最近の流行りなのだろうか」やら、途方もなく考え始めて尻の痛さに気づく。


どんなに好きなアーティストのライブに行っても、体内時計は正確だ。学生のときは、念願のライブ中にも関わらず目の前のことに集中できない自分が嫌で嫌でたまらなくて、なんで夢中になれないんだろうと苦しかった。大人になってようやく、以前のエッセイもどきでも語ったように「脳の余白が少ないから」普通の人のように熱中できないのだとわかり、だいぶ楽になった。


例えば、お笑い。

なぜ普通に笑えるのだろう。

小説というエンタメに普段接しているせいか、自分はどうしても漫才やコントの構成について考察してしまう。「こういう言葉で笑わせたかったのか」とか「設定の斬新さはいいなぁ」とか、もはや評論家気取りでお笑い番組を真剣に見ている。

正直、笑うどころではない。


例えば、誰かと出かけるとき。

なぜ普通に楽しめるのだろう?

相手の顔色を逐一うかがって、適切なタイミングで休息、行く先々の効率良いペース配分、相手の希望を叶えつつ自分の意見を邪魔にならないよう差し込む。帰宅する頃には、何かしらゲームをクリアしたような疲労感と達成感に襲われて、リフレッシュどころではない。シンプルに疲労。


だが、そんな自分にも大変ありがたいことに救いの神はいて、どう足掻いても面白いお笑い芸人を見つけたときは口角が上がりまくった。考察する余地がない漫才、本当に面白くて笑えるなんて最高の気分である。


加えて最近、件のポジティブ人間と遊ぶときは普通に楽しめる自分にも気づいた。様々なゲームが遊べる施設に出かけ、5時間があっという間に過ぎ去ったときには驚いた。常に体内時計の時間経過を感じる自意識過剰が、まさか誰かと過ごして没頭できるとは思わなかったのである。


これまでの人生では、いろいろと試したなかで没頭できないものの方が圧倒的に多くて、そのたびに何度も楽しめない自分に失望してきた。思い返せば、それは自分が悪いわけではなく、ただ単に「合わなかった」というだけに過ぎない。


それに、すべてが合わなくとも、一部だけが合うことはある。「カラオケで歌う」のは苦手だけど、「カラオケで大きな声を出す」のはわりと好きだ。「メイド喫茶でメイドさんと話す」のは嫌で、「メイドさんたちの会話を聞く」のは好み。「毎日少しだけ勉強」は面倒でも、「休日にたっぷり勉強」は自分からやりたいと思える。


つまるところ、没頭している自分に気づくことができるのは自意識過剰だけなのかもしれない。それはこの上なく強みで、やっぱりこんな分析なんかしなくてもいいくらい何かを好きになりたくて、くだらない時間経過なんて感じたくなくて。


没頭できるものを探しながら歩く道に、自意識過剰は悩みながら没頭している。

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