第22話 範囲と、自意識過剰
自意識過剰は趣味の範囲が狭い。
理由は明確で、自意識過剰は脳の余白部分が少ないからだ。スマホでいうところの「システム」が半分以上を占めていて、残りの自由にアプリやゲームををダウンロードする「余白」が圧倒的に少ない。普通の人は「システム」2割、「余白」8割くらいではなかろうか。あくまで想像だが。
よって、いわゆる「推し活」のように0から10まで好きになれるものがない。
せいぜいが1から3程度であって、「あのアーティストが好き」というよりは「あのアーティストのこの曲が好き」というように好みがピンポイントになりやすい。好きな「この曲」以外にはあまり興味がもてないのであって、アーティストが普段何を食べているか、どこでライブしているかは正直どうでもいいなぁと毎回思ってしまう。
自分の今の趣味を問われれば、一応は「読書」と答えるが読むのはもっぱらライトノベルか一般文芸の2択だ。ハマっていることは世間一般的に見て「競馬」になるはずだが、寝ても醒めても馬のことを考えているわけではないし、毎週競馬場に通ったりネットで頻繁に中継を見たりするほど熱狂的ではない。気になる馬が走れば見る、好きな馬が走るなら馬券を買う程度の中途半端さ。
しかし私の中では、1から3程度でも好きになれた時点で大儲けなのである。
大概の事柄に、脳内の否定野郎がケチをつけるからだ。自意識過剰の目線はすぐ否定に向かう。足りない部分を優先的に見てくれる両目は、推敲においては優秀、生活においては不便そのもの。
不調だった8月以降、世界をアンロックすべく自分は様々な場所に行ってみた。舞台、競馬、メイド喫茶、カラオケなど。舞台と競馬は「わりと好き」で、メイド喫茶とカラオケは「あんまり」だった。まだ試行錯誤の途中だが、「わりと好き」な事柄がふたつも増えただけでだいぶ救われた気分になったし、少し先の未来が楽しみになった。
憂鬱な出勤の際、「行き先が会社ではなく競馬場ならなぁ……」と思っている自分にはとても驚いたし、ついにギャンブルの沼に片足突っ込んでしまったのだと更に憂鬱をこじらせた。
生きがいが欲しいとずっと思っていた。
特に学生の頃は周りの人間がうらやましくて仕方がなかった。「○○のライブ行くからバイト増やさなきゃ」とか「今度○○のイベント行く?」とか、当たり前の顔して話す同級生たちが不思議でたまらなくて、内心ずっと嫉妬していた。
なぜ、そこまで好きになれるんだろう。
今も嫉妬していないといえば嘘になる。
私は好きなものに「推し活」なんて世間に認められるほど熱中できなくて、それでも確かに好きで、生きがいと呼べるほど大きくもなくて、けれど夜空の小さな星のように紛れもなく輝いて。
周りがとやかく言おうと、自分のなかの否定野郎がいくら否定しようと、私はその星だけを見つめて生きたいと思った。
余白があるからこそ、星は輝く。
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