第18話 空っぽの雨と、自意識過剰
自意識過剰は昔から空っぽだった。
こう書いてみると、なぜ自意識を過剰にしてまで空っぽな己を守ろうとするのか不思議だけど、逆さまにしてみたらなんとなくわかった。
空っぽな自分を晒したくないから、自意識過剰でコーティングしていたのだ。
自分の人生は、転換点に差し掛かった。
転換点……あまり好みの表現ではない。
本来の意味と異なるが、あえて好きな表現で。
自分の人生は、過渡期。
人生は選択の連続であると(某ラノベは)言う。
小さな頃から空っぽだった自分は、その選択をすべて運命という名の他人に投げ打ってきた。
だからか、自分の感情がわからない。
何を選べばいいかわからない。
他人がカラスを見て白と言ったら、自分には黒に見えても「白ですね」と言ってしまう。
内心では思うのだ、「これ黒じゃね?」と。しかし、夢と現実の狭間を生きているような自分の目のほうが、他人の目より信用ならないのである。
自分に対して無頓着、あるいは表現の幅が狭い。
物語を書く者として才能がないことは承知だ。
そのくせ、他人の言葉尻をとらえて不安になったりイライラしたり、物語を読んで勝手に脳内で推敲して偉ぶっている。
否定されるのが怖い。根底はすべて、それだ。
見放されるのも、見捨てられるのも、立ち去られるのも消えるのも居なくなるのも失うのも。
などと思うわりには、応援しているグループが解散したり好きな本屋は軒並み閉店したりする。お願いだからこれ以上本屋潰れないでください。
自分の感情を見つけることは難しい。
特に周りの大人たちが関わると、なおさら。
これが食べ物や景色なら、単純なのだ。
まいたけを焼いて食べればおいしい。
秋の夕方の空はきれいだ。
周りの大人たちは時に自分に優しくしてくれ、時に理不尽に罵倒してきた。いっそ悪役のように、1から10まですべて悪であればよかったのに。
ひとつの欠点もない人間なんていないでしょう?
それならば、いくつ欠点がある程度なら許されるのか。1から9まで悪で、残りの1が善ならばそれは「いいひと」と呼べるのか否か。あるいは1から9までが善で、残りの1が悪ならば、どうか。
馬鹿みたいな思考回路だとわかっている。
だけど、自分はそれを考え続けるほかない。
テストで満点を取り、必ず青信号で渡り、おばあさんに席を譲り、好きなお寿司も好きなお菓子もすべて笑顔の「なんでも好きなので」で余り物を手にし、食わず嫌いはせず生きてきた自分は。
1から10まで善にし、欠点のない人間を目指して毎日頑張った結果が欠点しかない空っぽだった。
世界をアンロックしていくのは、難しい。
「やりたいことに挑戦しろ」と周りは言う。
挑戦するのはいい。だが、途中で嫌だと思ったり投げ出したくなったりしたとき、その責任を負うのは自分だ。迷惑がかかるのは周りだ。
欲しいのはアドバイスでも他でもなく、落ちたときに受け止めてくれる網なんだよ。
現実はラノベほどトントン拍子に進まないし、ドラマほど「実は誤解でした」なんて結末もない。
日々の課題は這うように解消していくほかない、誤解は解けないまますれ違ってサヨナラ。
雨はまだ降り続いている。
星も月も見えない、秋雨の夜だ。
与えられる希望のない愛を、まだ期待している。
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