第8話 小説と、自意識過剰
カクヨムに投稿を始めて、はや2年。
この夏の不調を経て、私はついにカクヨムで読書することに成功した。
もうn回目の話になるが、自分は自意識過剰である。作者として、応援ボタンを押すことや作品へのフォローがどれほどありがたいことか身に染みて理解はしている。だが、読者として誰かの小説にそのような行為をしてもいいのだろうかと、謎の葛藤にさいなまれていた。
好意の返報性という原理がある。
誰かから好意を向けられたら、それに対して好意を返さねばならないと思う原理だ。好意に限らず、例えば貸し借りであったり、贈り物をもらったりという場合でも発生する。
つまり、自分が読者として誰かの小説に「反応」した場合、その誰かが好意の返報性によって、自分の小説を読まねばならない気持ちになるのではないかと危惧していたのだ。
恐ろしく自意識過剰である。
書くアカウントと読むアカウントを別々にしてしまうアイデアを思いついたが、カクヨムは複垢禁止である。私は泣く泣く、カクヨムで読むことを諦めていた。嘘だ、これにかこつけてカクヨムでの読書を怠っていた。本屋の棚が(おおむね)すべてウェブ発の異世界転生系ラノベに埋め尽くされた過去を見てきた者として、若干ウェブの小説を軽んじている部分があったことも否めない。
自意識過剰によって引き起こされた不調は、自分がこれまで避けていたものを明らかにした。そして、ウチにこもりがちな自分の世界に新たな風を吹き込んだ。
自分では絶対に思いつかないようなアイデア、鮮やかに描かれた景色、生き生きと、あるいは鬱々と生きる主人公。ただただ、すごかった。
これまで、書籍として発売された小説しか読んでこなかったことを悔いた。もちろん、玉石混交で自分の好きな小説もあれば苦手な小説もあり、文章表現が未熟な小説もあれば、プロのような熟練の描写が光る小説もあった。それらすべてをひっくるめて、それらすべてが存在していてもいいのが投稿サイトなのだと今更わかった。
だからきっと、私の小説も存在していていいのだろう。そして、気に入った人がいてくれるなら、応援やフォローというシステムがある以上、それらの行為をしてもいいのだ。当然である。
夏休みの宿題。
「自分にとっての読者の再定義」
答えはまだ、出ていない。だが、わかったことがいくつかある。
私は自分も読者も信じていなかった。
それは、自意識過剰というひとつの言葉では片付けることができない。片付けてはいけないと思った。思い出したくない自分の過去に目を向けて、本の世界に没頭することで逃げ続けてきた現実と、いよいよ向き合わなければならない。
小説を書くことは苦手だ。
どう考えても好きではない。
寝食を忘れて没頭なんて無理だ、寝たいし食べたい。ストレス発散になるかといわれても、正直ストレス源にはなっている気がする。
それでも書かずにはいられない。
一種の中毒のようなものかもしれない。
自分の異常性を嫌というほど自覚している。
本当は普通になりたかった。
最近そればかり考えている。
ワクワクしながら小説について考えて、夢中になって執筆して、ドキドキしながら投稿して、楽しかったからまた書きたいという幸福のループで小説と向き合っていたかった。
そうできないのは、苦しい。
だけど、私は小説を書く。
ここまで書いて、ようやく気づいた。
自分にとって「読む」行為が現実逃避ならば、
「書く」行為は現実と向き合うことだ。
なるほど、苦しいわけである。
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