第7話 苦しみと、自意識過剰
7月末、私は悩んだ末に執筆を止めた。
ひとまず休む時間が必要だと思ったのだ。
読者の皆様が期待している小説を書かず、こうして片隅に存在しているエッセイに筆を進めるのはいかがなものかと思われるかもしれない。
が、これを読んでくださるあなたがいるならば、私は自身について語る術を持ちうる以上、誠実に向き合わねばならないと思った。
以下からは、執筆に苦しさを覚えるようになった7月中旬から書き進めたものである。
執筆が苦しい。もはや自意識過剰と関係のない悩みに思えるが、ある意味では自意識過剰だからこそ執筆が苦しいのかもしれない。
執筆、つまり小説を書く間はずっと自分の自意識について考える。自意識過剰ゆえに感じること、見ること、聴くこと、考えること、それらすべてに言葉という外枠を与えて、物語として組み立てる作業は振り返ってみれば恐ろしく繊細だ。
物語とはなんだろう、とたびたび思う。
読むことは簡単だ。楽しいから読む。
では、書くことは?そう問われると、言葉に詰まる。楽しいというより、苦しい。苦しいけども、そのままに生きていられないから書く。書いたものを読んでもらえたとき、ようやく喜びと安堵が襲ってくる。そしてまた、苦しくなる。
そしてまた、苦しいのが楽しいのも事実。
この「苦しいけど楽しいよね」と思える心の余裕が、なにより必要なのである。そして余裕を失った瞬間、楽しさはすべて反転し苦しみになる。頭は意識せずとも次の作品を生み出す。続きの物語を綴る。心は拒否しているのにも関わらず。
このエッセイの初回で、私はこう語った。
「それが勝手に小説になったりエッセイになったりしないかなぁと幾度となく夢を見ている。ついでにそれがうっかり何かの大賞になって、おまけに宝くじも当たって、…………その先の幸せが思い浮かばなかった。唯一いる友人はことあるごとに上記の願望をつぶやいているのだが、私にはいまいちピンと来ない。たしかに大賞も宝くじ当選も欲しくはあるのだが……」
上記は、自意識過剰による大嘘である。
「欲しくはあるのだが」どころではない。
めちゃくちゃに欲しい。だけど、結局周りの目を気にして言葉を選んでいる。
職場で経歴を訊かれるたび、嘘をつけない私は小説を書いていた旨を控えめに話す。すると口を揃えて言われる。「小説書けるんだ、すごいね」。
何もすごくはない。ネットの世界には、小説を書ける人が何万人、何億人と存在する。私より遥かに皆に支持されて、応援されて、書籍になっている人がたくさんいる。自分の小説に何が足りないのだろうと、考察を重ねた。
結論、私には才能がないのだと思う。
「小説を書く才能」という大雑把な括りはナシとしよう。小説を書く上で必要な才能をレベル分けした際、もっとも有利なのは「わかりやすく安定した物語を紡ぐ才能(論理的)」と「爆発のような感情をゆさぶる物語を生み出す才能(感情的)」の2つだと思う。他にも、「好きでこそ成り立つ物語を創る才能」とか、「夢みたいな話を楽しく物語として語れる才能」とか、まぁいろいろあるだろう。
自分は「誤字脱字を見つけやすい才能」しかない。あとは「小説を分析する才能」だろうか。
致命的なのである。友人には喜ばれるが。
小説を書く理由だって、正直何もない。
読むのは好きだ、胸を張って言える。だが、それゆえに「読むのが好きだから書くのも好きでしょう?」と周りの大人に言われ、気づけば私は小説をまともに書かないまま小説執筆ができる大学に通い、卒業するという人生を歩んでしまった。
大学では課題以外で、一切執筆をしなかった。
そんな紆余曲折の末、友人が書いた百合小説(ガールズラブ作品)に感化され、カクヨムで百合小説の投稿を始めるに至る。
才能が欲しかった。
何も考えずに書いた小説が知らぬ間に評価され、世間を揺るがす名作とまではならずとも、書籍化される夢をずっと見ていた。
小さい頃から文を書くことは好きだった。
読書感想文などお手の物だった。
でも、それらはすべて大人に気に入られるための小手先の技術でしかなくて、自由に表現していい小説という世界では何の役にも立たなかった。むしろ、変に型に沿った文章しか書けない私は小説の作者として劣等生で当たり前だった。
そんなふうにして自分を信じられないから、読者の方々によく思われたくて話を迷走させる。違うと気づく。書いては消しての繰り返しで、投稿まで至らずまた時間が過ぎる。
才能もないのに、読んでくれる誰かがいる。
そんなはずはない。自分にその価値はない。
フォローが増える。PV数が伸びる。
きっと間違いだ。どこが面白いんだろう。
そのくせ、自分がこだわり抜いて書いた小説が評価されないと、複雑な気持ちになる矛盾。
努力と結果が比例しないことなど、とうに知っているはずの年齢なのに。
不調の原因は自意識過剰だった。
さしたる理由も熱意もないまま投稿を続けて、作家ぶって短編小説の投稿も始めて、さらにはエッセイめいた文章の投稿まで。
自意識過剰、大暴れである。
書いていて心底、自己嫌悪に襲われる。
だが、書くしかない。すべてをさらけ出して生きるしかない。それが、自意識過剰を直す特効薬であると信じて。
8月現在。執筆を休み、インプットと称して他の百合小説を読んだり、これまで見てこなかったあれこれを見たりと休養に励んでいる。
よりよい環境で執筆を進められるよう整備を行うほか、無理のないペース配分を事前に考え計画するなど、再発のないよう準備する予定だ。
読者の存在とは何だろう、と考える。
こんな小説でも読んでくださる変人、という印象が投稿したての時期にはあった。他にも面白い作品など星の数以上にあるのに、わざわざ拙い自分の小説を選ぶなんて「変」としか呼べない。
「知りたくなるのは君のせい」の作品フォローが100人を越えたとき、私はいよいよ世界がおかしくなったのかと疑った。手慰みの自己満足で書いた小説に、100人もフォローをするのだ。そこから、徐々に100人が自分の書いた小説を読んでいるという責任感を幻視し始め、100人に好かれたくなって、100人のベストオブウェブ百合小説に選ばれたくなり、結局おかしくなるのである。
読者の方々を気にするなというのは無理な話だ。
反応をいただければ大変嬉しいし、それはもう日常のささいな喜びでは代替できない。毎日午前と午後に2回、感謝の念を天に送っている。
問題は自意識過剰ゆえ、それに囚われすぎてしまうことだ。「読者の方々がいないと生きていけない」のスタンスから変える必要がある。
夏休みの宿題は今、私の目の前に。
「自分にとっての読者の再定義」
ようやく苦しみから抜けられる気がする。
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