第10話 人間と、自意識過剰
自意識過剰である自分は人間ではない。
人間の形をした、なにかである。
と、常々思っている。
以前、親戚一同が集まる機会があった。
端的に言えば祖父母の家での宴会なのだが、人が多く集まる場所は自意識過剰にとって針のむしろに等しい。右隣の人の顔色をうかがい、左隣の人の話に相槌を打ち、正面の人に飲み物をつぐのである。全方向に目をやり、気を配り、自分だけがおかしな行動をしていないか、楽をしていないか、雰囲気を乱していないか自己分析する。
(ただし、飲み会だけは別である。アルコールという素敵な飲み物によるマジックで、「どうせみんな酔っ払って忘れるから大丈夫」なのである。人生の先輩がそうおっしゃっていた。私は人生の先輩方に対しては、全幅の信頼を置いている。)
ナチュラルに人間の人生を楽しめている人、あるいは人間の人生について考えなくても済む人は、「なぜ?」と疑問に思うだろう。普通に飲み食いして楽しめばいいじゃん、と思うだろう。
それができないから自意識過剰なのであって、自意識過剰だからそれができないのだ。
宴会は昼から始まり、テーブルには高級な寿司やオードブル、誰かが作って持ってきたポテトサラダや漬物が所狭しと並んでいた。
乾杯の音頭のあと、各々が食事を始める。
静かにお茶をちびちび飲みながら、私は親戚たちの様子をうかがった。すると早速、イトコと親戚たちの会話に驚くべき発見が。
なんでも、イトコは恐ろしく偏食であり、寿司はタマゴ以外受け付けないと言うのだ。それを聞いた親戚たちは爆笑し、「全部あげる」と言いながらタマゴを次々とイトコの皿に移し始めたのである。
嫌いなものを嫌いと言って、好意的に受け止められる現実がそこにはあった。到底信じられる景色ではなかった。幼少期、嫌いだった白菜を口に含んでトイレに行き、こっそり吐き出していた自分は何だったのか。小学生時代、給食をお昼休みになっても詰め込んでいた自分は何だったのか。いかにも人気のありそうなマグロやサーモンを避け、よくわからない白身魚の寿司を食べている自分は、何なのか。
私の人生は、いったい何だったのか。
私は愕然とした。
驚くべき発見は、他にもある。
親戚のなかのひとりが、盛大にゲップしたのだ。
食事中である。加えてここは家ではなく、皆が集まる祖父母の家の宴会なのだ。
ゲップは大爆笑をさらった。
信じられなかった。
自分のこれまでの人生がひどく惨めに思えた。
自分はこれまで、生存していく上で好き嫌いをなくし、人前ではきちんとした態度を心がけ、周りに気を配って生きてきた。だが、宴会を盛り上げるのは空気を読んだ私の発言ではなく、イトコの直接的で素直な発言なのだ。
イトコは出されたピザの耳をことごとく残し(おいしい部分だけ食べたいそうだ)、タマゴ以外の寿司に手をつけず、誰かが作ったポテトサラダを「え、ポテトサラダ嫌い」の一言で切り捨て、親戚たちに「さすが偏食〜!」と持てはやされた。
負けた、と思った。
そして自分は人間ではないのだと思い知った。
私は食事もほどほどに席から立ち、裏庭で快晴の青空を眺めた。そして小説のプロットを脳内でひたすら練っていた。惨めだけど、幸せだった。
職場でのあだ名がある。「ロボット」だ。
それぞれの人にあだ名をつけるなら?という話になったとき、自分は「ロボット」らしい。
なんでも、「ミスが少なくて冷静だし、あんまり人間らしくない」との理由。それを聞いて、私は思わず心のうちで爆笑してしまった。
同時に、自分は人間ではないことを客観的にも保証された気がして、帰宅してから落胆した。
人間とは、なんだろう。
最近よく考える。
周りを見ると、みな素直に生きたいように生き、食べたいものを食べ、話したいことを話している(ように見える)。実際そうではないにしても、私からは人間をやれているように見えるので、きっと隠れて努力しているのだろう。自分は努力しようがしまいが、人間にはなれない。いつまでも人間の形をしたなにかのまま、人間になる方法について考えあぐねている。
そして今日、天啓を得た。人間になる方法。
人間について考えないで生きることだ。
到底、無理な話であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます