清廉なる貴女
愛愁
清廉なる貴女
教室には男生徒と女生徒が一人ずついた。日暮の頃である。どうやら女生徒は男生徒に用事があるらしく、基本的には女生徒の問い掛けに対して男生徒が返答するものであった。
「貴方、どうかしら」
実に簡単な問いであった。ただ首を縦に振るか横に振るかの違いであり、何も男生徒が黙り込む必要などは無かったに違いない。女生徒は再び「どうかしら」と言い、それっきり何か言うことはなかった。男生徒が遂に返答をしたのは、それから半刻程過ぎてだった。
「どうして俺なんだい?」
果たして男生徒の返答が女生徒の問いに関する答えになっているかは置いておくとして、男生徒はこの暫くの時間、緊張していた。思春期だからと言う単純な理由では無く、所謂恋煩いというものだった。捉え様によってはそれも思春期であるが、男生徒からして見ればこの激情とは一括りに出来るものでは無い。
「貴方で無くともいいけど、きっと貴方なら喜ぶと思ったの」
女生徒がこう言ったのは当然、男生徒の気持に勘づいていたからである。看破していたと表現した方が良いかもしれないが、いずれにせよ、男生徒は今更告白など出来なかった。男生徒は耳を赤くしながらも女生徒を見つめていたが、それをサッと逸らして俯いて、言った。
「喜べるものか。君と話すのは、きっとこれが終いになるのだろう?」
男生徒は震えていた。悲しかったのか、悔しかったのか、彼自身にも分からない。が、その震えは女生徒と目が合った途端に止まった。
「何も言わずにさよならをするなんて、それこそ悲しいでしょう。しかし、私は貴方にさよならを言いに来たわけじゃなくってよ」
「そんなことは分かっているさ」
男生徒は続けた。
「そんなことは分かっているさ。が、俺は、凡そ君に対して想像ができない。何を考えているのかが、分からないのだ。俺を喜ばせたいのかい?」
女生徒は微笑んだ。
「そうと言ったら?」
嘲る様な笑いに感じられた。男生徒は不快にこそ思わなかったが、意外にも、彼はこの得体の知れない笑みに艶やかさを感じた。
「俺はそれを否定するだろう。俺を喜ばせたいのなら、尚更、君の思惑が理解できない」
感情的になったのか、今度は顔まで真っ赤だった。しかし、決して怒っているわけではないのである。
「それじゃあ、貴方を喜ばせたいと言うことじゃないということね」
「そんな事は分かりきっている。なあ、揶揄わずに、素直に教えてくれたっていいじゃないか」
どこか、女生徒は男生徒を小馬鹿にする様な態度が見受けられ、確かに心底彼を見下しているわけではないのだが、男生徒はそれに何か別の意味を見出そうとしていた。彼は自分を一括りにされるのを酷く嫌っているらしいが、それにしても彼は思春期だった。女生徒は彼の心内を見抜いたのだろうか、
「何か期待している?」
と言った。
「期待などはしちゃいない。ただ、俺は君と話せるだけで嬉しいのさ。それを喜んでいるだけだ」
男生徒はあくまでも冷静に振る舞った。女生徒はそれ以上、揶揄う様な真似はしなかったが、代わりに大きな溜息を吐いた。男生徒に向けた溜息というわけではないらしい。
「私は、私の境遇に飽きてしまったのよ」
このような悩みは、この年頃ではありがちなのだろうか。少なくとも男生徒の経験した事のない悩みだった。凡そ楽観的に生きているわけではないにしろ、普通に生きていたのなら知る事のない感情だろう。
「境遇などは飽きるものじゃないだろうに。君の境遇とやらには、決して嫌になる理由などはないと思うが」
女生徒は笑った。どうやら、男生徒の的外れな回答がおかしかったらしい。男生徒は何故女生徒が笑っているのかが不可解だったが、その訳を聞く事はしなかった。
「嫌になる理由が無くとも、好きになる理由もないわ。私は、自分の境遇を愛せなかった」
「君が愛さないなら、僕が愛そうじゃないか。もしも平凡に飽きてしまっているならば、それはあまりにも贅沢な悩み事だ」
女生徒は、いくらませていても年頃だった。年頃所以のませ具合だったし、そして、この年頃はどうやらジュエリーやら洋服やらに気が行くのだった。雑誌の表紙のモデルは、女生徒にとっては何よりも偉い存在に違いなかった。
「誰であっても、スターの境遇を羨んで、自分の境遇を怨むものだわ。ねえ貴方、どうして貴方は絶望せずに生きていけるの?」
男生徒はそんなことは考えた事などなかった。同級生であるはずなのに、目の前の女生徒とは、まるで教師と話す様な抵抗を感じられた。これは、彼女が大人びているからなのだろうか。
「俺は絶望しないとは言わない。日常は無数にあるのだから、その一つや二つくらい絶望する。いや、もっと絶望するに決まっている。が、俺は絶望したとて、その絶望には呑まれやしないのだ、膝をつかないのだ。負けてたまるかと、不器用ながら戦うのだよ」
男生徒の言う事は決して間違いではなかった。間違っているわけがなかったが、その絶対的な正当性が、返って女生徒の反感を買ってしまった。
「私は、大衆の目前で恥を晒す事など、できやしない」
「俺だってそうだが、恥をかかないで人が成長できるかね?君は成長したくないのだろうか」
女生徒は男生徒の目を見た。それは、目を見たと言うよりは、目の奥の、人の本質的な何かを見ている様だった。そして女生徒は一言、
「成長する気力がないのよ」
と呟いた。
二人は海に行った。当然、女生徒の発案であり、男生徒は付いて行った。やぶさかではないという態度では無かったが、やはり、少しでも女生徒と一緒にいたかったと言うのが、男生徒の心情だろう。未練たらしさを自嘲しながらも、男生徒は黙っていた。女生徒は「この辺でいいかしら」と言って立ち止まった。浜辺である。
「ここには離岸流があるから、丁度良いわ」
女生徒は言った。男生徒はやはり無口であったが、何も感じていないわけでは無かった。女生徒は早速、靴を脱いで海に入って行った。膝の辺りまで入って行き、こちらを向いた。
「貴方、どうかしら」
これは二回目だった。決して、再び聞かれることに備えていなかったわけではないが、やはり、どうしても男生徒には答えを出すことができなかった。
「俺は、君を愛しているが、俺のことが可愛いのだ。どちらか優劣をつけることは難しいが、気障なことを言うのであれば、君は喜んでくれるかい?」
無論、男生徒は喜んでくれるなら一緒にゆくという意味で言ったのだが、しかし、一緒にゆこうとは口にしなかった。どこか、彼は愛情以外の何かがあったのだ。
「残念だけれど」と、女生徒は偽らなかった。虚しくも、男生徒は失恋をしたことになるが、彼女を愛する気持ちに変わりはなかった。
「私は一人ぼっちが嫌なだけなのよ、人の嫌な部分を沢山見て来たけれど、やっぱり私だって人なのだから、人に触れたいの。貴方に特別な感情は抱いてはいないけれど、一緒にいてくれるなら喜ぶわ」
「それは、やっぱり俺じゃなくても良いじゃないか」
男生徒がこう言うのも、女生徒がこう言われるのも二度目だった。打切棒な態度を女生徒はとっても良かったが、あくまでも丁寧に対応した。
「貴方が一番、私に優しかったのよ。親よりも兄妹よりも、先生よりも」
「愛しているのと優しいのは違うさ。俺が優しいのなら、君の行為に全て賛同するだろうが、生憎俺は君を愛している。だからこそ、俺は君を否定したいのだ」
突き放す様な言い方だったかもしれないが、女生徒は悲しまなかった。悲しんでいたかもしれないが、顔には現れなかった。彼女にとっては嫌であろう言葉も、愛情として受け止めることにしたのだ。少しの間、今度は女生徒が男生徒の顔を見て、そして踵を返した。脚が全て浸かったところで、男生徒は声をかけた。
「なあ、本当に行ってしまうのかい?俺は君を幸せにしてみせるさ」
見栄はあったが偽りはなかった。実際男生徒は、この後ある幸運によって金が入ることになる。しかし、女生徒にとって金とはただの紙切れに等しかった。金が通用するのは現世だけである。
「私は、愛されるだけじゃ幸せにはなれないの。贅沢な病よ」
「じゃあどうすれば幸せになるんだい?」
「幸せになんて、なれないわ」
男生徒はそれ以上の言葉が出てこなかった。つまり、彼の情熱と彼女の絶望では、彼の情熱とは羽虫にも満たない程チンケなものであったのだった。始めて男生徒は、女生徒を理解した気がした。女生徒は男生徒が何も言えぬことを理解してから再び歩き始めた。胸の辺りまで水が来た時、またしてもこちらを振り返った。
「貴方、どうかしら」
三度目だった。
仏の顔も三度までと言うなら、仏よ、彼女を嫌ってくれ。どうか彼女を門前払いしてくれ。
雨が降っていたが気にならなかった。傘は無かったが、男生徒が女生徒の傘になっていたのなら、何か変わっていただろうか。
「綺麗だよ」
彼は結局、口だけでしか愛を伝えられなかった。女生徒はこの時泣いていたが、男生徒もそれは同じだった。二人の涙は雨にかき消され、この広い世界においてはちっぽけなものである。
水も滴る良い女は、こうして泡と化した。
数年して男生徒は死ぬ。病気ではあったが病死ではなかった。ただ、彼が晩年、ある女性についての未練を語っていた事はよく知られていた。ある海岸では、靴が二人分見つかったと言う。
清廉なる貴女 愛愁 @HiiragiMayoi
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