二章 お仕事開始

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「それでは誠心誠意、務めさせていただきます! 何でもお申し付けください」

「あ、ああ……」


 仕事用のがおを作り胸をたたくと、マーガス様は何とも言えず、複雑そうな顔をした。


「まずはおしきみなさんにごあいさつから……」


 と切り出したところに来客を告げるベルが鳴って、マーガス様は顔をしかめた。


「申し訳ない、仕事だ。ひとまず、これを君に預ける」


 マーガス様は、かぎたばを私の前に差し出した。りゅうの小屋やさくかぎだろうか? それにしてはいささか数が多いし、立派すぎる。


「この屋敷は全て君のものだ」

「はい?」

「アルジェリータ、君は自由だ。に何をしても構わない」


 それだけ言うと、マーガス様は部屋を出て行ってしまった。


「……自由?」


 自由というのは、聞こえはいいけれど、それと同時に責任が自分に降りかかる。下手なことはできないぞ、とくぎされたにちがいなかった。

 応接室から出ると、ホールの方角から会話が聞こえてきた。声のする方に向かっていくと、使者の青年と、先ほどのメイドの女の子が口論……いや、おそらくは女の子が一方的に青年を責め立てている。けれど、二人があやつる言葉は異国のもので、話の内容まではわからない。


「○■▽■……!」

「○▲×……あ、奥様」


 青年が話をらそうとばかりに私を指さした。いたけれど、背後にはだれもいない。


「あなたですよ」


 マーガス様は俺の妻になればよい、なんてことを言っていた。頭がぐるぐるして、さっきまでは本題に入る前のじょうだんだと思っていたけれど――本当に、そのつもりで人に話してしまっている、ということなのだろうか?


「兄貴にムカついたから無視することにしたんじゃないの」


 だまっているとどんどん話がこじれそうなので、あわてて首を横に振る。


「ところで、そんな所で何をされているので?」


 青年の暢気のんきな言葉に、それは私の台詞せりふです。と言いたいのをぐっとこらえる。


「今日から騎竜のお世話係として、この屋敷で働くことになりました。よろしくお願いします」


 おをしてから顔を上げると、二人はそろってぽかんと口を開けたままだった。……言葉は通じているはずなのだけれど。


「……あの」

「もしかして、あなたは『アルジェリータ』ではない!?」


 メイドがあせった声を上げた。


「え、ええと。私がアルジェリータなのですけど」

「ラクティスの兄貴が同名の別人を連れてきた!?」

「いいえ、合ってます。多分」

「そうだ。ちょっと目をはなしたすきに先に合流されちゃっただけ。俺はちゃんとやった」

「ご、ごめんなさい。早とちりをして」


 てっきり放置されたと思い込んでいたけれど、それは私のがいもうそうだったらしい。

 彼の名前はラクティス、兄と呼んだメイドの彼女は妹で、ぎわを責められていたようだった。


「ほら。ミューティ、そういうことだ」


 ミューティと呼ばれたメイドはなおも、ほおふくらませて不服そうだ。


「……でも、ならどうして騎竜のお世話係なんて話に……」

「スカウトされたんです!」


 ほこらしげに両手を広げたけれど、二人は何だかなっとくがいっていないようだった。


「つまり……あなたはうちのだん様と騎竜を通して知り合ったんですか?」

「いいえ。今日が初対面よ」


 二人の口元は笑いをこらえているかのようにきゅっと引き結ばれているけれど、お揃いの黒いひとみにはこうしんにじんでいた。なんとなく、このきょうだいとはうまくやっていけそうな気がする。


「まあ、じょうきょうはわからないなりに理解しました。奥様、これからよろしくお願いいたします」


 ラクティスは美しい礼をして、そのままげんかんの方へ歩いて行った。彼の背中を見送ってから再びミューティに視線をもどすと、彼女はひとなつっこそうに、にっこりとほほんだ。


「まずは何をご用命でしょうか。素人しろうとメイドですが、兄と違って要領のよさには自信がありますよ。何でもお申し付けください」


 るぎない自らに対するしんらいを見せつけつつ、ミューティはスカートのすそをつまんでゆうに礼をした。足さばきを見るに運動神経はとてもよさそうで、騎竜の里にいればがたい人材――いや、もうここは王都のこうしゃくていなのだった。


「そうね……まず、私、今日からどこでればいいと思う?」


 私の言葉に、ミューティは目玉がこぼれ落ちそうなほど目を見開いた。


ろうの奥がしょさいです。本はたくさんあるのでいつでもどうぞ、と」


 私は二階の部屋に通された。びんにはれいに花が生けてあり、かべがみや窓にかかっているカーテンもわいらしいものだ。とんもふかふかで真新しく、本当に私の部屋にしていいのか疑ってしまう。


「服はここに。色々揃えておきました」

「ええ……」


 かべ一面の引き戸の向こうはしょうだなになっていて、今まで身に着けたことがないような上等な衣服が沢山収まっていた。


「気に入らないですか?」


 私の反応がうすかったせいか、ミューティがじゃっかん不安そうに顔をのぞんできた。


「そんなことないわ。でもね……騎竜のお世話をするには、よごれやすい服は向かないと思うの。が薄いから、あっと言う間に破れてしまうわ」

「はあ……それ、ほんとの話なんですか? 騎竜の世話って」

「そうよ」


 ミューティをじっと見つめる。汚れの目立たなさそうな黒地に、清潔感を足すための白いレースのえりがついたワンピース。ごろそでに大きめのボタンがついていて、袖をまくり

上げるのも、するのもやりやすそうな。


「あなたのと同じ服はないの?」


 私の発言に、ミューティは鼻にしわを寄せた。


「これはこうしゃく家の使用人に支給されている制服です」

「あっ、そ、そう、知らなくて……ごめんなさい」


 使い勝手が良さそうだし、それがじゅんすいに好ましいと思ったのは本当だ。しかしそんなことに思い至らないあたり、私はけだ。


「まあ……本当に働くのなら作業着は必要ですけど……」

「もちろん働くわ。……人が居着かないのって、本当の話なの?」


 リネン室へ向かうちゅうにおそるおそる、クラレンスていで説明された内容についてかくにんしてみると、ミューティはあごに手を当て、顔をしかめた。


「いいえ。公爵家ですよ? そんなわけないじゃないですか」

「やっぱり、そうよね」


 マーガス様はとても立派な方だ。いくら騎竜が慣れていない人にとっては危険な生き物だとしても、歴史ある公爵家の使用人が対応できないとは思えない。


「旦那様は今、とにかく気が立っていて、放っておいてほしいのだそうです。だからこの家は使用人も少なくスカスカで……まあひまだし、好き勝手できるのでいいんですけど」


 何かマーガス様をなやませることがあったようだ。


「二人はマーガス様の信頼があついのね」

「戦場で知り合ったからじゃないですかね? 気心が知れているというか……」

「戦場で……」


 私は戦争を実感したことはないけれど、その言葉にきゅっと心が痛んだ。マーガス様はおやさしい方だ。それはきっと、想像もつかないような苦労をなさったからなのだろう。明るい二人にも、同じぐらい、いや、もっとつらい過去があるのかもしれないと、軽はずみな発言をやむ。


「私と兄は隣国のさんがく民族の出なのですが、ゆく不明者たちのそうさくのために旦那様がうちの村をおとずれて。案内役としてやとわれたのちに、グランジ王国を観光したかったのでそのままついてきました」


 ……しんのほどは不明だけれど、軽快な語り口を信じた方が精神衛生上よさそうだ。


「私たちにとってはよい職場です。気に入ってくださるとうれしいですね」

「せっかく招き入れてもらったのだもの、私も信頼していただけるようにがんるわ」


 制服を受け取ると、ミューティはにんまりと笑った。


「大型新人に期待しています」


 ひとりになって、室内をわたす。てきな部屋だ。ここに住むだけで、騎竜の里の給金分はぶだろう。一時は無職になってしまってどうなることかと思ったけれど、ひとまずはなんとかなりそうだ。

 制服に袖を通す。ぱりっとした生地には一か所のほつれもなくて、しろちょうがいでできたボタンは陽光を受けてまろやかな光を放っている。襟のレースは手編みだ。私が自分で編むより、ずっとあみが細かくて、変にれたところがない。一流の職人が手がけたものだろう。


「中々似合っているのじゃないかしら?」


 鏡を覗き込んでから、背後のたなの存在に気が付く。中身は空っぽだけれど、今のところ収納するものはない。テーブルにはランプがあって、油がたっぷり入っている。 

 ――今日はもう特にする仕事はないみたいだから、たんさくがてら書斎の本でも借りようかしら。

 鼻歌など歌いながら書斎のとびらを開けると、マーガス様と目が合ってしまった。銀の羽根ペンを持ち、ややぜんとした表情で私を見つめている。どうやら机に向かってお仕事中だったようだ。


「も、申し訳ありませんっ!」


 マーガス様が書斎にいらっしゃると思い至らなかったのは、我ながら本当におろかすぎる。


「気にしなくていい。屋敷の中では自由にして構わないと言ったのは俺だから」


 頭をかかえ、背を向けている私の背中にマーガス様の視線がさっている気がする。ずかしい。このまま壁になってしまいたい。


「その服はどうした? 何着かえを用意してあったはずだ。気に入らなかったか」

「いえ、作業用にゆうづうしてもらいました。破れてしまったら申し訳ないので……」

「そうか。ならいい」


 会話が続かなかった。いまさら本を借りに来たとも言えず、なんだかもじもじとしてしまう。


「あの二人はどうだった? 少ししゃべり方にくせがあるが……」

「いい人たちでした。話しやすくて。騎竜が人間になったら、あんな感じかなと」


 マーガス様はどこか不服そうな顔をした。そうすると、年相応の青年に見える。


「騎竜か……言い得てみょうだな。それなら確かに、俺よりは話しかけやすいだろう」


 ああ、またマーガス様の前で変なことを口走ってしまった。これからきちんと、仕事ができるのか、とても不安だ……。



*****



「きゅ、きゅ」とかんだかい騎竜の鳴き声で目が覚めた。

 騎竜は仲間と鳴き声でコミュニケーションを取る││ この声の高さはめすだろう。

 がえりを打つ。今日はずいぶんと布団が温かくてごこがいいから、起きるのがつらい。


「……」


 うとうとと再びねむりに引きずり込まれそうになるけれど、遠くから呼びかけるような騎竜の鳴き声が聞こえてきて、まどろみのふちから私を呼び戻す。

 甘えるような声は若い個体ね……これは誰だったかしら……おかしいな。里の騎竜たちはほとんどが年老いている。こんなにも元気を持て余した子がいるはずが……。


「はっ!」


 意識がかくせいする。ここは騎竜の里ではない。ブラウニング公爵家だ! 事実に気が付いたしゅんかん、体中の血が勢いよくめぐり、脳が活性化する。

 私がするべきことは、ここがどこでも変わらない。

 ――騎竜のお世話をしなくては! 慌てて服をつかみ、頭からすっぽりとかぶって階段をりる。走りながらボタンを留めて、庭へ飛び出す――んだ冷たい空気の中で、朝日を受けてきらきらとかがやく騎竜が一頭。

 ポルカだ。

 彼女はなんだかごげんななめのようで、柵をかじったり、を振り回したりしている。

 応接室の窓からはじゅうおうじんに駆けているように見えたけれど、柵があって屋敷の手前側には出られない。それが気に食わないのだろうか?


「おはよう」


 はく色の瞳がちらりとこちらを見た。「あんたまだいたの?」とでも言いたげだ。


「今日からあなたのお世話係になったの。よろしくね」

「ぎゅっ!」


 一歩近寄ると、ポルカは少し毛を膨らませて、低いかくの鳴き声を上げた。

 団長の騎竜となれば、群での序列も非常に高いはずで、当然縄張り意識も強い。

 私は若い騎竜のお世話をしたことがない。今までお世話してきたりゅうたちはねんれいを重ねて落ち着きがあり、自分の行く末をなんとなく理解している節があった。だからかくてきすぐに私を受け入れてくれたけれど、彼女にはこれまで以上に敬意をはらう必要がありそうだ。


「敵じゃない、敵じゃない……」


 うでを広げ、両手の平を見せるとポルカは威嚇をやめ、首をばして私をじっと見つめた。

 言葉が通じたのか不明だけれど、敵意がないとりで示したことで新しいお世話係だとにんしきしてはもらえたらしく、厳しい視線がやわらいだ。


「昨日も思ったけれど……あなたって、すごく美形なのね」

 騎竜の美的感覚はもちろん人間とは違うけれど、さすが騎士様の騎竜とあって、づやがよく、つめはピカピカ、アーモンド形の瞳はきらきらと澄んでいる。


「きゅっ」


 め言葉が通じたのか、ポルカはまんざらでもなさそうにあしみをした。一日でお役めん……とはならないだろうとほっとする。

 庭先の小屋の鍵は開いたままで、中には歴代のお世話係の書いたれんらく帳が残されていた。

 記録の通りに食事を与あたえたけれど、ポルカは育ちざかりのわりには食が細い。


「おかしいわね」


 筋肉の付き方や毛艶のよさからして、もっと食欲おうせいでもいいと思うのだけれど……。

 片付けようとすると、歯でがっしりと|桶おけ》をくわえて離そうとはしない。食欲はあるようだ。記録ではきらいもない。|訝《いぶかしんでいると、ポルカが見せつけるように口を開いた。

 みつくつもりはないだろう。彼女がその気になれば、考える前に私はぱっくりやられ

てしまっているだろうから、この仕草は口の中の異物感を伝えようとしているのだろう。

 しげしげと口内をながめたけれど、ちょうど彼女の立ち位置がかげになっていてよく見え

ない。書斎か物置あたりに虫眼鏡でもないだろうかと屋敷に戻ると、マーガス様が階段の

上から腕を組んでこちらを見下ろしていた。


「おはようございます、閣下」


 慌てて付け焼き刃のお辞儀などをしてみるけれど、どう考えても様にはなっていないだろう。まともな教育を受けられなかったことに、今更ながらわずかなこうかいがある。


「マーガスでいい」

「はい。マーガス様、おはようございます」

「……ずいぶん早いな。まだ朝の六時にもなっていない」

「申し訳ありません。さわがしかったでしょうか……」


 騎竜の生活に合わせるためには日の出とともに――場合によっては、夜明け前から活動を開始しなければいけない。


「いや。朝が早いのはいいことだ。俺も勝手に目が覚めてしまうしな。通いの使用人はまだ来ていないんだ……食事を?」

「はい。けれど、食が細くて。虫眼鏡を探しています」


 私の返答にマーガス様は妙な顔をした。言葉足らずだった。


「ポルカが口の中を気にしているので、見てあげようかと」

えさをやったのか!?」


 よく通る声が玄関ホールにひびわたった。そのまま目にも留まらぬ速さでマーガス様は階段を駆け下りて、私の手を取った。


「ひゃっ」


 情けない声を上げると、摑まれた手はすぐに解放された。


「すまない。でもしていないかと」

だいじょうです」


 マーガス様はおこっているわけではなく、私がポルカにけちょんけちょんにやられてしまったのではないかと心配してくださったようだ。そこで腕を確認した――あまりにもす―|早《ばやい動きだったのは、軍人ゆえだろう。きたえていない私とは訳が違うのだ。


「ゆっくりしていなさいと、言っただろう」

「鳴いていたので……おなかが空いているんだろうな、と」


 どうやら、マーガス様はポルカの世話をするために起きてきたらしい。


 騎竜は危険、そして貴重だ。所有者が明確な騎竜は許可なしに勝手にれてはいけない。

 今日から仕事に取りかかるのが自然に思えたけれど、それは私の勝手な判断だった。

「申し訳ありません。引

き継

ぎもなく、勝手なことをして……」

「いや。無事ならいい。噛まれなくてよかった」

「威嚇されましたが、それだけです」

「もう、打ち解けたのか?」

 マーガス様は意外そうな顔をした。……私だって、わざわざ騎竜のお世話係として雇われた身だ。若干きょうぼうだからといって、すぐにすと思われては心外だ。


「打ち解けた、というわけでも。服従の意思を見せたら受け入れてもらえました」

かみを引っ張られなかったか?」

「いいえ」

 マーガス様の口ぶりでは、騎竜に髪の毛を引っ張られてとんでもない目にあった女性が

いるようだ。さすがにそこまでする素

振ぶ

りはなかった。私は一応、ポルカに許されている

のかもしれない。

「そうか。多分うまくいくとは思っていたが……安心した」

「よかったです、クビにならなくて」

「君がかいされることは絶対にない」


 どうやら、マーガス様は私とポルカのあいしょうがよくなかった場合は、別の仕事をあっせんしてくださるつもりのようだ。さすが人の上に立つ方、めんどう見み

がとてもよい。


「きゅっ」


 マーガス様がやってくると、ポルカは足をだんだんとらすのをやめた。喜びのせいか、はたまた日光の加減なのか、瞳がより一層きらきらとして、可愛らしい。


「おはよう」


 マーガス様の挨拶に、ポルカは頭をでてもらいたそうに首を下げた。当たり前だけれど、私の時とは態度が全然違う。


「ポルカ。アルジェリータがお前の口を見てくれるそうだ。噛むなよ」


 いつ私がそんなばんなことをしたのでしょうか? と言いたげに、ポルカは可愛らしく小首をかしげた。その様子を見ていると、飼い主であるマーガス様が公言しない限り、ポルカがそんなに凶暴だなんてつうは思わないだろう。


 ポルカがマーガス様の指示に従って口を開けると、頰の内側に小さな傷が出来ていた。

 柵をかじって、もくへんが刺さってしまったのだろう。

 分厚い筋肉とかた、そしてふわふわの羽毛でおおわれた騎竜も、口の中は無防備だ。


「確かにな。夜のうちに悪さをしたんだろう……薬をつけるぞ」

「ぎゃっ!」


 薬、と聞いた瞬間にポルカがった。台詞を付けるとしたら『絶対にいや! 薬は苦いから嫌い!』だろう。

 口の中を怪我した騎竜にはなんこうり、そのあと口を大きく開けなくなるように専用の器具で留める。次の食事の時間までそうなるので、嫌がる子はものすごく多い。

 実際、ポルカもマーガス様がづなをしっかりにぎっていなければ、後ろにすっ飛んでいくだろう。

み癖があるお前が悪い。この機会に改めろ。……小屋から軟膏を持ってきてくれ」

「……待ってください。軟膏を塗らずに済むかもしれません」

 怪我としては軽度だ。不快感が軽減されて、ポルカの機嫌がよくなればそれでいい。

 手の平に意識を集中させ、ぽわっとした、綿毛のようなりょくかたまりを作り出す。これが私のせいいっぱいだ。

 体の中からかき集めた魔力をポルカの口元に持っていき、かんに当てると魔力の塊はすっと吸収されてなくなった。

 ポルカは自分の身に何が起きたのか確認するかのように、数十秒ほどぱちぱちとまばたきをしていた。やがて不快感がなくなったのか、しっを地面に叩き付けるのをやめて、おとなしくなった。

 どうやらうまくいったようで、ほっとする。


「ありがとう。すっかり機嫌がよくなったようだ」


 なんとかお役に立つことができたようだ。お世話係としては上々のすべしだろうか。


「ところで……君にはやしの力がないと聞いていたが」


 ふとした問いかけに、しゅうで顔が赤くなった。

 いつまでっても、自分の出来の悪さを人に知られている――そこないだと突きつけられるのは苦しい。


「すまない。その件に関してはどうこう言うつもりはない」


 マーガス様は私が黙り込んでしまったのを気にかけてくださったようだ。


「実はほんのちょっとだけ、あるのです。癒やしの力」


 私の魔力はかいではない。けれど痛みを和らげたり、不快感をおさえる程度で精一杯で、外傷をすることはできない。


かくしていたのか? それならばあのようなあつかいを受けることもなかったろうに」

「直接的な解決には、なりませんから……それに、騎竜には効くみたいですけれど、人間にはどうか……」

「人は必要にせまられた時、秘められた才能が開花する場合がある。調べてもらおう」


 マーガス様が、私の手を取った。


「そうすれば、君は正当な評価を得られる。自分で自分の人生を好きに選べるんだ。いや、君が国家治癒師の資格を得たとしても、それよりもいいたいぐうで君を……」

「きゅっ!」


 ポルカの可愛いらしい鳴き声が会話をさえぎった。餌をもっとよこせ、のおねだりだ。餌をじゅうしたけれど、どうやらご希望の品ではなかったらしく、ぶんぶんと首を振る。


「待っててね。食料庫で騎竜が食べられるものを探してくるから」


 騎竜は雑食だ。何かしら与えてもいい食材が見つかるだろう。


「その前に、自分の食事をなんとかしてはどうだ」


 マーガス様にそう言われて、急にお腹が空いてきた。考えてみれば、急いで出てきたのでパン一つ口にしていない。


「あ、そ、そう……ですね……」

「ぎゅっ! ぎゅっ!」


 お腹は空いた。けれど、ポルカは早く何か持ってこいと私をかす。


「……ポルカが待っているのでその後で」

「ふっ……ははっ……」


 ――とつぜん、マーガス様が、笑った。

 そんなにおかしなことを言っただろうか? えらい方の笑いのツボはよくわからない。


「すまない。自分のことよりポルカを優先するなんて、おかしなやつだ、と」


 ――それって、マーガス様もいっしょではないですか? と軽口を叩きそうになって、口をつぐんだ。いくら素敵な方だと言っても、れしくしてはいけないわ。


「朝から白身魚のフライだなんて、とってもごうせい……」


 私のかんたんに、厨房から顔を出したミューティは誇らしげに、にやにやとしている。


めずらしい物好きなのか、こちらに来てからったものばかり作りたがるんだ。付き合ってやってくれ」

「嬉しいです」


 料理はどれもおいしかった。マーガス様はゆっくりと紅茶を味わっている。私の前にもカップが出されたので、一口飲んでみる。……とてもおいしい。


「お茶を飲み終わったら、ポルカの昼食までどうしていればいいでしょうか?」

「ゆっくりすればいい」


 その言葉は昨日も聞いたけれど、マーガス様は私をなまけさせて、一体全体どうしたいのだろう。毎日いそがしくすることが生きがいだったような私としては、急にぽんと放り出された感じがして、落ち着かないのだった。


「私、騎竜のお世話の他にも色々できると思います」

「色々、とは……例えば、何を?」


 マーガス様はちらりと目線を上げて、私をじっと見つめた。


せんたくくさり、簡単なちょう簿つけですとか……何か……何でもいいんです。お仕事をいただけませんか?」

「……それでは、手紙が来たらまとめて書斎に持ってきてくれないか」


 私のこんがんに、なんとか新しい仕事をひねしてもらった。それくらいなら私にもできるだろう。


「はい、わかりました! ありがとうございます」


 次の目標が出来たことにほっとする。この調子で、任せてもらえる仕事が増えていくといいのだけれど。


「不安になるのはわかる。俺はせっかちだから、こうしている間にも何か起きているんじゃないか、今のうちになあなあになっていることに着手すればもっと効率がよくなるんじゃないか。そんなことを考えて、いつも落ち着かない」

「マーガス様も、ですか」


 私の目には、彼はいつでも自分のやるべきことをわかっていて、迷いがないように見えている。けれど、そうではないらしい。


「あいまいな態度を見せると、部下の士気にえいきょうする。だから常に気を張って生きてきた。そうして今では『祖父ゆずりのがん者』と言われて、もうほとんどもの扱いだ。けれどそれは俺の望むところではないから、君にはそっせんしてくつろいでもらいたい」


 うなずくべきなのか、否定すべきなのか悩ましいところだ。だって、私の目から見たマーガス様は『優しいけれどよくわからないあいまいな人』だから。


「今日のお仕事は?」


 考え事をしていると、庭が一望できる食堂の窓から、ラクティスがぬっと顔を出した。


「ルーティンが終われば自由時間」

「だそうです。では奥様、俺は遊びに行きますね。またお昼に」


 ミューティから食事と紅茶のったぼんを受け取って、彼はそのままいなくなった。観光のために王都に来たというのは本当のことらしい。なるほど、彼を見習うべきのようだ。


「……もうこんな時間か。それでは夕食時に、何をしたか聞かせてくれ」


 マーガス様は時計を見て、立ち上がった。昼食には顔を出さないらしい。つまり、お話ができるのは今だけ。


「……特に何もなければ、それはそれでいい。……手紙のことはよろしくたのむ。騎士団以外、中には誰も入れないでくれ」

「特別なのは、騎士団だけ、ですね」

「ああ。例外はない。たとえ王家でも、だ」


 マーガス様は念入りにかえした。しんみょうに頷く。この言葉は絶対なのだ。

 とは言っても。いつ手紙が来るのだろうと、まだそんな時間でもないのに私は玄関ホールのあたりを落ちつきなくうろうろしている。

 ポルカは朝の運動と食事を終えて満足したのか、しばの上で丸くなって、私に構ってくれない。

 屋敷の中は清潔で、私が手を加えるべき場所は見当たらない。

 ゆっくりしろと言われても、何も思いつかない。読書をしようにも、マーガス様は書斎にいらっしゃる。おじゃできるはずもない。やることがなさすぎて、服までえてしまった。

 ――何か、何かないかしら?

 動いていないと、妙なことを――自分の先行きだとか、世の中に対する不平不満とか、考えても仕方のないことを考えてしまう。


「何をしたらいいと思いますか?」


 なんのあてもなく、ローラン様のしょうぞう画に話しかけると、不意に玄関のベルが鳴った。

 郵便にしては随分と時間が早い。何か重要な急ぎの連絡に違いなかった。


「マーガス・フォン・ブラウニング様にお目通りを」


 扉を開けると、そこにはいかめしい顔をした男性が立っていた。美しいしょうのあしらわれた箱を大事そうに抱えた上着のむなもとには、王家のもんしょうが輝いている。マーガス様は高位貴族。王家とやりとりがあって当たり前だろう。


「お手紙は、私が受け取ってお渡しすることになっています」


 マーガス様ははっきりとそう言ったのだから、これは不敬にあたらない。しかし、使者の顔には「かい」の文字がかんでいた。


「第三王女セレーネ様からの親書です。使用人の手に渡すことはできかねます」


 冷たい瞳と、つっけんどんな口調がますますするどくなる。こうなるとラクティスの不在が悔やまれた。彼がいれば対応してもらえたのに。

 今は使用人の制服を着ていないけれど、私は「そう」としか見えないのだろう。自分だって納得できないのだ、私がマーガス様に近しい人物に見えるはずがなかった。


「マーガス・フォン・ブラウニング様にお目通りを」


 使者はいらいらしたように声を張り上げ、同じ言葉を繰り返した。


「い、今……」

「何の騒ぎだ」


 お呼びします、と答えそうになった瞬間。マーガス様が書斎から出てきてしまった。


「この使用人が取り次がないと意味不明なことを申すのです。閣下、このような不出来な人間を取り次ぎに置くのは、ブラウニング家の名前にどろを塗ることになりますぞ」

「使用人?」


 マーガス様がゆっくりと私を見て、思わず目を逸らしてしまう。


「彼女がそう言ったのか?」

「いいえ」


 何を明らかなことを――と、使者はいんぎんれいに笑った。


「彼女は私の妻だ」

「は?」


 うつむいたつむじに、使用人の面食らった声がぶつかった。


「聞こえなかったか? 彼女は私の妻だ、と言ったんだ」


 マーガス様はぐい、と私のかたせた。


「な……」


 何を言っているのだ――と、心の声が聞こえたような気さえした。


「そのような連絡は受けておりませんが」


 ごほん、とせきばらいの後、使者はなんとか気持ちを立て直したようだ。


「赤の他人に報告をするほど暇ではない。気になるなら本邸に問い合わせろ。ついでに、取り次ぐなと言ったのは私の指示だ」

「……左様でございましたか。大変失礼いたしました。しかしながら、私にも使命があります。どうぞこちらをお納めください」


 うやうやしく差し出された書簡に、マーガス様は手を伸ばさなかった。

「受け取らない。それがお返事です、とお伝えしろ」


 マーガス様の言葉を聞いて、使者はわなわなとふるはじめた。さすがに、ここまで冷たくされてしまってはまんの限界――ということだろうか。


「それがブラウニング公爵家の総意であると?」

「もちろん」


 王女からの書簡を受け取らずに突き返すマーガス様の真意はわからないけれど、何かとんでもなくおそろしい事態が始まりそう――いや、もう起きてしまった後なのだろうか?

 使者はこれ以上の押しもんどうは無意味とさとったのか、屋敷を去った。馬車の音が聞こえなくなってから、マーガス様は、ふう、とため息をついた。


「あれだけ言っておけば、もう来ないだろう」

「よろしかったのですか?」

「ああ」


 王家とブラウニング公爵家の関係性も、マーガス様の交友関係もわからない。彼がそう決めたのなら、私が口をはさむことではないのだろう。


「嫌な思いをさせてすまなかったな」

「いえ、まぎらわしい言動をした私がよくなかったので……」


 抱き寄せられた肩から指先の熱が伝わって、妙に落ち着かない。もじもじしていると、マーガス様はぱっと手を離した。


「妻だと言ったことが嫌なら謝る」


 嫌だ、とかそういう感情ではない。ただただ、わからない、のだ。


「いえ、でも、ど、どうしてですか……?」


 騎竜のお世話係がしいのはわかる。けれど、それなら普通に雇えばいいだけだ。冗談ではなくて、マーガス様は私を対外的に妻として扱おうとしている。

 ――理由がわからない。

 私の問いに、マーガス様は困った顔をした。


「早朝に話すような内容ではない。……これ以上、君にめいわくはかけないようにする」


 ――そんなことを、言われても。


「早朝がダメなら、一体何時ならいいのだと思う?」

「ぎゅっ!」


 ポルカは昼ご飯を食べながら、私の問いかけに適当なあいづちを打った。

 人間が何らかの鳴き声を発した時は、ほどよく鳴いてやれば喜ぶと学習しているのだ。


「マーガス様って一体、何をお考えだと思う? あなたはくわしいでしょう? このお屋敷で何が起こっているのか」


 つっけんどんな言動のマーガス様は恐ろしかった。きっと手紙の差出人に対してお怒りなのだと思うけれど、優しいところと、厳しいところの温度差でを引きそうだ。


「ぎっ、ぎぅーっ」


 ポルカの声は楽しそうだけれど、もちろん私の疑問に答えてくれるはずもなくて、真実に辿たどくことはできなさそうだった。


「話を聞いてくれてありがとう。私はお昼ご飯を食べるから、もう行くわね」

「きゅ~」


 ポルカは私に向けて、からっぽのえさおけをひっくり返してみせた。ご飯を全部食べたんだから、おやつをちょうだ――彼女はそう言っているのだ。


「わかったわよ。ちょっと待っててね」


 確か青菜があったはず、とちゅうぼうに入ると、しゃくしゃくと軽快な音と共にふわりとさわやかな香りがただよってきた。ミューティがはじっこに小さく座り、りんをかじっている。今は林檎の季節ではなく、北方から取り寄せたものは高級品だ。実際、指のすきから皮に押された焼き印が見えている。


「旦那様が皆で食べろと取り寄せてくださいました。ついさっき届いたばかりです」

「お優しい方なのね」


 皆と言えば、この屋敷にいる全員――つまりポルカもふくまれるだろう。


「食べるならきますよ。お茶でもお入れしましょうか」

「騎竜はしんまで残さずくだけるから大丈夫よ」


 と返事をすると、ミューティはあいまいなみを浮かべた。何か変なことを言っただろうか、と思いながら木箱から林檎を取り出す。食欲旺盛なポルカに全部見せるとそっくり平らげてしまうだろうから、まずは一つだけ。

 庭に戻ると、ポルカは地面を見つめながら、ゆっくりと歩いていた。

 ――何かを見ている? 目を凝らすと、緑の芝生の間で何かがうごめいているのが見えた。へびかネズミ……いや、違う。

 どうやら、ポルカは巣から落下してしまった小鳥のヒナを追いかけているようだ。小さな生き物をいたぶって遊ぶような性格ではないと思うけれど、小鳥は生きたここがしないだろう。


「ポルカ、林檎よ!」


 声をかけると、彼女はあっさりとこちらに向かってきた。一口で林檎を丸かじりしている間に柵の中に飛び込んで、急いで小鳥を回収する。やはり、まだ巣立ち前のヒナだ。

 極力痛みを感じさせないようにエプロンに包んで、林檎を食べ終えたポルカが「私の縄張りに入ってこないで!」と怒り出す前にさっさとてっ退たいする。


「やっぱり羽が折れているわ」


 手の平に乗せた小鳥はぐったりとしており、庭で親鳥がヒナをさがしている気配はない。このままだとそう長くはないし、今日を生き延びたとしても、野生下ではとても成鳥になることはできないだろう。自然のせつと言えばそれまでだけれども……。

 うまく成長できなくて、弱くて、親に見捨てられて。まるで私みたい。

 そんな感情が胸をよぎって、どうしてもあきらめがつかない。

 じっと見つめていると、ヒナがうっすらとまぶたをあけて、私を見た。まるで「助けて」と言っているみたいだ。

 ――飼おう。


「マーガス様、今少しだけ、お時間よろしいでしょうか」


 書斎の扉をノックすると、マーガス様が思いのほか早く顔を出した。彼の表情に朝のげん名残なごりは見当たらない。


「どうかしたか」


 マーガス様にじっと見つめられて、声が出せなくなってしまった。彼のめいのために言うと、恐ろしいわけではない。ただ、自分に自信のある人は視線をぶつけることにためらいがないのだな、と性質の違いを感じてしまうだけだ。


「話しにくい内容なら、中に」

「い、いえ、すぐに終わります」


 希望を伝える、ただそれだけに、そこまでマーガス様のお時間をうばうことはできない。


「一つ、お願いがありまして……」

「何か思いついたのか。ゆっくり聞かせてもらおう」


 部屋に招き入れられる。マーガス様は大層なないしょばなしだと思っているのかもしれない。


「それで、どうしたんだ」


 しんけんな表情に、なんだかとても申し訳ない気持ちになってくる。


「あの、その……お給金の、前借りを、お願い、したいのですが」


 私の言葉に、マーガス様の目が少しだけ見開かれた。


「どうしても欲しいものがありまして……」


 言ってしまった。言ってしまった! 初日から給金の前借りなんて、浅ましいことを言ってしまった。マーガス様は案の定あきれているのか、まゆをひそめて、言葉もないようだ。

 私のお給金がいくらかはおたずねしなかったけれど、お給金から生活費が天引きされて、今月分はマイナスに違いない。専門的な知識が必要な仕事とは言え、新入りが言っていいことではなかったかもしれない、と不安になる。


「今月が足りなければ、来月分からでも……」


 けれど、小鳥の面倒を見ると決めたのだ。恥ずかしくても、情けなくても、今はマーガス様に頼み込むしかない!


「給金……? ああ、そういうことか。いくらを希望する?」

「ええと……三千ギット……いえ、五千ほどあれば足りるかと」

「随分少額だな」


 マーガス様は胸元やズボンのポケットに手を当てたけれど、ぜには入っていないみたいだった。


「小鳥の身の回りの品と、往復の交通費です」


 小鳥? とマーガス様は首をかしげた。その仕草が、ポルカにそっくりだったので少し笑いそうになってしまう。正しくはポルカがマーガス様のをしているのだろうけれど。


「木から落ちてしまったヒナを拾いまして。面倒を見てやりたいのです」

「ああ……。なるほど。わかった。それ以外は?」


 会話が続くとは思っていなくて、無言になってしまった。他には何か報告はないのか? ということだ。毎回さいなことで指示をあおがれてはかなわないだろう、忙しいのだから。


「林檎をありがとうございました。ポルカは喜んで食べていましたよ」

「……人間用だ」

「ミューティもおいしいと」

「君は?」

「食べていません」


 マーガス様はがっくりと肩を落とした――ように見えた。


「あれは……君のために取り寄せたのだが。気にするだろうなと思って全員分だ、とは言ったが……」

「わ……わざわざ、申し訳ありません。ありがたくいただきます」

「いや。確かに、おくものにしてはいささかわかりづらかった。すまない」


 私が「林檎が好きです」なんてどうでもいいことを口走ったせいだ。余計な気をつかわせてしまった。


「す、好きは好きです。本当に。私は本当に好きなんです」


 苦し紛れで林檎が好きと言ったわけではなくて、本当に林檎が好きなのだ、今は食べる時間がなかっただけで、後でありがたくちょうだいするつもりだと主張したかっただけなのだ

が、あまりに見苦しかったからか、マーガス様は口に手を当て、私から目をそむけた。


「すみません」

「謝る必要はない」


 頭を下げて俯いていると、頰に手を当てられて、びっくりして顔を上げる。マーガス様の瞳がじっと私を見つめていた。

 その寒々しいけれど優しい冬の色をした瞳に、見覚えがあった。一体どこで――?


「給金の前借りだったな。行こう」


 マーガス様がふいと視線を外したので、それ以上おくを辿ることができなかった。

 行こうって、どこへかしら。と思いつつマーガス様の後についていくと、行き先はすぐそばにある私がお借りしている部屋だった。


「鍵束を」


 トランクの内ポケットに大事にしまい込んである、鍵束を取り出そうとする。


「はい……あ、ああっ!」


 かんのためにわずかに開けていた窓から風が入ってきて、鍵束に引っかかっていたウェルフィンの羽根が、ふわりとゆかに落ちた。

 ――まずい。

 里でお預かりした騎竜の亡骸なきがらは私物化してはいけない。きばや羽根を加工するのは主人の特権だ。つまり、これはいくらウェルフィンが直接私にくれたからと言っても、厳密には業務上の横領になるわけで……。


「あ、あのあのその、あのそれはその、えっと」


 マーガス様は羽根を拾い上げ、真剣な表情で上から下から、眺め回している。


「ほ、ほほほ、本人から、貰ったんです。いえ、本竜っ」

「彼から?」


 ぶんぶんと首を縦に振ると、マーガス様はトランクに羽根を戻してくれた。


「申し訳ありません、本当はだと知って……」

「騎竜にだって、自分の意思で何かを選ぶ権利はある。騎竜の羽根は信頼のあかし、幸運のお守りだ。その気持ちを大事にしてやってくれ」

「は……はい」


 どうやら不問に付されたみたいで、ほっとした。

 マーガス様は鍵束の中の一番小さなものを選び取った。どうやら衣装棚の奥にある金庫の鍵だったらしい。中に入っていたふくろから、じゃりと金属がこすれ合う音がした。


「この部屋にこんなに大金が……」


 袋の中に銀貨は入っていなくて、全て金貨らしい。金庫の存在は知らなかったけれど、簡単に入れる所にあるなんて不用心と言うべきか、ブラウニング公爵家のような大貴族にとってはこれは小銭同然なのか。


「ありがとうございます。では一枚だけお借りします」


 一年分のお給金どころではない金貨の圧に、くらくらする。金は魔力を帯びるからそのせいかもしれないけれど。指でおそるおそる一枚つまむ。十万ギット。大金だ。


「君の給金はここに。毎月補充されるようにしよう」

「ま、ま、毎月!?」


 思わず、間抜けな声を上げてしまった。


「そ、そんなはずはありません。これが私の給金だなんて、そんなはずはありません」

「では、君が思うはんりょとしての適切な金額はいくらだ?」

「それは……その……」


 言葉にまった。たとえお給金がなくたって、今の待遇で十分満足している。多少貯金が出来れば、次の仕事に向かう時に大変心強いとは思うけれど、私がいくら欲しいという話ではなくて、マーガス様が自分自身に値段をつけるのだから、私が金額のにごちゃ

ごちゃ文句を言うのはおかしいのかもしれない。

 ――となると。

 きっちりとお辞儀をして、まずはお礼を言う。


「ありがとうございます。しっかり管理して、使うべき時にはご報告します」

「報告はいらない」


 ……使わなければ報告することはなく、マーガス様の手をわずらわせることもない。


「はい。申し訳ありません、マーガス様はお忙しいのに」

「君にく時間はだと思っていない」


 親切な人だ。優しすぎて、失礼ながら軍人には向いていないのかも、と思うほどに。一見とても厳しそうな方に見えてしまうマーガス様だけれど、彼がこんなにも優しいことを、他の人たちは知っているのだろうか。……私がすぐにわかるぐらいだもの、そんなことを感じるのは逆に失礼かもしれない。


さっそく、お買い物に行こうと思います。何かお使いはあるでしょうか」

「特には……。話を聞けば聞くほど、君はれいじょうらしくないな。とことん物欲がない」


 マーガス様の感想はごもっともだけれど、私はそういう風に育てられていない。ただ、それだけのことだ。


「……私は、ごくつぶしですので。家のためにはならないから、ぜいたくはできません」


 マーガス様は私のくつな言動を聞いて、しばらく黙っていた。本当のことを言ったのだけれど、何か、悪いこと、ちがったことを言ってしまった――そんな気がしてきた。


「俺はそうは思わない」


 ゆっくりと顔を上げると、マーガス様は真剣な目で私を見つめていた。


「君は俺にとって必要な人間だ。穀潰しなんて、とんでもない。……どうしたら、そうではないと、理解してくれる?」


 そっと頰に手をえられて、心臓が口から飛び出そうになる。


「い、いえっ! はい、わかりました、理解しました。私は穀潰しなどではありません。誠心誠意、給金分、働かせていただきますっ!」

「そんなつもりで言ったわけではなく……」


 マーガス様は困ったようにほんのわずかに眉を下げて、頰から手を離した。体温が残っているような感覚がして、顔が赤くなる。


「例えば、自由と、大金が手に入った時。何かしてみたいと夢想したりはしないのか」

「夢想……」


 考えを巡らせたが、特に何もなかった。だって、必要なものは全て揃っているし、欲しいもの……れいで立派なに広いお庭、優しいどうりょうに雇い主、そして少し手がかかるけれど、国一番の美しい騎竜。それ以上、一体何を望むと言うのか。


「言ったはずだ。ここにいる間は、望みを全てかなえると。何かして欲しいことは?」


 一つだけ知りたいことがあるとすれば。マーガス様のお気持ちだ。けれどそれは、わがままがすぎると言うもの。


「……いえ。今で十分、満足です」

「それでは……そうだな、朝食用のジャムを買ってきてくれ。味は君にお任せする」

「……はい、わかりました!」


 嬉しい。それなら、私にもできそうだ。どんどん任される仕事が増えて、とても嬉しい。

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