二章 お仕事開始
2-1
「それでは誠心誠意、務めさせていただきます! 何でもお申し付けください」
「あ、ああ……」
仕事用の
「まずはお
と切り出したところに来客を告げるベルが鳴って、マーガス様は顔をしかめた。
「申し訳ない、仕事だ。ひとまず、これを君に預ける」
マーガス様は、
「この屋敷は全て君のものだ」
「はい?」
「アルジェリータ、君は自由だ。
それだけ言うと、マーガス様は部屋を出て行ってしまった。
「……自由?」
自由というのは、聞こえはいいけれど、それと同時に責任が自分に降りかかる。下手なことはできないぞ、と
応接室から出ると、ホールの方角から会話が聞こえてきた。声のする方に向かっていくと、使者の青年と、先ほどのメイドの女の子が口論……いや、おそらくは女の子が一方的に青年を責め立てている。けれど、二人が
「○■▽■……!」
「○▲×……あ、奥様」
青年が話を
「あなたですよ」
マーガス様は俺の妻になればよい、なんてことを言っていた。頭がぐるぐるして、さっきまでは本題に入る前の
「兄貴にムカついたから無視することにしたんじゃないの」
「ところで、そんな所で何をされているので?」
青年の
「今日から騎竜のお世話係として、この屋敷で働くことになりました。よろしくお願いします」
お
「……あの」
「もしかして、あなたは『アルジェリータ』ではない!?」
メイドが
「え、ええと。私がアルジェリータなのですけど」
「ラクティスの
「いいえ、合ってます。多分」
「そうだ。ちょっと目を
「ご、ごめんなさい。早とちりをして」
てっきり放置されたと思い込んでいたけれど、それは私の
彼の名前はラクティス、兄と呼んだメイドの彼女は妹で、
「ほら。ミューティ、そういうことだ」
ミューティと呼ばれたメイドはなおも、
「……でも、ならどうして騎竜のお世話係なんて話に……」
「スカウトされたんです!」
「つまり……あなたはうちの
「いいえ。今日が初対面よ」
二人の口元は笑いをこらえているかのようにきゅっと引き結ばれているけれど、お揃いの黒い
「まあ、
ラクティスは美しい礼をして、そのまま
「まずは何をご用命でしょうか。
「そうね……まず、私、今日からどこで
私の言葉に、ミューティは目玉がこぼれ落ちそうなほど目を見開いた。
「
私は二階の部屋に通された。
「服はここに。色々揃えておきました」
「ええ……」
「気に入らないですか?」
私の反応が
「そんなことないわ。でもね……騎竜のお世話をするには、
「はあ……それ、ほんとの話なんですか? 騎竜の世話って」
「そうよ」
ミューティをじっと見つめる。汚れの目立たなさそうな黒地に、清潔感を足すための白いレースの
上げるのも、
「あなたのと同じ服はないの?」
私の発言に、ミューティは鼻にしわを寄せた。
「これは
「あっ、そ、そう、知らなくて……ごめんなさい」
使い勝手が良さそうだし、それが
「まあ……本当に働くのなら作業着は必要ですけど……」
「もちろん働くわ。……人が居着かないのって、本当の話なの?」
リネン室へ向かう
「いいえ。公爵家ですよ? そんなわけないじゃないですか」
「やっぱり、そうよね」
マーガス様はとても立派な方だ。いくら騎竜が慣れていない人にとっては危険な生き物だとしても、歴史ある公爵家の使用人が対応できないとは思えない。
「旦那様は今、とにかく気が立っていて、放っておいてほしいのだそうです。だからこの家は使用人も少なくスカスカで……まあ
何かマーガス様を
「二人はマーガス様の信頼が
「戦場で知り合ったからじゃないですかね? 気心が知れているというか……」
「戦場で……」
私は戦争を実感したことはないけれど、その言葉にきゅっと心が痛んだ。マーガス様はお
「私と兄は隣国の
……
「私たちにとってはよい職場です。気に入ってくださると
「せっかく招き入れてもらったのだもの、私も信頼していただけるように
制服を受け取ると、ミューティはにんまりと笑った。
「大型新人に期待しています」
ひとりになって、室内を
制服に袖を通す。ぱりっとした生地には一か所のほつれもなくて、
「中々似合っているのじゃないかしら?」
鏡を覗き込んでから、背後の
――今日はもう特にする仕事はないみたいだから、
鼻歌など歌いながら書斎の
「も、申し訳ありませんっ!」
マーガス様が書斎にいらっしゃると思い至らなかったのは、我ながら本当に
「気にしなくていい。屋敷の中では自由にして構わないと言ったのは俺だから」
頭を
「その服はどうした? 何着か
「いえ、作業用に
「そうか。ならいい」
会話が続かなかった。
「あの二人はどうだった? 少し
「いい人たちでした。話しやすくて。騎竜が人間になったら、あんな感じかなと」
マーガス様はどこか不服そうな顔をした。そうすると、年相応の青年に見える。
「騎竜か……言い得て
ああ、またマーガス様の前で変なことを口走ってしまった。これからきちんと、仕事ができるのか、とても不安だ……。
*****
「きゅ、きゅ」と
騎竜は仲間と鳴き声でコミュニケーションを取る││ この声の高さは
「……」
うとうとと再び
甘えるような声は若い個体ね……これは誰だったかしら……おかしいな。里の騎竜たちはほとんどが年老いている。こんなにも元気を持て余した子がいるはずが……。
「はっ!」
意識が
私がするべきことは、ここがどこでも変わらない。
――騎竜のお世話をしなくては! 慌てて服を
ポルカだ。
彼女はなんだかご
応接室の窓からは
「おはよう」
「今日からあなたのお世話係になったの。よろしくね」
「ぎゅっ!」
一歩近寄ると、ポルカは少し毛を膨らませて、低い
私は若い騎竜のお世話をしたことがない。今までお世話してきた
「敵じゃない、敵じゃない……」
言葉が通じたのか不明だけれど、敵意がないと
「昨日も思ったけれど……あなたって、すごく美形なのね」
騎竜の美的感覚はもちろん人間とは違うけれど、さすが騎士様の騎竜とあって、
「きゅっ」
庭先の小屋の鍵は開いたままで、中には歴代のお世話係の書いた
記録の通りに食事
「おかしいわね」
筋肉の付き方や毛艶のよさからして、もっと食欲
片付けようとすると、歯でがっしりと|桶おけ》を
てしまっているだろうから、この仕草は口の中の異物感を伝えようとしているのだろう。
しげしげと口内を
ない。書斎か物置あたりに虫眼鏡でもないだろうかと屋敷に戻ると、マーガス様が階段の
上から腕を組んでこちらを見下ろしていた。
「おはようございます、閣下」
慌てて付け焼き刃のお辞儀などをしてみるけれど、どう考えても様にはなっていないだろう。まともな教育を受けられなかったことに、今更ながらわずかな
「マーガスでいい」
「はい。マーガス様、おはようございます」
「……ずいぶん早いな。まだ朝の六時にもなっていない」
「申し訳ありません。
騎竜の生活に合わせるためには日の出とともに――場合によっては、夜明け前から活動を開始しなければいけない。
「いや。朝が早いのはいいことだ。俺も勝手に目が覚めてしまうしな。通いの使用人はまだ来ていないんだ……食事を?」
「はい。けれど、食が細くて。虫眼鏡を探しています」
私の返答にマーガス様は妙な顔をした。言葉足らずだった。
「ポルカが口の中を気にしているので、見てあげようかと」
「
よく通る声が玄関ホールに
「ひゃっ」
情けない声を上げると、摑まれた手はすぐに解放された。
「すまない。
「
マーガス様は
「ゆっくりしていなさいと、言っただろう」
「鳴いていたので……お
どうやら、マーガス様はポルカの世話をするために起きてきたらしい。
騎竜は危険、そして貴重だ。所有者が明確な騎竜は許可なしに勝手に
今日から仕事に取りかかるのが自然に思えたけれど、それは私の勝手な判断だった。
「申し訳ありません。引
ひ
き継
つ
ぎもなく、勝手なことをして……」
「いや。無事ならいい。噛まれなくてよかった」
「威嚇されましたが、それだけです」
「もう、打ち解けたのか?」
マーガス様は意外そうな顔をした。……私だって、わざわざ騎竜のお世話係として雇われた身だ。若干
「打ち解けた、というわけでも。服従の意思を見せたら受け入れてもらえました」
「
「いいえ」
マーガス様の口ぶりでは、騎竜に髪の毛を引っ張られてとんでもない目にあった女性が
いるようだ。さすがにそこまでする素
そ
振ぶ
りはなかった。私は一応、ポルカに許されている
のかもしれない。
「そうか。多分うまくいくとは思っていたが……安心した」
「よかったです、クビにならなくて」
「君が
どうやら、マーガス様は私とポルカの
がとてもよい。
「きゅっ」
マーガス様がやってくると、ポルカは足をだんだんと
「おはよう」
マーガス様の挨拶に、ポルカは頭を
「ポルカ。アルジェリータがお前の口を見てくれるそうだ。噛むなよ」
いつ私がそんな
ポルカがマーガス様の指示に従って口を開けると、頰の内側に小さな傷が出来ていた。
柵をかじって、
分厚い筋肉と
「確かにな。夜のうちに悪さをしたんだろう……薬をつけるぞ」
「ぎゃっ!」
薬、と聞いた瞬間にポルカが
口の中を怪我した騎竜には
実際、ポルカもマーガス様が
「
「……待ってください。軟膏を塗らずに済むかもしれません」
怪我としては軽度だ。不快感が軽減されて、ポルカの機嫌がよくなればそれでいい。
手の平に意識を集中させ、ぽわっとした、綿毛のような
体の中からかき集めた魔力をポルカの口元に持っていき、
ポルカは自分の身に何が起きたのか確認するかのように、数十秒ほどぱちぱちと
どうやらうまくいったようで、ほっとする。
「ありがとう。すっかり機嫌がよくなったようだ」
なんとかお役に立つことができたようだ。お世話係としては上々の
「ところで……君には
ふとした問いかけに、
いつまで
「すまない。その件に関してはどうこう言うつもりはない」
マーガス様は私が黙り込んでしまったのを気にかけてくださったようだ。
「実はほんのちょっとだけ、あるのです。癒やしの力」
私の魔力は
「
「直接的な解決には、なりませんから……それに、騎竜には効くみたいですけれど、人間にはどうか……」
「人は必要に
マーガス様が、私の手を取った。
「そうすれば、君は正当な評価を得られる。自分で自分の人生を好きに選べるんだ。いや、君が国家治癒師の資格を得たとしても、それよりもいい
「きゅっ!」
ポルカの可愛いらしい鳴き声が会話を
「待っててね。食料庫で騎竜が食べられるものを探してくるから」
騎竜は雑食だ。何かしら与えてもいい食材が見つかるだろう。
「その前に、自分の食事をなんとかしてはどうだ」
マーガス様にそう言われて、急にお腹が空いてきた。考えてみれば、急いで出てきたのでパン一つ口にしていない。
「あ、そ、そう……ですね……」
「ぎゅっ! ぎゅっ!」
お腹は空いた。けれど、ポルカは早く何か持ってこいと私を
「……ポルカが待っているのでその後で」
「ふっ……ははっ……」
――
そんなにおかしなことを言っただろうか?
「すまない。自分のことよりポルカを優先するなんて、おかしな
――それって、マーガス様も
「朝から白身魚のフライだなんて、とっても
私の
「
「嬉しいです」
料理はどれもおいしかった。マーガス様はゆっくりと紅茶を味わっている。私の前にもカップが出されたので、一口飲んでみる。……とてもおいしい。
「お茶を飲み終わったら、ポルカの昼食までどうしていればいいでしょうか?」
「ゆっくりすればいい」
その言葉は昨日も聞いたけれど、マーガス様は私を
「私、騎竜のお世話の他にも色々できると思います」
「色々、とは……例えば、何を?」
マーガス様はちらりと目線を上げて、私をじっと見つめた。
「
「……それでは、手紙が来たらまとめて書斎に持ってきてくれないか」
私の
「はい、わかりました! ありがとうございます」
次の目標が出来たことにほっとする。この調子で、任せてもらえる仕事が増えていくといいのだけれど。
「不安になるのはわかる。俺はせっかちだから、こうしている間にも何か起きているんじゃないか、今のうちになあなあになっていることに着手すればもっと効率がよくなるんじゃないか。そんなことを考えて、いつも落ち着かない」
「マーガス様も、ですか」
私の目には、彼はいつでも自分のやるべきことをわかっていて、迷いがないように見えている。けれど、そうではないらしい。
「あいまいな態度を見せると、部下の士気に
「今日のお仕事は?」
考え事をしていると、庭が一望できる食堂の窓から、ラクティスがぬっと顔を出した。
「ルーティンが終われば自由時間」
「だそうです。では奥様、俺は遊びに行きますね。またお昼に」
ミューティから食事と紅茶の
「……もうこんな時間か。それでは夕食時に、何をしたか聞かせてくれ」
マーガス様は時計を見て、立ち上がった。昼食には顔を出さないらしい。つまり、お話ができるのは今だけ。
「……特に何もなければ、それはそれでいい。……手紙のことはよろしく
「特別なのは、騎士団だけ、ですね」
「ああ。例外はない。たとえ王家でも、だ」
マーガス様は念入りに
とは言っても。いつ手紙が来るのだろうと、まだそんな時間でもないのに私は玄関ホールのあたりを落ちつきなくうろうろしている。
ポルカは朝の運動と食事を終えて満足したのか、
屋敷の中は清潔で、私が手を加えるべき場所は見当たらない。
ゆっくりしろと言われても、何も思いつかない。読書をしようにも、マーガス様は書斎にいらっしゃる。お
――何か、何かないかしら?
動いていないと、妙なことを――自分の先行きだとか、世の中に対する不平不満とか、考えても仕方のないことを考えてしまう。
「何をしたらいいと思いますか?」
なんのあてもなく、ローラン様の
郵便にしては随分と時間が早い。何か重要な急ぎの連絡に違いなかった。
「マーガス・フォン・ブラウニング様にお目通りを」
扉を開けると、そこにはいかめしい顔をした男性が立っていた。美しい
「お手紙は、私が受け取ってお渡しすることになっています」
マーガス様ははっきりとそう言ったのだから、これは不敬にあたらない。しかし、使者の顔には「
「第三王女セレーネ様からの親書です。使用人の手に渡すことはできかねます」
冷たい瞳と、つっけんどんな口調がますます
今は使用人の制服を着ていないけれど、私は「そう」としか見えないのだろう。自分だって納得できないのだ、私がマーガス様に近しい人物に見えるはずがなかった。
「マーガス・フォン・ブラウニング様にお目通りを」
使者はいらいらしたように声を張り上げ、同じ言葉を繰り返した。
「い、今……」
「何の騒ぎだ」
お呼びします、と答えそうになった瞬間。マーガス様が書斎から出てきてしまった。
「この使用人が取り次がないと意味不明なことを申すのです。閣下、このような不出来な人間を取り次ぎに置くのは、ブラウニング家の名前に
「使用人?」
マーガス様がゆっくりと私を見て、思わず目を逸らしてしまう。
「彼女がそう言ったのか?」
「いいえ」
何を明らかなことを――と、使者は
「彼女は私の妻だ」
「は?」
「聞こえなかったか? 彼女は私の妻だ、と言ったんだ」
マーガス様はぐい、と私の
「な……」
何を言っているのだ――と、心の声が聞こえたような気さえした。
「そのような連絡は受けておりませんが」
ごほん、と
「赤の他人に報告をするほど暇ではない。気になるなら本邸に問い合わせろ。ついでに、取り次ぐなと言ったのは私の指示だ」
「……左様でございましたか。大変失礼いたしました。しかしながら、私にも使命があります。どうぞこちらをお納めください」
「受け取らない。それがお返事です、とお伝えしろ」
マーガス様の言葉を聞いて、使者はわなわなと
「それがブラウニング公爵家の総意であると?」
「もちろん」
王女からの書簡を受け取らずに突き返すマーガス様の真意はわからないけれど、何かとんでもなく
使者はこれ以上の押し
「あれだけ言っておけば、もう来ないだろう」
「よろしかったのですか?」
「ああ」
王家とブラウニング公爵家の関係性も、マーガス様の交友関係もわからない。彼がそう決めたのなら、私が口を
「嫌な思いをさせてすまなかったな」
「いえ、
抱き寄せられた肩から指先の熱が伝わって、妙に落ち着かない。もじもじしていると、マーガス様はぱっと手を離した。
「妻だと言ったことが嫌なら謝る」
嫌だ、とかそういう感情ではない。ただただ、わからない、のだ。
「いえ、でも、ど、どうしてですか……?」
騎竜のお世話係が
――理由がわからない。
私の問いに、マーガス様は困った顔をした。
「早朝に話すような内容ではない。……これ以上、君に
――そんなことを、言われても。
「早朝がダメなら、一体何時ならいいのだと思う?」
「ぎゅっ!」
ポルカは昼ご飯を食べながら、私の問いかけに適当な
人間が何らかの鳴き声を発した時は、ほどよく鳴いてやれば喜ぶと学習しているのだ。
「マーガス様って一体、何をお考えだと思う? あなたは
つっけんどんな言動のマーガス様は恐ろしかった。きっと手紙の差出人に対してお怒りなのだと思うけれど、優しいところと、厳しいところの温度差で
「ぎっ、ぎぅーっ」
ポルカの声は楽しそうだけれど、もちろん私の疑問に答えてくれるはずもなくて、真実に
「話を聞いてくれてありがとう。私はお昼ご飯を食べるから、もう行くわね」
「きゅ~」
ポルカは私に向けて、からっぽの
「わかったわよ。ちょっと待っててね」
確か青菜があったはず、と
「旦那様が皆で食べろと取り寄せてくださいました。ついさっき届いたばかりです」
「お優しい方なのね」
皆と言えば、この屋敷にいる全員――つまりポルカも
「食べるなら
「騎竜は
と返事をすると、ミューティはあいまいな
庭に戻ると、ポルカは地面を見つめながら、ゆっくりと歩いていた。
――何かを見ている? 目を凝らすと、緑の芝生の間で何かがうごめいているのが見えた。
どうやら、ポルカは巣から落下してしまった小鳥のヒナを追いかけているようだ。小さな生き物をいたぶって遊ぶような性格ではないと思うけれど、小鳥は生きた
「ポルカ、林檎よ!」
声をかけると、彼女はあっさりとこちらに向かってきた。一口で林檎を丸かじりしている間に柵の中に飛び込んで、急いで小鳥を回収する。やはり、まだ巣立ち前のヒナだ。
極力痛みを感じさせないようにエプロンに包んで、林檎を食べ終えたポルカが「私の縄張りに入ってこないで!」と怒り出す前にさっさと
「やっぱり羽が折れているわ」
手の平に乗せた小鳥はぐったりとしており、庭で親鳥がヒナを
うまく成長できなくて、弱くて、親に見捨てられて。まるで私みたい。
そんな感情が胸をよぎって、どうしても
じっと見つめていると、ヒナがうっすらとまぶたをあけて、私を見た。まるで「助けて」と言っているみたいだ。
――飼おう。
「マーガス様、今少しだけ、お時間よろしいでしょうか」
書斎の扉をノックすると、マーガス様が思いのほか早く顔を出した。彼の表情に朝の
「どうかしたか」
マーガス様にじっと見つめられて、声が出せなくなってしまった。彼の
「話しにくい内容なら、中に」
「い、いえ、すぐに終わります」
希望を伝える、ただそれだけに、そこまでマーガス様のお時間を
「一つ、お願いがありまして……」
「何か思いついたのか。ゆっくり聞かせてもらおう」
部屋に招き入れられる。マーガス様は大層な
「それで、どうしたんだ」
「あの、その……お給金の、前借りを、お願い、したいのですが」
私の言葉に、マーガス様の目が少しだけ見開かれた。
「どうしても欲しいものがありまして……」
言ってしまった。言ってしまった! 初日から給金の前借りなんて、浅ましいことを言ってしまった。マーガス様は案の定
私のお給金がいくらかはお
「今月が足りなければ、来月分からでも……」
けれど、小鳥の面倒を見ると決めたのだ。恥ずかしくても、情けなくても、今はマーガス様に頼み込むしかない!
「給金……? ああ、そういうことか。いくらを希望する?」
「ええと……三千ギット……いえ、五千ほどあれば足りるかと」
「随分少額だな」
マーガス様は胸元やズボンのポケットに手を当てたけれど、
「小鳥の身の回りの品と、往復の交通費です」
小鳥? とマーガス様は首をかしげた。その仕草が、ポルカにそっくりだったので少し笑いそうになってしまう。正しくはポルカがマーガス様の
「木から落ちてしまったヒナを拾いまして。面倒を見てやりたいのです」
「ああ……。なるほど。わかった。それ以外は?」
会話が続くとは思っていなくて、無言になってしまった。他には何か報告はないのか? ということだ。毎回
「林檎をありがとうございました。ポルカは喜んで食べていましたよ」
「……人間用だ」
「ミューティもおいしいと」
「君は?」
「食べていません」
マーガス様はがっくりと肩を落とした――ように見えた。
「あれは……君のために取り寄せたのだが。気にするだろうなと思って全員分だ、とは言ったが……」
「わ……わざわざ、申し訳ありません。ありがたくいただきます」
「いや。確かに、
私が「林檎が好きです」なんてどうでもいいことを口走ったせいだ。余計な気を
「す、好きは好きです。本当に。私は本当に好きなんです」
苦し紛れで林檎が好きと言ったわけではなくて、本当に林檎が好きなのだ、今は食べる時間がなかっただけで、後でありがたく
が、あまりに見苦しかったからか、マーガス様は口に手を当て、私から目を
「すみません」
「謝る必要はない」
頭を下げて俯いていると、頰に手を当てられて、びっくりして顔を上げる。マーガス様の瞳がじっと私を見つめていた。
その寒々しいけれど優しい冬の色をした瞳に、見覚えがあった。一体どこで――?
「給金の前借りだったな。行こう」
マーガス様がふいと視線を外したので、それ以上
行こうって、どこへかしら。と思いつつマーガス様の後についていくと、行き先はすぐそばにある私がお借りしている部屋だった。
「鍵束を」
トランクの内ポケットに大事にしまい込んである、鍵束を取り出そうとする。
「はい……あ、ああっ!」
――まずい。
里でお預かりした騎竜の
「あ、あのあのその、あのそれはその、えっと」
マーガス様は羽根を拾い上げ、真剣な表情で上から下から、眺め回している。
「ほ、ほほほ、本人から、貰ったんです。いえ、本竜っ」
「彼から?」
ぶんぶんと首を縦に振ると、マーガス様はトランクに羽根を戻してくれた。
「申し訳ありません、本当は
「騎竜にだって、自分の意思で何かを選ぶ権利はある。騎竜の羽根は信頼の
「は……はい」
どうやら不問に付されたみたいで、ほっとした。
マーガス様は鍵束の中の一番小さなものを選び取った。どうやら衣装棚の奥にある金庫の鍵だったらしい。中に入っていた
「この部屋にこんなに大金が……」
袋の中に銀貨は入っていなくて、全て金貨らしい。金庫の存在は知らなかったけれど、簡単に入れる所にあるなんて不用心と言うべきか、ブラウニング公爵家のような大貴族にとってはこれは小銭同然なのか。
「ありがとうございます。では一枚だけお借りします」
一年分のお給金どころではない金貨の圧に、くらくらする。金は魔力を帯びるからそのせいかもしれないけれど。指でおそるおそる一枚つまむ。十万ギット。大金だ。
「君の給金はここに。毎月補充されるようにしよう」
「ま、ま、毎月!?」
思わず、間抜けな声を上げてしまった。
「そ、そんなはずはありません。これが私の給金だなんて、そんなはずはありません」
「では、君が思う
「それは……その……」
言葉に
ごちゃ文句を言うのはおかしいのかもしれない。
――となると。
きっちりとお辞儀をして、まずはお礼を言う。
「ありがとうございます。しっかり管理して、使うべき時にはご報告します」
「報告はいらない」
……使わなければ報告することはなく、マーガス様の手を
「はい。申し訳ありません、マーガス様はお忙しいのに」
「君に
親切な人だ。優しすぎて、失礼ながら軍人には向いていないのかも、と思うほどに。一見とても厳しそうな方に見えてしまうマーガス様だけれど、彼がこんなにも優しいことを、他の人たちは知っているのだろうか。……私がすぐにわかるぐらいだもの、そんなことを感じるのは逆に失礼かもしれない。
「
「特には……。話を聞けば聞くほど、君は
マーガス様の感想はごもっともだけれど、私はそういう風に育てられていない。ただ、それだけのことだ。
「……私は、
マーガス様は私の
「俺はそうは思わない」
ゆっくりと顔を上げると、マーガス様は真剣な目で私を見つめていた。
「君は俺にとって必要な人間だ。穀潰しなんて、とんでもない。……どうしたら、そうではないと、理解してくれる?」
そっと頰に手を
「い、いえっ! はい、わかりました、理解しました。私は穀潰しなどではありません。誠心誠意、給金分、働かせていただきますっ!」
「そんなつもりで言ったわけではなく……」
マーガス様は困ったようにほんのわずかに眉を下げて、頰から手を離した。体温が残っているような感覚がして、顔が赤くなる。
「例えば、自由と、大金が手に入った時。何かしてみたいと夢想したりはしないのか」
「夢想……」
考えを巡らせたが、特に何もなかった。だって、必要なものは全て揃っているし、欲しいもの……
「言ったはずだ。ここにいる間は、望みを全てかなえると。何かして欲しいことは?」
一つだけ知りたいことがあるとすれば。マーガス様のお気持ちだ。けれどそれは、わがままがすぎると言うもの。
「……いえ。今で十分、満足です」
「それでは……そうだな、朝食用のジャムを買ってきてくれ。味は君にお任せする」
「……はい、わかりました!」
嬉しい。それなら、私にもできそうだ。どんどん任される仕事が増えて、とても嬉しい。
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