一章 解せない求婚
1-1
――
もしかして夢かもしれない、いつも通りにほの明るくなった空と、
そんな
どうやら早く来てほしい、と言うのは本当のことらしい。
「アルジェリータ。お務めが終わったら、ここに
母の言葉は
「早く行け。誠心誠意、お仕えするようにな。子どもができれば、それはそれでいい」
「……はい」
ほとんど
「アルジェリータ様。お早いお返事をありがとうございます。主人も大層喜んでおりました」
異国からやってきたのか、わずかな
「持参品はそれだけですか?」
他の荷物はないのかと、使者は私の背後を
「このトランクだけです」
片手で持ち上げられる重さのトランクを
「
準備のためのお金を
一体、これからどうなってしまうのか――うまい返事を思いつけずにへらっと笑う。
「左様でございますか」
気のない返事とともに、馬車に乗るように
「必要なものは全てブラウニング家でご用意いたします。くれぐれも、ご心配なく」
乗り込んだ
騎竜の里では
内容は半年前に終結した戦争の勝利を改めて告知するものだ。国の
先の戦争で戦果をあげた勇猛な若き将軍である、マーガス・フォン・ブラウニング――私が嫁ぐローラン様の孫にあたる方だ――が父である公爵様から
『フォンテン
同じく
公爵家には跡取りが他におらず、家を存続させるために
その記事を読んで、不可解な色々に
デリックはことあるごとに、自分はフォンテン公爵家の遠縁だと
彼は次男だ。公爵家から養子の
「なるほどね……」
号外を小さく
デリックが
けれど、デリックのもとに
惑
わく
し、結果二人は「そういうこと」になったのだろう。
「まあ、いいきっかけだと思うべきかしら、ね」
家督相続と私の「新しい就職」のどちらが先かなんて、私には関係のないことだ。
何しろ人間は騎竜と
って││ 私は二度と、あの家には帰らないことにする。
トランクの内ポケットから、銀色の騎竜の羽根を取り出す。
「ウェルフィン。私、あなたが教えてくれた通りに、やってみせるわ。見守っていてね」
決意とともに、羽根をトランクにしまい込んだ。
*****
それにしたってクラレンス家の古びた屋敷よりは
「それでは、失礼します」
使者
庭の
騎竜を愛する人の中には老いた相棒を騎竜の里に預けずに、最後まで
建物に目を向ける。いくつかの窓は開いており、真っ白なカーテンが風にそよいでいた。
窓の向こうに人の気配はなく、公爵家ゆかりの人物が住む屋敷としては不思議なほどの
これからの職場について好き勝手に思いを
――大分待ったような気がするけれど。
使者が戻ってくる様子は一向になく、私を出迎えるためにいそいそと
「あの! 本日からお世話になります、アルジェリータ・クラレンスです!」
最初から
「すみませーん!!」
再び大声で呼びかけると、ゆっくりと扉が開いた。
中から顔を覗かせたのは、若い男性だ。
すらりとした長身に
絵画に
「アルジェリータ・クラレンス?」
少しかすれた低い声が、私の名前を呼んだ。
「は、はい。私が……アルジェリータ・クラレンスですっ!」
背筋を伸ばして返事をすると、青年はふっと目を細めた。
「間近で顔を合わせるのは初めてだな。よく来てくれた」
「いえ……」
「俺はマーガス・フォン・ブラウニング。じき、ブラウニング家を
「将軍閣下でしたか……」
新聞に書かれていたのはこの人だ、と
私は王城にのぼったことがなく、次期公爵である彼の顔を知らなかった。城で
将軍を知らず、ぼけっと
私をじっと見つめるマーガス様から視線を
「軍隊ではないのだから、そうかしこまる必要はない。君も今日からここの住人だ」
その言葉にほっとする。彼は私のことをきちんと知らされているのだ。
「はい、今日からお世話になります。ふつつかものですが、よろしくお願いいたします。まずはローラン様に到着のご
「君は老ブラウニング公の世話をする必要がない」
その言葉は
「……どういうことでしょうか」
だって、私はちゃんと、ブラウニング家の家紋のついた馬車に乗せられて、お屋敷までやってきたではないか。人もいた。何より、マーガス様は私の名前を知っていた。
つまり、私が何のためにここにいるのか、わかっている、はずなのに。
「彼は二週間前に、この世を去った」
時が止まった。思いもしなかった言葉に、私は何も言えないでいる。
「ローラン・フォン・ブラウニングは二週間前にこの世を去った。すでに墓地に
そうしている間にも、マーガス様は
――いけない。
私だって背が低い方ではないけれど、彼は非常に背が高い。このままだと首が
「
なんとか言葉を
「故人の
よどみなく告げられる言葉にはまったく
い方が考えてもおかしくはない。
「左様で……ございますか……」
会話は続かない。状況はわかった。けれど、ならどうして私はここにいるのだろう?
何かの行き違いがあった? 手紙が届くのが遅すぎて、私はローラン様の死に目に間に合わなかったのだろうか。
先ほどまではなし崩しに売り飛ばされてきたとは言え、まだやるべきことがはっきりとしていた。けれど、今はどうだろう。私は寄る辺を失って、宙ぶらりんだ。
――どうしよう。
寒くもないのに、体が
そもそも一文無しだ。そこまでの交通費を一体どうしたものか……。
頭の中でぐるぐると思考を
「なら、どうして迎えの馬車がやってきたと思う?」
マーガス様の言葉にはっと顔を上げる。彼の顔つきは一見
確かにそう。マーガス様は私がやってくることを知っていた。
ローラン・フォン・ブラウニング様が本当に故人ならば、わざわざ
「入りなさい。俺は君を
マーガス様はそう
屋敷の外観は地味と言ってもいいぐらいだけれど、この中は確かに公爵家の領域なのだ。
「……っ」
私が、こんな着古した服装のままで立ち入っていいのだろうか? 裏口に回るべきだろうか?
「今はちょうど人が少なくてな。屋敷の中に入るのが不安なら、テラスでも構わないが」
「い、いえ、ぼーっとしてしまい、申し訳ありません」
私はブラウニング
そのまままっすぐ、マーガス様の後について行き、長い
思わず立ち止まり、まじまじと見つめてしまった。絵の中の人物は老境に差しかかっているけれど、
「祖父の遺言だ。肖像画で失礼、とな。……
その問いに思わず目を伏せた。
「少し……」
写実的な絵は、思わず本人が目の前に現れたのかと驚いてしまうほどだった。
「無理もない。夜に帰ってくると俺でもびっくりすることがあるから」
マーガス様の言葉は
「ここに」
私が通されたのは一階にある応接室だった。一応使用人がいたらしく、程なくしてメイドが一人、飲食物を
年の
「
しげしげと見つめていると、メイドはにこりと
「え、ええ。いただきます」
「後で感想を聞かせてくださいね」
小さなテーブルに
「よろしければ私が……」
給仕のために立ち上がろうとすると、マーガス様に手で
「身の回りのことぐらい自分でできる」
「し、失礼しました」
高位貴族は身の回りの世話を全て人任せにしていると聞いたけれど、戦地に赴くことが多い軍人だとそうもいかないのだろう。マーガス様は長い間厳しい
「早朝から連れ出して、食事を
今まで食べたこともないような高級そうな
「甘いものは
「い、いえ、そ、そんなことは……とても、おいしいです。ただ、食べ慣れていません、ので」
おいしいのは間違いがないはずなのだけれど、じっと見つめられると自分の
「果物の方が好きだったか?」
「は、はい。私は
質問に反射的に答えた結果、なんだか
「
「い、いえっ!
マーガス様に落ち着け、と言わんばかりに手をかざされた。私はまるで訓練でもたついている新入りの騎竜みたいに慌てているのだ。
「すみません」
「……どうにも、俺は人を緊張させてしまうらしい」
なかなかうまくいかないものだ、とマーガス様は紅茶に口をつけた。もう変なことをしないように、マーガス様と
「あ、林檎の香りがする……おいしいです!」
家ではいつも水か出がらし、里では野草茶ばかりだったので、こんなに上等な紅茶が飲めることがとても
「林檎が好きなのは……騎竜と一緒だな」
「は、はい、そうです。騎竜の里には林檎の木があって……それを食べるのが楽しみなのですが、騎竜も林檎が大好きなので、
もうやめようと思ったのに、また彼にとってはどうでもいいことを口走ってしまった。
マーガス様はどうしてこうもまともに話ができない女が連れてこられたのだろうと、きっと
「ここにも林檎の木がある。残念なことに、今は季節ではないが」
「申し訳ありません」
うまく、会話が、できない。
あてが外れて、ここからどうしようか、という大事な大事な局面なのに、こんなしょうもないことしか口にできない自分が情けない。
「謝る必要はない。俺も林檎は好きだ」
私がしょうもないことを口走ったせいで、話が思わぬ方向へ転がっていってしまったけれど、マーガス様はさすが人の上に立つ
「サンドイッチでも?」
「あ、はい。ありがとうございます」
おそらく、言動から私が
「朝から疲れただろう。俺は仕事があるから、ゆっくりしていてくれ。家の中のものは全て自由に使っていい」
私がサンドイッチを食べ終えるや
「ま、待ってください……」
立ち去ろうとしたマーガス様を、思わず引き留める。
「ここで……働かせていただけないでしょうか」
言いにくいことだけれど、これからは自分の力で生きていくと決めたのだから、ためらっている場合ではない。
マーガス様は呼びつけた人物をそのまま突き返すのは失礼だと、家に引き入れて一晩の宿を提供してくださるつもりなのだろう。けれど、それは問題の先延ばしにすぎない。
厚かましいけれど、ここはその優しさに甘えて、一時的に雑用係でもいいから雇ってもらわないと……。
「働く必要はない」
――
「それは……困ります。私、お金が欲しいんです」
食い下がるしかない。ここで
「いくらだ?」
「ええと……五万ギットほど……」
そのくらいあれば、今日明日の宿をとって、騎竜の里行きの貨物馬車に乗ることができる。人出不足の仕事だ、
「そのくらいなら、
マーガス様にとっては数万ギット程度のお金は
「あの……お返しできるアテがありませんので、何か、対価として労働を」
「仕事が欲しいのか?」
「はい」
「それなら話は簡単だ。俺の妻になればいいだけだからな」
と、マーガス様はなんの
「……え?」
「俺と結婚すればよいと言っている」
思わず素で聞き返してしまったが、マーガス様はしれっとした顔で
「わ、私が……マーガス様と……? なん、なん……なっ……なんでそうなるんです?」
昨日からよくわからないことしか起こっていない。とうとう、
「君を呼んだのは、俺だ」
マーガス様はすっぱりと言い放った。彼の言葉にはまったく噓がないように思える。
「な、なぜ……」
「ブラウニング家に嫁ぐためにやってきたのだから、別にそれが俺に変わったところで問題ないだろう?」
「問題は……あるに決まっています」
「例えば?」
まっすぐな視線に
「……そんな冗談を言うのは、よしてください」
「ふざけたつもりはない。それに、問題があります、の答えになっていないが」
「私がブラウニング公爵家に嫁ぐなんて、そんなことを許すはずがありません」
「おかしな話だ。
問いかけに、再び頭がぐるぐるする。確かに、両親も一度は
「私には……とても、務まりそうにありませんので」
しばらく考えたのちに、ようやく答えを絞り出すことができた。私には務まりません。社交界にも出ていないし。これで
「俺が妻に求める条件は二つ。健康であることと、同じ方向を見ていてくれること」
「それだけですか……?」
「
将軍閣下が妻に求める条件にしては、いささか緩すぎるような。それだけでいいなら、マーガス様の
「ああ。これさえ満たせば、あとは君の好きなようにしてほしい。俺は君が望むこと全てに応えよう」
「私の、望み……」
私の望みは、なんだろう。騎竜の里へ帰ること? 衣食住に困らないこと? いや、今はマーガス様の発言について考えよう。そもそも、健康はともかく、同じ方向、とは? まさか方角なはずはない。
「それは一体、どういう……」
そう問いかけた瞬間、マーガス様の背後から、にゅっと黒い
「……っ!」
騎竜だ! それも、とびきり立派で、美しい。ガラス窓の向こうから、興味深げにこちらを覗き込んでいる。マーガス様は、気が付いていないのだろうか?
いいや、ここは町中だ。いきなり野生の騎竜がお屋敷に乗り込んでくるなんてあり得ない。つまりこれは彼にとってなんてことのない
「彼女は俺が戦場で乗っていた騎竜。名をポルカと言う」
マーガス様の言葉に納得する。騎竜と騎士は一心同体の相棒だ。戦時中でなくとも一緒にいるのはおかしくない。これほど広い敷地を有する屋敷なら、庭に放し飼いにしておくことも十分にありえるだろう。
「これからは戦後処理のために王都に
そこでマーガス様は言葉を切った。ポルカが鼻先でぐいぐいと窓を押しているのだ。このままだと圧力でガラスが割れてしまいかねない。
マーガス様が窓を開けると、ポルカはすっと鼻先を室内に
頭をマーガス様にすりつけ、甘える仕草を見せているけれど、
――
冷や汗が流れる。騎竜は情が深い生き物だけれど、ひとたび敵と見なした相手には
「ポルカが君を警戒しているようだが、気にすることはない。他の
「わ……私、匂うでしょうか」
急に恥ずかしくなって、意味もないのに
騎竜は生き物だから、完全なる
「騎竜は鼻がいいからな」
ポルカはマーガス様の話を完全に理解したかのように、すっと窓から顔を離して再び庭へと
「……」
「……」
――何の話をしていたんだったかしら。話がどんどん
ガス様が私を貰ってもいいと
まとめてみると、こんなに都合のよいことが私に起きるはずがなかった。
「あいつは気位が高い。人を見るんだ――君はひとまず、認められたようだ」
「あまり、歓迎されていないように見えましたが……」
「気を
語り口からするに、ポルカは相当元気が有り余っているようだ。彼女のそばに行く時は、気を
マーガス様はカップに口をつけ、ポルカが庭を駆け回る足音に耳を
「ポルカは戦場で生まれ育ち、群れの
マーガス様はカップを置き、小さくため息をついた。
「すぐ暴れる。気に入らない人間がいれば
居着かないのは老将軍のお世話係ではなく、騎竜のお世話係だった、ということだ。
「戦場では勝ち気さは
「マーガス様は、とても騎竜を大事にして……」
いるのですね、と私は無難な相鎚を打とうとした。
「というのは噓ではないが、全てが本当というわけでもない」
マーガス様はいたずらっぽく片方の目をつぶった。
「俺も元々、貴族の社交だなんだは好かん。今は……二人で人間社会に
ポルカはのびのびできるし、マーガス様はお城で
「しかし、ポルカの世話と事務仕事をこなすには体が二つ必要だ」
マーガス様は背もたれに寄りかかり、
「そんな折、とある筋からアルジェリータ、君の話を聞いた。祖父は反対しなかったが……大変申し訳ないが、君の家族には難色を示した」
そこまで聞いて、話がつながった。
マーガス様が何を言わんとしているのかわかったのだ。先ほどの言葉。「君を呼んだのは俺だ」と彼は言った。
同じ方向――つまり騎竜を大事にしてくれるお世話係を探しているのだ、そのために結婚という、重要なカードを切るほどに。
彼はそれだけ、戦場で自分の命を預けた相棒を大切に思っている。
つまりこれは
彼は騎竜のお世話係を探している。私は職がない。能はないけれど、騎竜の世話には一家言ある。
私はマーガス様のために、ここでポルカの世話をすればいいのだ。別に妻の座が欲しいわけではない。ただ衣食住と賃金が保証されれば、私にとってこれより素敵な話はない。
「そうだったのですね、理解しました……!」
「わかってくれたか?」
マーガス様はちらりと私を見やった。その表情にはすでに、初対面の時に感じた
「はい。お任せください。きっとお役に立ってみせます」
「そうか。ありがとう。よろしく頼む」
マーガス様が差し出した手を
だって、彼は私の雇い主なのだから。
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