僕を止めてみせて

青いひつじ

第1話

屋上へ続く階段を登っていく。

壁にでかでかと張られた、立ち入り禁止の文字を無視して、重たい扉を開く。相変わらず今日は朝も夕方もない。ずっと、分厚い灰色の雲が浮かんでいて、街ごと飲み込んでしまいそうな、そんな天気だ。


屋上には初めて来た。緑色のザラザラした地面が広がり、全面に背の高いフェンスが張られている。しかしそれはひどく錆びつき、風が吹くだけで形を変えて、ゆるゆるのネットのようになってしまっていた。指でなぞると赤茶色の錆がついた。


「きったな」


僕は汚れた指をズボンに擦り付けた。指はしばらく鉄臭かった。

あまり管理されていないのか、排水溝にはどこからか飛んできたらしいビニールのゴミと、葉っぱとタバコの吸い殻が絡み合って、まるで僕の心のようにドロドロが溜まっていた。誰にも見向きもされずどんどん濁っていく、僕そのものを見ているようだな、なんて考えていた時だった。


「何してるの?」


突然上の方から声が聞こえて顔を上げると、フェンスの上にひとりの男子生徒が座っていた。両手をついて、空に向かって足をブラブラさせている。少し猫背気味で、黒いサラサラとした髪が風にゆれていた。

屋上にはたしかに僕ひとりだけだったのに、彼はいつからいたのだろう。


「君何してるの?ここ立ち入り禁止だよ」

「え‥‥君こそ‥‥そんなところで何をしてるの」

「何って、見たら分かるでしょ」

彼はそう言うと、ぐっと腕に力を込めて、お尻を浮かせ、前屈みになった。

「あっ!!!」

僕の心臓がドゴドゴと音を立てている。彼は慌てた僕を見て、ニタニタと笑っていた。そしてわざと激しく体をゆらしたり、飛び降りるふりをして、僕の反応を楽しんでいる。フェンスは今にも崩れてしまいそうにギィギィと音を立てた。

「あっ、危ない!危ないよ!早く降りて!」

僕は思わず手を差し出した。

「だったら、止めてよ」

「え?」

「僕がここから飛び降りないように」

「止めてって、そんな‥‥」

「本当は今日だったんだよ。こんな天気だし、背中を押してくれそうかなって思ってここへ来た。でもせっかく君と会えたんだ。少しだけ延長してあげてもいい。だから、僕を止めてみせて」

彼は僕に、自分がここから飛び降りるのを止めてみせろと言ってきた。


「君はここ、座ったことある?」

「あるわけないよ」

「見てみる?どんな景色か」


そう言って今度は、彼が僕に手を差し出してきた。僕は「いい」と断り、へっぴり腰でフェンスに顔を近づけ、5階からの景色を覗いた。彼はそんな僕を見て「怖いんならやめとけば?」と投げるように言うと、体の向きをくるっと変え、ぴょんっとフェンスから飛び降りた。そして「じゃあ、また止めに来てね」と手をヒラヒラ振りながら帰ってしまった。




次の日の夕方、僕は屋上へは行かなかった。

昨日、彼が座っていたフェンスの真下には学校のシンボルである中庭がある。僕はベンチに隠れ、背もたれの隙間から屋上を確認した。しかしフェンスには誰も座っていなかった。

僕は屋上へは上がらず、その代わり、毎日いろんな場所から観察することにした。理科室の人体模型に隠れ、放課後誰もいなくなった3年生の教室に侵入しカーテンに隠れ、廊下の柱に隠れて窓から見たりもした。しかし一度も、あの日のように彼がフェンスに座っているのを見かけることはなかった。




1週間後、僕は屋上の扉を開けた。フェンスの上には、髪をサラサラと靡かせて、気持ちよさそうな彼の姿があった。

「待ってたよー」

彼は、今日のきれいな夕焼けの奥をじっと見つめていた。僕は彼の近くに膝を抱えて座った。

「どうして、今日は来るって分かったの」

「いつもここにいるよ。隠れて屋上観察してたでしょ」

「え!!‥‥気づいてたの?」

「うん。で、止める気になった?」

彼からは全部お見通しだったのかと思うと、コソコソと隠れていたのが恥ずかしい。

「いや、こんなの言うのあれだけど、別に自由にしたらいいんじゃない?」

「へぇ?ほんとに?君は心にこびりついた罪悪感と一生を共にすることになるのに?」

「‥‥君って、かまってちゃんだよね」

「そうだよ。何が悪い。だから君に止めてほしい」

「じゃあ、名前くらい教えてよ」

「それはナシ。別に友達になりたいわけじゃないから」


彼は僕と友達になる気は無いと言った。別にそんなハッキリ言わなくてもと思ったが、僕も彼となかよしこよしをするつもりはない。でも、ならばどうしよう。どうやって彼を引き止めよう。


色々考えた結果、僕は難しいクイズを出して「明日答えを教えて」と阻止したり、「おもしろいゲームを考えたから降りてきて」と阻止したり、何かと理由をつけて彼が飛び降りるのを阻止し続けた。

たまには情に訴えかてみるかと、「君がいなくなったら悲しむ人がいるよ」と言うと、彼は「うぇー、一晩考えたのがそんなベタなセリフかー」と笑った。

僕は、はぁとため息をついて座り込んだ。

「でも本当のことでしょ?だからこんなのやめよ?」

「じゃあ君がいなくなったら誰が悲しむと思う?」

体がピクっとした。そう聞かれて、残念なことに僕は答えることができなかった。むかし、何度か考えたことがある。でも誰の顔も浮かばなかった。僕がいなくなって悲しむ人がいるなんて、一度も思えたことなかった。

「分かんない。友達いないし。僕、家族にも迷惑かけてばっかりだから」

「んじゃあ、聞いてみれば?僕がいなくなったら悲しい?って」

「誰に?」

「そんなの自分で考えて」

彼はそう言うといつものように「また止めにきてね〜」と帰ってしまった。


その夜、晩御飯の片付けをするお母さんの背中に「僕がこの世からいなくなったらどう思う?」と投げかけた。彼の言葉を思い出し、本当に何となく聞いただけだった。

お母さんは、皿洗いをしていた手をピタッと止め、僕の方に近づいてきた。

「今なんて言った」

「いや、だから、僕がいなくなっ」

言葉を言い終わる前に、パァンと音が部屋に響き、頬にチリチリとした痛みが走った。すごく痛かった。頬をおさえて見上げると、お母さんは紡いだ口を震わせ、僕の方をじっと見てから皿洗いに戻った。翌朝もお母さんは怒ったままで、口をきいてくれなかった。



「お母さんにぶたれた」

僕がそう言うと彼は、器用にフェンスの上で週刊の少年誌を読みながら、「えー、なんでー?」と興味なさげに聞いてきた。

「昨日君が言ってたから、僕がいなくなったらどう思う?って聞いたらぶたれた」

「え?お母さんに聞いたの?アホすぎ」

「‥‥!?だって‥‥他に聞ける人いないし‥‥」

「はは。痛かった?」

「そりゃ痛かったよ。君のせいだよ。初めて殴られたんだ」

「そっか。でも、お母さんはもっと痛かったんじゃない?」

そう言った彼は僕の方を見てにこにこ笑っていた。

「どういうこと?」と、僕が聞くと「これあげる」と少年誌をポイっと投げて、帰っていった。




僕たちの戦いは、気づけば1ヶ月が経とうとしていた。屋上へ行くと彼は相変わらず「お、きたきたー」と、フェンスに座り、呑気に手を振ってきた。

「君ってさ、飛び降りるって言う割には、全然そんな様子見せないよね」

僕が以前から気になっていたことを聞いてみると、彼は顎に手を置いて、何かを考えるふりをしてみせた。

「じゃあ、次で最後にしよう」

「え?」

「次、僕を止められなかったら、僕はここから飛び降りる」

「いや、待ってよ。そんな、急に言われても困る」

「でももう1ヶ月も経ったし、時間は無限じゃないんだ。君にちゃんと答えを出してもらわないと僕も困る」




家に帰り宿題を済ませ、ご飯を食べると、すぐお風呂に入り、僕はベッドに横になった。毎晩、白い天井を眺めながら彼を止める方法を考えた。自分でもどうしてこんなに必死なのか分からない。彼を死なせた罪悪感から逃れるため?それは、違う気がする。別にもともと他人だし、彼が飛び降りたって正直僕には関係ないことだ。酷い言い方かもしれないけれど。

「あー、もう、わっかんない!」

ベッドの上で足をドタバタした瞬間、バサっと1冊のノートが落ちた。それは、彼を止めるための作戦を綴ったノートで、表紙には"大作戦ノート"とマーカーで書いてあった。自分で書いたのだが、我ながらダサいと思う。

開くと、激むずクイズ集なるものから、僕が考案した2人でできるゲームの数々、これを言えば彼はこう返してくるだろうという予想をしたもの、彼の性格まで書いてあって、ノートの中の僕は、与えられたこの超難解なミッションを楽しんでいるようだった。

まるで彼から、明日を迎える意味をもらっているかのように、この1ヶ月間の僕は生き生きして見えた。

そして頭の中に、あるひとつの答えと疑問が浮かんできたのだ。




彼からラストチャンス宣言を受けて10日後、僕は答え合わせをしに屋上へ向かった。彼は今日が最後とは思えないくらい、いつもの調子で「やっほー」と手を振ってきた。


「で、僕を止める答えは出た?」


僕はいつものように彼の側に膝を抱え座った。


「答えっていうか、これは僕のひとつの考えなんだけど、僕には君を止めることはできない。だって、それ自体が悪いことだとは思えないんだ。この先の君の人生、何が起こるかなんて誰にも分からない。誰かが責任をとってくれるわけでもない。来世が本当にあったら、今よりもそっちの方が幸せに、楽に生きられるかもしれない‥‥って、僕自身がずっとそう思ってたから」


彼の方を見ると、オレンジ色に染まりながら、懐かしい思い出を振り返るように目を瞑っていた。


「たくさん考えたよ。君を止める答えは出なかったけど、鼻の奥から血の匂いがするくらい考えた。そしたら、思い出したんだ」


止めてくれなんて、本当に死のうと思ってる人はそんなこと言わないと思う。

では、なぜ彼はこんなことをしてくるのか。彼から言われたこと。この1ヶ月間の出来事をなぞっていったら、思い出したことがあった。

最近の僕は、彼のことを止めるのに必死で、明日は何のクイズにしよう、何を伝えよう、どうしたら彼は分かってくれるだろうって、ずっとずっと考えてた。どんな反応するかなと妄想したり、彼と話したりする時間が僕の小さな楽しみにすらなっていた。だからすっかり忘れていたんだ。僕があの日、初めて屋上へ行った本当の理由を。


「あの日ね、こんな天気なら僕の背中を押してくれるかなって思ったんだ。だから屋上に行った。そしたら君がいた」


彼は僕の言葉を静かに聞いていた。


「僕が君を止めていたんじゃなくて、君が僕を止めていたんだよね」


僕がそう言うと、彼は気持ちのよい夕方の風にふかれながら「バレたか」と少し笑った。


「君は誰?」


彼は僕の方を向いて「僕の名前は、瀬野浩介(せのこうすけ)」と言うと、両手を離し、まるで翼でも生えているかのように、ぴょんっと飛び降りてしまった。


「待って!」


彼の姿は一瞬で消えてしまい、フェンスに顔を貼り付けて下を覗いたが、よく見えなかった。

階段を駆け下り、渡り廊下を抜けて、中庭へ向かった。後ろから誰かの「走るなー!」と叫ぶ声が聞こえたが、僕は前だけを見ていた。こんなふうに無我夢中で走ったのは初めてだった。乱れる呼吸をおさえて、中庭に足を踏み入れた。中庭には、いつもと変わらない静寂が漂っているだけだった。



翌日、先生に瀬野浩介という生徒について聞いてみた。彼は15年前、学校の屋上から飛び降り亡くなっていた。その事件の後から、屋上にフェンスが張られるようになったという。


「あそこのフェンス壊れているんで、直した方がいいと思います」


僕はそれだけ伝えて、職員室を出た。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕を止めてみせて 青いひつじ @zue23

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ