第15話 憑く
メモ帳に目を落とす。
Tさんは、社会人一年目だった。もう仕事は辞めてしまい、家に籠もり切りの生活を送っている。原因は不明。身体のどこにも異常はなく、健康そのもの。それでいて、末期の病人のように体は痩せ衰えていくばかりで、生気も感じられない。一人ではとても人間らしい生活を送っているとは思えないのだが、彼女は毎週日曜日。約束の時間になると、必ず喫茶店を訪れてくれていた。先週までは。
仕事の日には必ずつける腕時計の針が刻々と時間の経過を告げる。アイスコーヒーを一口飲んで、スマホの画面を確認する。連絡はまだない。
静かにクラシック音楽が鳴っていた。たしか、ドビュッシーの「月の光」。店内には他に客はおらず、離れたカウンター兼厨房ではマスターが熱心に大きな鍋を煮込んでいた。
視線を戻すと、向かいに彼女が座っていた。微笑みを浮かべて。
「えっ……」
見間違いではない。確かにTさんがそこにいた。寝癖がついたままのボサボサの髪の毛。前髪は垂れて表情はよく窺えない。ダボダボのTシャツから伸びる両の腕は枯れ枝のように細い。異様だが、いつもの彼女がそこにはいた。
「すみません。ちょっと、匂いが気になってしまって」
蚊の鳴くような声もいつも通りだった。決して目と目を合わせようとしないで、少し肩をすくませながら喋るのがTさんの癖だ。
「匂い? 確かにちょっと甘い香りが」
「今日はとても気分がいいんです。なんでしょう。心が軽いというか、心が跳ねるというか」
やや唐突に話すのも癖の一つだ。彼女と話すのは、今日で5回目。こちらとしてはTさんの身に起きたらしい怪異の話を聞きたいだけなのだが、彼女は時折記憶が飛ぶことがあり、また話の流れが掴みづらいこともあって毎週の約束を取り付けて来てもらっていた。
突然、Tさんは両手で耳を塞いだ。
「知ってますか? こうするとゴォーって音が聞こえるんです。これが不思議で落ち着くんですよね」
「あーそれは筋肉の──」
「やってみてくださいよ」
「えっ……と」
「面白いですよ。やってみてくださいよ」
彼女の声色は急に変わることもある。別人かと思うほどにドスの効いた声に。そんなときは、従わなければ気が済まない。
「わかりました」
もう慣れてしまったが、きっともう彼女は憑かれてしまっているのだ。何かに、何か不可解な、不条理な、得体の知れない何かに。容姿を、行動を、性格を、その何かは少しずつ少しずつ蝕んでいき、異常な、それでいて正常な今の彼女へと変容させていったのだ。
だからもうこれ以上聞けることはないのかもしれない。彼女の話から得られるものは無いのかもしれない。
耳を塞ぐ。綺麗なドビュッシーの音色が小さくなっていき、完全に消えた。
消えた?
何の音も聞こえないなんてあり得ない。耳を塞いだら、筋肉の音が聞こえてくるはず。彼女だって、「ゴォー」って。
「─────」
音が聴こえた。身体の内側から。内臓を撫でるように。耳を澄ませると、奥底から微かに音が聞こえてくる。同じリズムでメロディで、何度も何度も。
「────ん」
「───せん」
「──ません」
「─みません」
音に声が乗ったとき。目の前の彼女の顔が上がった。
「すみません」
背中に氷を入れられたように寒気が襲った。背中だけだ。胸はカッと焼けるように熱く、息苦しくなるほどだった。
逃げるべきだということは心臓が叫んでいた。それでも彼女の常闇のような瞳から目が離せない。鼓動がドクドクと強さを増していく。
「……すみません」
声は後ろから聞こえた。
「すみません」
今度は両側から。
耳から両手を離したのに、謝罪の言葉は消えてくれない。それどころか違う声が積み重なり、合唱のように響き合っていく。
「すみません」
「すみません」
「すみません」
「すみません」
聞いたことがある。何度も、何度も、耳にこびりつくほど聞いた。犯した罪を謝る言葉だ。
「今日はとても気分がいいんです。なんでしょう。心が軽いというか、心が跳ねるというか」
目を大きく見開いて、Tさんは、首を傾げた。
「解放されたんだと思います。『すみません』から。知ってますか? 言葉って連鎖するんです。ほら、すみませんって言われたら、すみませんって返さなきゃいけないじゃないですか。すみませんって言ったら、すみませんが溜まるじゃないですか。重くなるんですよね身体が。謝るたびに、重力がのしかかるんです」
何を言っているのかわからなかった。だが、「すみません」の言葉に挟まれて少しずつ少しずつ身動きが取れなくなっていく。
「こういう話を聞いたことがあります。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。五感ですね。この五感のうち、得意な感覚で、人は、怪異を感じ取っていると言われることがあります」
瞬き一つせずに彼女は言った。
「でも、一番怖いのはなんなんでしょう。私はやっぱり、
表情が歪んだ。怒りなのか笑顔なのか、憎しみなのか哀しみなのか、わからない形相で彼女は笑い声を上げた。
「すみません」
私は、そう言うことしかできなかった。
「すみません」「すみません」「すみません」「すみません」──
ふと、笑い声が消えた。店内を見渡せば、月の光が戻ってくる。
終わったのか、夢を見ていたのか。そう思って水を飲めば、なぜかほんのりと甘い香りが漂う。
次の瞬間、自分の口叫び声が上がっていた。開いたメモ帳には、謝罪の5文字が羅列してあった。
憑かれていたのは彼女ではない。憑かれていたのは──。
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