第9話 スメハラ
じめじめとした雨の匂いのする朝だった。一本の電話が慌ただしく鳴った。
「もしも──」
「助けてください! あいつのあいつの臭いが!! うるぼぉわぉぇ──」
それきり電話は切られてしまった。意を決してかけ直してもみたが無機質なコール音が繰り返されるのみ。
発信履歴に名前は表示されていないが、電話の主がSさんだということはすぐに予想がついた。「臭い」と聞いて直近で思い当たるのは彼女しかいなかったし、鼻にかかったような声が電話の声と似ていた。それに電話の直後からなんとも言えない不快な臭い──汗のような口臭のようなはたまた加齢臭のような──が、漂っていた。事態が急変して、以前会ったときに渡しておいた名刺に掛けてきたのだろう。
さて、どうしたものか。助けてと言われても助けられるような能力を持ち合わせているわけではない。と、考えるまでもなかった。
トントンと窓を叩く音がする。だが、ここは4階。窓を叩ける者など存在しない。電話がかかってきた時点でもう巻き込まれてしまったらしい。
彼女、Sさんは市内の大学に通う大学2年生だった。家庭教師のバイトをしているらしく、表向きはおしゃべり好きな快活な性格で、話はいろんな方向へ飛んだ。聞き終わるのに3時間ほどかかってしまったが、主な訴えは一週間ほど前から変な匂いがする、それも決まって夜寝る前に、ということだった。
匂いというものは厄介なもので、見た目には全く異なるものからも同じような匂いが発せられたり、人によって程度が変わるものだが、彼女はそれを「おじさん」のような匂いだと言った。それも、匂うというよりも臭う、つまり悪臭がするのだと。
『心当たりは何か?』
『どこかで嗅いだことはあるんです。だけど……』
「思い出せない」ということで、その日の話は終わった。それから数日。電話先では「あいつが」と言っていたから何か臭いを特定できたのかもしれない。
「205号室」
訪ねることがあるかもしれない、と住所は教えてもらっていた。
「ここか」
ドアノブは回り、ドアが開く。急いでハンカチで鼻を覆った。
予想はしていたが臭いがキツい。それも、例のおじさんの臭いだけではなく、アンモニア臭や錆びた鉄のような強烈な臭いも雑じって。咄嗟に鼻を覆っていなければ、脳天が痺れて気を失っていたかもしれない。
果たして、彼女はソファにもたれかかるように倒れ込んでいた。意識は失い、口から泡のようなものが吹き出ている。息は、ある。それを確認すると救急車を呼んで部屋の窓を全開にした。
部屋中を渦巻いていた臭いが、外へと解き放たれて消えていく。
これは、後日聞いた話だが、
「臭いがキツいおじさんだったんです。家庭教師先のお父さんが。けっこう距離も近くて、いつも嫌だなって。でも、笑顔でいなきゃいけないし、まさか鼻をつまむこともできないし、マスクだって失礼だと思って我慢してたんです。その臭いでした。その臭いのはずなんだけど……」
確認を取ったところ、その「おじさん」は亡くなっていた。一週間ほど前に、自宅の風呂場で。死因は、首を圧迫したことによる窒息死。つまり、首吊り自殺。確実に息絶えるように手首も切り裂いていたらしい。
そして、遺書らしきものには一言。Sさんの名前が書かれていた。
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