第18話 ルールシェイドが踏んでいた(1)

 今晩の予定は、魔物狩り。


 そんな風に、スケジュールがひとつ埋まった。


『ああ、ちょうど良い。ユーリシェラが起きるぞ』


 ヒメカミが、唐突につぶやく。


『それでは、また夜に迎えに来てやろう。準備と覚悟を忘れるなよ、トール』


 さて。


 ここまで、今後のヒメカミとの関係性を方向付けるような会話を、かなりシリアスに続けてきた。その結果には、満足している。


 最悪のパターンで云えば、偽神の使徒には選ばれたものの、ヒメカミの気まぐれで『やはり、取るに足らない存在だったか』などと、いきなり見かぎられ、切り捨てられるようなケースもありえた。


 少なくとも、ここでゲームオーバーにはならなかった。ヒメカミとの協力関係は、薄氷の上で踊るように始まり、くそったれなゲームは続いていく。


 まあ、それは良いのだ。


 残る問題が、ひとつ。


 お忘れではないだろうか?


 ここまでの会話中、俺は、いまだずっと、ヒメカミの足で踏まれ続けている。最後に決意みたいなものを堂々語っていたけれど、あの瞬間もまた、俺の額にはヒメカミのかかとがドンと置かれていた。


 はたから見れば、マヌケの極み。


「ヒメカミ? 待て。おい、ちょっと……」


 そして、今である。


 ヒメカミは『ユーリシェラが起きる』と云った。ああ、マズい。俺は慌ててストップを求めるけれど、なんら意味がなかった。なぜならば、現状、彼女たちの身体の主導権については、ユーリシェラの方にがあるからだ。


 ヒメカミがこれまで顕現していたのは、ユーリシェラが眠っていたからである。


 朝の日差しの中、ユーリシェラが自然と目覚めるときが来れば、ヒメカミは大人しく引っ込むしかない。つまり、俺が「待て」と云っても、ヒメカミは意地悪で無視するのではなく、本当に待つことができないのだ。


 漆黒の髪が、銀色に輝きはじめる。


 瞳は、一度、閉ざされた。


 深い眠りから覚めたように、「ううーん」と、くぐもった声が漏れる。ヒメカミの深淵の底から響くような声ではなく、8歳の女の子らしい、軽やかに鈴を転がすような声だった。


 瞳が、ゆっくり開く。


 闇のグルグル渦巻く瞳ではなく――。


 色素の薄く、ただ透きとおる琥珀の瞳。


「……お兄ちゃん?」


「やあ、ユーリ。おはよう」


 努めて、笑顔で。


 俺は、らしくもないけれど、できるだけ爽やかに朝の挨拶を行ってみた。無駄なあがきとは知りつつも、だ。


「え?」


 ユーリシェラは、目覚めた次の瞬間に、急速冷凍フリーズする。たぶん、最初に心を満たしたのは、驚きだろう。それから、戸惑い。やがて感情と呼べるようなものは形すら失い、言語化できないパニックに陥る。


 ソファーで寝ていたはずなのに、いつの間にか立ち上がっていたならば、それだけでも、びっくり仰天だろう。


 さらに、である。


「わ、わたし、どどどうして? ど、どうして、お、おおお……お兄ちゃんを、踏んでるの?」


 ヒメカミに人の心はないのか?


 ない。


 ユーリシェラが目覚めることで、身体のコントロールを奪取される。流れとして、ヒメカミが悪いわけではない。だが、ほんの少しでも気遣きづかいができるならば、コントロールが失われていく感覚の中でも、ひらりとベッドから飛び降りるぐらいできただろう。


 せめて、俺の顔面から足を避けておく程度の余裕はあったはずだ。


 というか、俺がマズいと気づいて、目の前(文字通り)の足を両手でつかみ、必死に動かそうとした瞬間も、ヒメカミはまったく反応を示さなかった。


 瞳を閉ざす、あの一瞬。


 ニヤッ、と。


 あのバカ、笑いやがった。


 人の心はないのか?


 再考してみよう。


 やっぱり、ない。


 ないくせに、人の心をわかっている。


 つまり、タチが悪い。


 性根が腐っている。


「な、なんで? ……え、わ、わたし、お兄ちゃんが心配で……。そ、それだけだったのに……。お、お兄ちゃんのケガとか、し、死んじゃうのが怖くて、だから――。み、みんな大丈夫って云っていたけれど、わ、わたしはここで、いっしょに……それだけなのに」


「落ち着け。大丈夫だから」


 ユーリシェラの顔は、最初、真っ青になった。


 それから、真っ赤に変わった。


 悲鳴のように、ひとり言を漏らし続けて、言葉をどんどんあふれさせるほどに、目元に涙を溜めていく。俺はもちろん、わかっている。俺が、シーラン森林で意識を失ってしまった後、ヒメカミとバトンタッチするみたいに目覚めたユーリシェラは、たぶん大変だっただろう。


 自分自身も疲れ切っているはずなのに、ここまで寄り添ってくれた。


 感謝しかない。


 ああ、それなのに……。


 優しい妹を泣かせるヤツは、どこのバカ野郎だ?


 ……。


 バカ野郎は、俺とヒメカミである。


 ああ。


 死んで、詫びたい。


 まあ、俺の命には、大した価値もなく――。


 神を殺せる力も、まだ持たないけれど――。


「ごめんなさい!」


 ヒメカミと違って、ユーリシェラはすぐに足を引っ込める。


 怯えるウサギのようにベッドから飛び降りた。


 頭を抱えながら、そのまま一目散に部屋の外に逃げ出してしまった。

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