第12話 ラスボスに踏まれる(2)
銀の天使。
窓辺から差し込む朝日は、まるでスポットライトみたいに、少女の寝姿を照らしていた。
腰元まで長く伸ばされた銀色の髪は、陽光を反射して、澄んだ湖面のように輝いている。大きなソファーで、小さな身体は、猫のように丸まり、寝顔は安らか。
見つめていると、時間が止まりそうだ。
ここに、世界平和がある。
……失礼。
ちょっと、取り乱した。
ユーリシェラ・デスディオン。
俺の、8歳の妹である。
無垢な銀色の髪が、邪悪な黒一色に染まるまでのわずかな猶予で、少しぐらい状況を整理しておこうか。
そもそも、なぜ、ここにいるのか?
城内には、ユーリシェラの部屋も当然ある。現代人の考えるような子ども部屋とは全然違い、それはもう一個人の屋敷のように立派なものだ。
専属の使用人もたくさん付けられており、完全に独立した生活拠点になっている。
家族兄妹だろうと、貴族の感覚では、このような居室はもはや他人の家のようなものだから、気安く上がり込んではいけない。
もちろん、気の置けない仲ならば、許される程度のことだろう。とはいえ、これまでのルールシェイドとユーリシェラの兄妹の関係がどんなものかと云えば、やっぱり没交渉のようだ。
広大な城内では、そもそも顔を合わせる機会が滅多にない。仲が良い、悪いではなく、まるで他人みたいな距離感でやってきた。
それなのに、ユーリシェラはここにいる。
なぜ?
まあ、そんな疑問は野暮か。
シーラン森林で瀕死になり、ずっと気を失ったままの兄に対して、見舞いか、付き添いか……名目なんて何でも良いだろうが、ユーリシェラはいっしょに居ることを選択してくれた。
公爵家の城に帰還した後も、彼女の自室で休むのではなく、俺のそばから離れなかった。ただ、優しい。それだけのことである。
だから、ユーリシェラがこの部屋で眠り込んでいるのは、驚くような事柄ではない。実際、俺が動揺しているのは、ヒメカミのことを考えているからで――。
……。
……いや。
まあ、少なからず。
妹がいる。
ここにいる。
生きている。
その事実に、動揺はあるかも知れない。
……。
……ああ、まったく。
モノクロの記憶の底に沈んでいるもの。
家族との思い出は、骨といっしょに墓の下に埋めたつもりだった。わざわざ心の奥底から、自分の手で掘り返すなんてバカらしい。
いきなり極彩色で浮かんでくるのは、本当に、 勘弁してほしいね。
ユーリシェラの丸まった寝姿。
寝相が悪くて、かけ布団を絶対に蹴落とす習性を備えていたバカな妹。真冬の冷えた朝の空気にも、毎日、我慢大会みたいにその身ひとつで耐えていた。
二人で、ひとつの子ども部屋を使っていた。目覚まし時計が七時ちょうどを知らせると、俺が反射的に止める。一足先に起きれば、向かいのベッドで、妹はいつも、とぐろを巻くヘビのようになっていた。
寒いのをギリギリ耐えているらしく、惰眠にかじり付きながら、その表情は不動明王である。目覚まし時計の音は聞こえているはずだけど、妹は本当のタイムリミット(お母さんが「遅刻するよ」と怒鳴るタイミング)まで起きることはない。
小学生の俺は、毎日のように、ため息を吐きながら――。
兄の優しさで、床に落ちている布団を妹にかけ直してやるかと云えば――。
まあ、そんなことはしていなかった。
兄妹って、そんなものだろう。
妹をキッパリ無情に見捨てて、朝の身支度のために子ども部屋を出ていく。それが、いつもの光景である。ただし、時々、気まぐれが起きる。なんとなく、床に落ちている布団を妹にかけてやることもあった。
寝ぼけた声で、妹から「ありがとー」とつぶやかれる。
本当に、なんでもない一言。
失ってから思い出すと、なぜか泣きそうになる。
だから、沈めてあった。
ユーリシェラは、モノクロの記憶を一気に爆発させてしまう触媒のようだ。色を付けて、音を付けて、匂いと温もりまで思い出させて――。
俺の心は、グルグルとかき乱されていた。残念ながら、落ち着ける暇はなく、ユーリシェラの髪はすべて、漆黒の闇に染まっていた。
タイムオーバー。
ゆっくり開かれていく瞳は、底なし沼。
無闇にのぞき込むと、あっさり呑み込まれてしまいそうな、光なき深淵である。
ユーリシェラだったもの。今は、ヒメカミである少女が、横になっていたソファーから身を起こした。
俺は、相変わらず、ベッドで半身を起こした状態のままである。マヌケな俺の方に、一歩、二歩、ヒメカミは近づいてくる。
『貴様』
至近距離。
開口一番。
目の前に、指を突き付けられる。
剣呑な気配が漂っていた。
捕食者の圧力。
普通に、怖い。
シーラン森林では、対等に渡り合っていただろうって? 生意気な口をきいていた? あれは、土壇場だったからだ。背水の陣だったからだ。すでに死にかけていたから、後先考えずにやりたい放題だったとも云える。
改めて考えると、とんでもない相手なのだ。
世界を滅ぼす存在。
人類種の敵。
復讐者。
最悪のラスボスに、レベル1の悪役貴族ごときがにらみ付けられて、何ができる?
まあ、正直なところ、何もできないさ。
世界的な大企業と零細の町工場みたいなもので、強者のさじ加減で、生きるか死ぬかが決定する。
繰り返しになるけれど。
普通に、怖い。
「ありがとう、助けてくれて」
ヒメカミが何を云い出そうとしているのか、想像も付かないけれど、あちらの話が始まってしまえば、俺から話題を振るチャンスは無くなる。
そう思ったから、とにかく先手を打った。
俺は、生きている。
ヒメカミに、殺されなかった。
答えは出ているので、感謝は告げるべきだ。
『……ん?』
俺の頭を串刺しにするかのごとく、指を突き付けていたヒメカミ。
咎めるような表情が、崩れた。
闇一色の瞳が、ポカンと見開く。
『助けた……。我が、人間を? なんと、まあ……。そのように解釈されるとは、非常に鬱陶しい。ふざけているならば、殺すぞ?』
「いや、真面目だよ。本当に、心底、感謝している」
嘘偽りなく。
正しく。
俺は、ヒメカミの瞳をのぞき込む。
「使徒に選んでくれて、ありがとう。ヒメカミ」
『まずは、口のきき方からだ。様を付けろよ、下僕』
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