第5話 逃走(3)

 足は止めない。


 道なき道を二人で駆けていく。


 木の枝や藪に服が引っ掛かっても、破き捨てて前へ。ユーリシェラの先に立って、できるだけ自分の身体で障害物を受け止めていく。トゲのある植物に皮膚を裂かれる痛みが時々あるけれど、脇腹なんて内臓がこぼれ落ちそうなぐらいなのだ。多少の痛みなんて、徐々に何も感じなくなっていた。


 5分か。


 10分か。


 あるいは、小一時間?


 それとも、10秒や20秒ぐらいしか走っていない?


 悪いけれど、よくわからない。


 バトル漫画のセリフでよくある「血を流しすぎた」とは、こんな感じなのだろうか。最初は、10歳の子どもの身体だから、体力不足で、すぐに息が上がってしまうのかと思っていた。


 よく考えれば、運動不足のアラサー社会人よりも、10歳の生意気なガキの方が元気いっぱいだろう。視界がかすみ始めたのは、さすがに疲れだけが原因とは思えず、血がだらだら流れ続ける傷口を放っておいたツケが回ってきたことに、ようやく気づいた。


 やがて倒れ込むように、巨木の根元に座り込んだ。


 コブのように盛り上がった根っこの隙間に、二人で身を隠した。休憩のつもりだったが、もう二度と立ち上がれないような気分である。荒い呼吸を繰り返す。


 後はもう、ここで祈るしかない。


「お兄ちゃん、大丈夫?」


 妹も、息が上がって苦しそうな表情である。8歳の女の子が、森の中をよく付いて来られたものだ。ガラス細工のように華奢な見た目なのに、それなりの体力はあるらしい。……ああ、いや。違うか。ユーリシェラの身体は、そもそもが――。


「ユー……」


 俺は情けないことに、返事をする力も残っていなかった。


「大丈夫? お兄ちゃん、ねえ、嫌だよぉ……」


 うっすらと、考えている。


 ゲームのルールシェイドは、妹を置き去りにして逃げ出した結果、無事に生き延びている。しかし、10歳の子どもが一人だけで、このシーラン森林を抜け出て、さらに街道をへこたれず歩き続け、人里までたどり着けるだろうか。


 一日か、半日か……あるいは、わずか数時間でも耐え抜けば、予定されていた到着時間を過ぎてもたどり着かない公爵家の馬車に対して、迎えの人間たちが探しに来てくれるのではないか。


 あくまで、可能性の話である。


 でも、そのわずかな可能性に賭けて、今は耐えるしかないだろう。


 問題は――。


 ここまで無茶した俺の身体は、後どれくらい持つだろうか?


「血が止まらない、血が、止まらないよ……お兄ちゃん、死んじゃあ、だめだよ……」


 ユーリシェラは、俺の手を握ってくれている。


 さすがに8歳の子どもに、止血の知識はないだろう。どうしたら良いのか、まったくわからない様子だ。木の根に座り込んでから、彼女はずっと泣いている。


 大きな声で泣きわめけば、追っ手に見つかってしまう。注意するまでもなく、賢い子だった。口元はギュッと閉ざして、涙だけを静かに流す。俺はその顔を見つめている。


「お兄ちゃんに、これ、あげるね」


 妹はドレスの内側から、きらびやかな短剣を取り出して、俺の手に握らせた。本物ではない。刃の潰してあるオモチャだ。


「舞台役者さんがプレゼントしてくれた、今日見た劇の小道具……わたしが貰ったら、お兄ちゃんに『寄越せ』って云われて……嫌だったから、あの時、やめてって云っちゃった。ごめんなさい」


 ああ、さすがルールシェイド。


 俺様のものは、俺様のもの。


 他人のものだって――。


 欲しいと思えば、俺様のもの。


 他人の中に、妹も含まれるのが本当に酷い。


 ゲームで見てきた数々の振る舞いに負けず劣らず、実妹に対しても、悪党で小物なムーブをやらかしていたのか……。まったく……。今では俺自身がルールシェイドなので、なんだか申し訳ない気持ちになってくるから不思議だ。


 余力があったならば、ルールシェイドの代わりに頭を下げていただろう。もうろうとしているので、何もできないのが残念だった。

 

「わたしのもの、なんでもあげる。明日から、ちゃんと、お兄ちゃんの云うこと、なんでも聞きます。だから……お兄ちゃん、お願い、死なないで……」


 兄妹喧嘩なんて、昔は日常茶飯事だった。


 妹は、外では大人しいのに、兄である俺だけには気が強くて、なんだかよくわからないけれど、争い事を積極的に生み出そうとする性質を持っていた。


 こちらの皿のからあげを、無断でひとつ奪うとか。ゲームしているときに、わざとリモコンを踏んでテレビを消すとか。筆箱の中の鉛筆や消しゴムを、妹の持ち物であるピンク色のかわいいやつに入れ替えるとか。


 大体は、俺が父親に報告すると、ピタゴラスイッチみたいに、母親が妹を叱りつけるという流れでオチが付く。


 さらに云えば――。


 叱られてテンションの下がった妹が、何かしらのおわびの品を持ってきて、すべては一件落着となる。


 折り紙のツルだとか、数年前の家族旅行で買ったキーホルダーだとか、本当は父親にあげる予定だっただろう肩たたき券だとか。くだらないものを手渡すことで、どのような理屈か知らないけれど、謝罪の言葉も口に出せるようだった。


 オモチャの短剣。


 俺にはどうでも良いものだけど、受け取る。


「わたしが、一人で街まで行く。誰か、人を呼んでくるから、お医者様も……」


 妹は決意したように、そんなことを云い始める。


 ぼんやりと、俺の思考は続いていた。


 悪い提案ではないと、そう思えた。


 二人で生き延びられるのは、最高だけど。


 たぶん、俺はもう――。


 妹を一人で行かせるのは、もちろん心配だが、敵がいつやってくるかもわからないこの場に留まり続けるよりマシかも知れない。それに、妹がこの場を離れた後には、俺がオトリになれる。わざと音を立てて、こちらの居場所を敵に知らせてやれば、敵の注意はひとまず俺だけに向くだろう。


 妹が逃げられる可能性はグッと高まるはずだ。


「わかった」


 最後の力を振り絞って、妹の背中を押した。


「行ってくれ、頼んだぞ」


「うん、絶対……。絶対に、だれか呼んでくるから……」


 妹がそう云いながら立ち上がり、俺のそばを何歩か離れた瞬間だった。


 肩を貫いた激痛。


 俺は一瞬、気を失う。


 矢。


 何が起きたのか、わからないまま、下手をすれば死んでいたかも知れない。ギリギリ、心臓を外れていた。肩の付け根あたりに突き刺さっている。


 悲鳴と共にのたうち回るべき激痛だったが、もはや、それができる体力も残っていなかった。死ぬ一歩手前の、だらりと力の抜けた身体でゼーゼーと。荒い息に痛みを混ぜて吐き出そうと、それだけしかできない。


「行け……」


 最後できることと云えば、妹に語りかけることぐらい。


「俺は、もう……一人で、走れ。頼む」


 逃げてくれ。


 死なないでくれ。


 お願いだから。


 また、死なないでくれ。


 薄暗い森の木陰から、敵の一団がゆっくり姿を見せ始める。特に、弓を構えている男はニヤニヤ楽しそうに笑っていた。他の男たちも、それぞれの武器を抜き放っていく。怒気の入り混じった殺気。10歳の子どもに一時は出し抜かれたという事実は、彼らのような手だれからすれば恥なのかも知れない。鬱憤を晴らそうとする暗い感情が透けて見えていた。


 この状況から、ユーリシェラが走り出して、逃げ切れるかと云えば――。


 ああ、それでも……。それでも、確率で云えば、零ではないはずだ。奇跡が起きることだって、俺は信じたい。だから、お願いだ。逃げてくれ。逃げてくれなければ、奇跡も何も起きないんだから。


 なあ、ユーリ。


 死なないで。


 だから。


 倒れた俺にしがみ付いて、大声で泣いている場合じゃないんだよ。

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